一輝が久し振りに城戸邸に帰ってきていた。
当然・・ 氷河は不機嫌だったのだが、彼は、瞬のために その不機嫌を顔に出すだけで我慢していたのである。
それが瞬の望みだったから、氷河は、“メンバー全員揃っての和やかな談笑”に付き合うことさえした。
言いたい言葉を懸命に喉の奥に押しやり、瞬が嬉しそうに兄を見詰める眼差しにも文句一つ言わず、苦痛この上ないその状況を 忍の一字で耐えていたのである。

氷河にしてみれば、言葉にできない不愉快不機嫌が顔に出てしまうことくらい、仲間なら黙過すべきだと思っていたのだが、なにしろ氷河のその顔を見るのは氷河自身ではなく、氷河以外の人間――つまりは彼の仲間たちなのである。
引きつりまくった氷河の顔に忍の一字が利かなくなったのは氷河当人ではなく、星矢の方だった。
「あのさー、おまえ、幼稚園のガキじゃないんだから、もう少しオトナな対応ってものができねーのかよ! 最愛の弟をよりにもよってオトコに取られた一輝はともかく、おまえは―― 一輝はおまえの愛する瞬のお兄様なんだから、少しは媚びへつらうくらいのことしてみせたってバチは当たらねーだろ」

氷河や一輝のためというより、犬猿の仲の二人に挟まれている瞬のために、星矢はそう言って氷河を諭したのだが、こればかりは氷河自身にもどうすることもできない問題だったらしい。
瞬が兄を慕っていることどころか、一輝が瞬の兄であるという事実すらも、氷河には腹立ちの種だったのだ。
「瞬を俺にくれたことは感謝しているが」
「くれてやった覚えはないぞ。このこそ泥」
「こいつが俺に撃った幻魔拳のおぞましさ。あの恨みだけは、俺は死んでも忘れん」

自分には瞬の兄を憎む正当な理由があるのだと 瞬に言い訳するように氷河は言い、言った途端に、彼は自分の言葉を後悔した。
瞬が、その言葉を聞くや、悲しげに瞼を伏せてしまったのだ。
「あ……瞬、俺は決して おまえを責めたわけでは――」
「幻魔拳かー。聞くところによると、幻魔拳って すげーひでー技らしいな。傍で見てる分にはちっとも面白くねーけど」
突然 星矢が妙にハイテンションでそんなことを言い出したのは、瞬に追い討ちをかけるためではなく、むしろ その逆―― 一輝が氷河に撃った幻魔拳の話を 幻魔拳一般論にすり替えるためだったろう。
愛憎渦巻くメロドラマには興味のない星矢にも、聖闘士の技の話となると、それは大いに関心のある話題でもあったのだ。

「その人にとっての、最悪の悪夢を見るんだろ。その悪夢って、おまえが作ってるのか?」
星矢に問われたことに、一輝が左右に首を振る。
「いや、撃たれた奴が勝手に、自分の頭の中で、自分にとっての最悪の夢を作り出すんだ。氷河は男としては最低最悪のマザコンだから、まあ、そういう悪夢を見ることになったんだろう」
嘲るように言う瞬の兄に、氷河は、それでなくても不機嫌に引きつりまくっていた顔を更に引きつらせることになった。
瞬のために、罵倒を口にすることだけは かろうじて耐える。

「もう撃つなよ。あの最低最悪の拳を受けたら、今の俺は 瞬が死ぬ悪夢を見てしまう。貴様も、たとえ俺の頭の中のこととはいえ、瞬の死の片棒を担ぐのは嫌だろう」
「む……」
それは確かに氷河の言う通りである。
幻魔拳は、撃つたびに、撃った側の人間も苦い思いを味わうことになる拳だったが、それが最愛の弟の死の悪夢を生む拳となれば、一輝はなおさら その拳を撃つことは避けたかった。

「最低最悪の悪夢かー。俺なら、テーブルいっぱいのご馳走を、目の前で全部サルに食い散らかされる夢だな。俺、間違いなく発狂するぜ」
星矢の悪夢は食欲に直結。
「俺なら、1年丹精してきた畑を収穫直前に洪水で流されてしまう夢あたりか。立ち直るのに半年はかかりそうだ」
紫龍の悪夢は、人の力ではどうにもならない運命を語るもの。
自身の悪夢を語ってから、紫龍はひとり得心したように その顎をしゃくった。
「幸福な家庭はみな似通っているが、不幸な家庭はいずれもそれぞれに不幸――とどこぞの文豪が言っているが、確かに悪夢も人それぞれだな」

人の価値観は人それぞれで、“大切なもの”は人それぞれに異なるのだから、それも道理である。
食欲第一の星矢も、すべての人間が自分と同じ価値観を持っているのではないことくらいは承知していた。
「一輝が自分に撃ったら、氷河とおんなじで瞬が死ぬ悪夢になるのかな。瞬はどんなだ?」
「え?」
その質問を発してから、星矢は、これは実に興味深い問題だと思うことになったのである。
「おまえが見る最悪の悪夢は、一輝が死ぬ夢か、それとも氷河が死ぬ夢か」

それは究極の二者択一。
それがわかれば、瞬の中の兄と恋人のプライオリティが定まり、事あるごとにつの突き合わせている傍迷惑な二人の間に秩序が生まれることになるかもしれない――と、星矢は考えたのだった。
そして、その秩序は世界に平穏をもたらすことになるだろう――と。

「改めて訊くまでもない。俺の死こそが瞬にとっての最悪の悪夢だろう。この馬鹿が死んだところで、瞬には痛くも痒くもないわ。むしろ、真っ当な道が歩めるようになって、瞬のためになるだけだ」
「何を言うか。いつも瞬の側にいない奴がどこでどうくたばろうと、瞬にはどうでもいいことだろう。かえって心配する相手がいなくなって、瞬は肩の荷を下ろせることになる。瞬にとっての最悪の悪夢は俺の死に決まっている」
一輝と氷河は、それが自分のことだから――気楽にその死を語ることができる。
が、瞬は、そうはいかなかった。
互いに『俺の死こそが最悪』と言い張る兄と恋人の間で、瞬は苦しげに眉根を寄せることになった。

「ぼ……僕、どっちも嫌です」
「だから、例え話だよ。どっちがつらいかって」
自分が死ぬわけではない星矢が、浮かれた声で脇から口を挟んでくる。
「どっちもつらいよ。当たりまえでしょう」
「でもさ、そのつらさは違うつらさだろ。全く同じはずないよな」
「それはそうだろうけど……」
「だろだろ。なあ、この際、白黒 決着つけちまわねーか? おまえのいちばんは一輝か氷河か」
「どうして そんなことの決着をつけなきゃならないの」
「そりゃあ、地上の秩序ある平和と、そこに生きる人類が馬鹿げた喧嘩のとばっちりを食わねーためだぜ」

口ではいくらでも尤もらしいことを言えるが、要するに、星矢は、本日ただ今 突然に それ・・が知りたくなってしまったのだった。
他に大した理由はない。
『人はなぜ山に登るのか――そこに山があるからだ』
『明智光秀はなぜ本能寺の変を起こしたのか――そこに天下があったからだ』
そんな単純明快な理由で、人は偉業を成し遂げ、また歴史的大事件を引き起こしたりもするのだ。星矢は、ただ知りたかった。

「一輝、試してみないか?」
「そんなことができるか……!」
興味本位で軽率なことを言い立てる星矢を、一輝は一喝した。
さすがに瞬の兄は、星矢ほど単純な思考回路は持ち合わせていなかったのである。
知りたいから知る――その単純な因果が不幸を招くことがないとは限らないのだ。
無論、星矢が知りたがっていることは、一輝にとっても全く興味のないことというわけではなく、むしろ非常に気掛かりなことではあったのだけれども。

一輝のその微妙かつ複雑な兄弟愛を、星矢は優れた野性の勘で感じ取っていた。
一輝の怒声など屁でもないと言わんばかりに気負いこみ、星矢が鳳凰座の聖闘士に畳みかけていく。
「別に身体にダメージはないんだし、いいじゃん、一回くらい試してみても」
星矢はおそらく、その時 失念していたのである。
その場に、鳳凰座の聖闘士の拳によって最悪の悪夢を見たことのある男が一人 同席していることを。
しかも、その男は、一輝と違って、微妙かつ複雑な兄弟愛など持ち合わせてもいなかった。
彼の中にあるのはただ、鳳凰幻魔拳に対する底なしの嫌悪感だけだった。

「駄目だ! あんな悪夢、瞬には絶対に見せられな――」
その氷河が、断固とした反対意見を途中で途切れらせる。
そうして彼は突然、不気味なほど にこやかな笑みを浮かべて、瞬の兄に提案した。
「一輝。こんなに試したがっているんだ。星矢に一発かましてやれ」
「ああ、それはいい考えだな」
普段は角突き合ってばかりいるくせに、こういう時だけは息が合う。
二人の最悪な男たちに 人の悪い笑顔を向けられた星矢は、逃げるように掛けていた椅子から立ち上がり、素早く一輝の背後にまわった。
その時、兄の真向かいに座っていたのが瞬の不運だった。

「幻魔拳って、鳳翼天翔と違って、あんまり気張らなくても撃てるよな。こうやって、瞬に拳を向けて」
星矢が、一輝の背後から鳳凰座の聖闘士の腕を持ち上げる。
一輝が不愉快そうに その腕を下ろそうとしたのと、
「そんで、小宇宙をぱかーんと発射すればいいんだろ」
と言って、星矢が一輝の後頭部を派手にどついたのが ほぼ同時。
星矢が一輝の後頭部に見舞ったものは もちろん、巨大な岩をも原子の単位に砕いてしまうアテナの聖闘士の小宇宙だった。

「あっ」
瞬が小さな悲鳴を洩らす。
そして、城戸邸のラウンジは、不気味な沈黙で覆い尽くされることになったのである。
瞬の瞳から生気の輝きが消え、変わりに虚ろな霞の膜がおりてくる。
「う……撃っちまったのか?」
星矢が恐る恐る瞬の兄に尋ねたのと、
「瞬っ」
「瞬!」
一輝が弟の名を、氷河が恋人の名を叫んだのが、これまた ほぼ同時。
星矢はもう一輝から返事をもらう必要はなくなっていた―― 一輝の確答がなくても、事態は明白だった。
一輝は、最愛の弟に最悪の拳を撃ってしまったのだ。

「瞬……?」
身体を硬直させ呆然としているような瞬に、一輝が一輝らしからぬ怯えた声で もう一度声をかける。
途端に、瞬はその瞳から涙をあふれさせ、見も世もないといった風情で身悶えるように肩を震わせ始めた。
「いや……いやだ……こんな……いやーっ!」
「瞬っ! 瞬、しっかりしろっ!」

瞬の絶叫と、瞬の兄の慌てふためいた声。
意識を失い その場に崩れ落ちそうになっている弟の身体を支えるべく差しのべようとした一輝の手を、氷河は容赦なく払いのけた。
「この早漏野郎がっ!」
氷河が一輝に向かって投げつけた、あまり上品とは言い難い罵倒を瞬が聞かずに済んだのは、瞬にとっては(氷河にとっても)幸いなことだったかもしれない。

「何なの、今の悲鳴はっ」
瞬の悲鳴を聞きつけた沙織がラウンジに飛び込んできた時、彼女がそこで見たものは、瞬の兄への怒りに燃えて瞬を抱きかかえている氷河と、気遣わしげに瞬の頬に手の甲をあてがっている紫龍、苦しげな表情で眉根を寄せている瞬の兄、そして、きまり悪そうな顔をして その場に立ち尽くしている星矢の姿だった。



「――そんで、気を失ったおまえを部屋に運んで寝かせて、俺たちは別室で沙織さんに説教食らうことになったんだけど……おまえ、その間に目覚めちまったらしいんだよな。俺たちがおまえの部屋に様子を見に行った時には、おまえはもうそこにはいなくて、どこかに消えちまってたんだ」
「最悪の……悪夢――」

信じ難いことだが、信じないわけにもいかない。
何もかもを忘れていた瞬が、ただ一つだけ ぼんやりと憶えていること。
それは、己れの命にも替え難い大切なものを失って、自分の生にはもはや何の価値も意味もないと感じた、その感覚だったのだ。
だが、それが荒唐無稽な技によって作られた幻にすぎなかったのだとしたら、あの絶望の感覚自体が錯覚だったということになる。

「僕はじゃあ、ひとりぽっちじゃないの? あなた方は本当に……僕の知り合いなんですか? 僕の――と……友だちなの?」
「おまえがどう思ってたのかは聞いたことないけど、俺たちはみんなおまえの仲間で、おまえのことが好きだったぜ」
「あ……」
諸悪の根源である星矢の言葉が、瞬の瞳に幾粒もの涙を運んでくる。
「ごめんな。俺、俺のせいで おまえがこんなことになったなんて言いたくなくて、一輝のせいだとも言えなくて、氷河や紫龍は俺たちのこと庇って――それで、おまえにほんとのこと言えずにいたんだ……」

星矢の謝罪など、瞬はいらなかった。
そんなものは欲しくない――もらっても何にもならない。
瞬が欲しいもの、瞬が取り戻したいものは ただ一つ。
「僕は――僕が以前のことを思い出せないのは、僕がそれを思い出したくないからなんだと思ってた……。そうでないのなら――僕は……僕は思い出したい……!」
瞬が取り戻したい ただ一つのもの。
それは、瞬が生きていくための希望、その希望を生むための力の源たちの記憶だけだった。

瞬が望むことなら何でも叶えてやりたい二人の男たちが、その望みを叶える術を持たない我と我が身を憎み焦れているように、切なく身悶え訴える瞬の姿を苦渋に満ちた様子で見おろしていた。






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