女神アテナこと城戸沙織が 彼女の聖闘士たちをラウンジに集めたのは、その翌日。 彼女は彼女の聖闘士たちの顔をひと渡り見まわし、少しく ためらってから、その重い口を開いた。 「私は、ショック療法を試してみてはどうかと思っているの」 「ショック療法?」 「ええ。瞬にもう一度、幻魔拳を受けてもらうのよ。瞬の心身は実際に傷付いているわけではなく、傷付くことを恐れて閉じられてしまっているだけで――それだけだからこそ、こればかりは私の癒しの小宇宙でもどうにもならない。瞬の記憶喪失は、一度 その傷を開いて、瞬自身にその傷を乗り越えてもらわないことには どうにもならないことなのよ」 「しかし……」 アテナの提案に、瞬の兄がためらう素振りを見せる。 「で……でもさ、瞬は記憶を失ってるんだろ。それって、失いたくないものとか壊されたくないものが、今の瞬の中には存在しないってことだろ? 瞬は、悪夢を見たくても見れないんじゃないのか? もし悪夢を見れたとしたって、また悪夢を見せられたせいで、瞬がますます殻に閉じこもっちまったらどーすんだよ。俺、そんなのやだよ」 自分の軽率な好奇心がすべての元凶だったという自覚があるだけに、『もう一度 幻魔拳の作り出す悪夢に耐えてくれ』と瞬に求めることは、星矢にもできそうになかった――できるわけがない。 彼等らしくなく――臆病風に吹かれている鳳凰座の聖闘士と天馬座の聖闘士に、沙織は不思議に優しい笑みを向けた。 が、すぐにその眼差しを毅然としたものに変える。 アテナは、仲間を気遣っていればいいだけの聖闘士たちとは 立っている位置が違うのだ。 アテナは人間たちに試練を与え、人間たちがその試練に打ち克つことを期待する存在。 そういう人間たちをこそ、愛し慈しむ存在なのである。 「人間の記憶というものはね、死ぬまで消えないものなの。ただ脳内に蓄えられている記憶を表層意識に伝達するシナプスが機能しなくなるだけで。瞬の場合は、意識して――というより無意識のうちに、記憶を遮断しているのよ。記憶は瞬の中にちゃんとあるの」 「記憶はちゃんとある……?」 「ええ。で、ここからは私の推察なんだけど……。一輝の幻魔拳で瞬が記憶を失ってしまったのは、瞬が幻魔拳から覚めた時、瞬が幻魔拳の悪夢で失った人が その場にいなかったからだと思うのよ。失われたと思っていたものが本当に消えていたから、瞬は あれは幻影にすぎなかったのだと思うことができなかった。でも、今回は――」 「一輝と氷河を、神社の狛犬みたいに瞬の目の前に並べて置いとくんだ!」 「ええ」 アテナの考えを聞いて、星矢が瞳を輝かせる。 だが、瞬の兄は、それでもまだ不安そうだった。 「一輝と氷河だけじゃなく、星矢と紫龍もついていてあげるといいわ。幻魔拳は、拳を受けた者の肉体には何の影響も及ぼさない技よ。そして、瞬は本来は強い子だと思うの。ただ、その力が一人きりでは――仲間が一緒でないと発揮されないだけ。あなたたちがついていたら、瞬はきっと大丈夫よ。ね、瞬」 「僕――」 『大丈夫よ』と、確信に満ちて断言してくれるこの人を、自分はとても好きだ――と、瞬は思ったのである。 この人が大丈夫と言ってくれるのなら、きっと大丈夫なのに違いないとも思った。 「今の瞬は頼りなくて、俺には とても見ていられない。瞬には俺たちのことを思い出してほしいし、それが瞬のためだと、俺は思う。瞬は悪夢に耐える力を備えているとも思う」 氷河が、アテナの提案に賛同する。 「あ……」 氷河の信頼が嬉しくて、瞬は胸が熱くなった。 どうして この人を忘れたままでいられるだろうかと思い、忘れたままでいるものかと決意する。 氷河は、瞬の強さを信じてくれているようだった。 彼が信じていないのは むしろ、瞬の兄の方だったらしい。 彼は、瞬の上に投じていた視線を瞬の兄の上に移動させ、最愛の弟を再び苦しめることを要求されている不幸な兄を、気の毒そうに見やった。 「問題は、一輝がもう一度 瞬に幻魔拳を撃てるかどうかだろう」 よりにもよって氷河に、自分が気遣われているという事態は、鳳凰座の聖闘士の誇りを甚だしく傷付けるものだったのだろう。 一輝はそういう顔をした。 だが、それでも――たとえ世界で最も憎い男に誇りを傷付けられても――弟の身を案じる兄の心だけは、容易に変えられるものではなかったらしい。 そこまで言われても決意できずにいる過保護な兄に決意を促したのは、他の誰でもない彼の最愛の弟だった。 「そ……その幻魔拳っていうの、僕、受けます! 僕、思い出したい。僕は一人ぽっちじゃないってことを思い出したい! 一輝さん、お願いします!」 「……」 瞬の『一輝さん』呼ばわりに、瞬の兄の傷心は更に増した――のかもしれなかった。 瞬が記憶を取り戻さない限り、永遠に自分は瞬から『一輝さん』と呼ばれ続けることになるのかもしれないという推測は、一輝には あまり楽しくない――否、非常に楽しくない推測でもあったろうが、それよりも。 一輝に再び幻魔拳を撃つ決意をさせたのは、それが瞬の望みであるという事実だったに違いない。 躊躇がないわけではないが、瞬が決意したことである。 それは瞬が望んでいること。 一輝は弟の望みを叶えてやらないわけにはいかなかったのだ。 「わかった」 沈痛な面持ちで頷いた一輝に、星矢が、 「また俺が殴ってやろうか?」 と言ったのは決して一輝をからかうためではなく、最愛の弟に二度までも最悪の拳を撃たなければならなくなった不運な兄に同情してのことだったろう。 そう告げた星矢の声音は気遣わしげなものだった。 が、ここで星矢の親切に甘えるのは卑怯な責任転嫁というものである。 「自分でできる」 一輝は その表情以上に沈痛な声でそう言い、最愛の弟の額の中央に人差し指の先端を軽く押し当てた。 「瞬、許せ」 兄の謝罪を受けた瞬の身体が、一瞬 びくりと震える。 一輝にしては全く派手なパフォーマンスを伴わず、彼の最悪の拳は放たれたらしい。 初めて幻魔拳を受けた時同様、瞬の瞳が涙で覆われ始め、やがてそれは雫となって瞬の頬を転がり落ちた。 虚ろになり、輝きを失った瞬の瞳。 声を発することもできずに震えているかのような その唇。 だが、瞬は、二度目の幻魔拳では悲鳴をあげることはしなかったし、意識を失うこともなかった。 瞬の身体は、氷河の手でしっかりと支えられていたのだ。 瞬の仲間たちが呼吸をすることも忘れたように見詰める中、瞬の瞳に徐々に輝きが戻ってくる。 「氷河……兄さん……」 そうして瞬の唇が悲鳴の代わりに瞬を愛してやまない者たちの名を吐息のように洩らした時、 最初に歓声をあげたのは、この騒ぎのすべての元凶たる某天馬座の聖闘士だった。 「戻った!」 『氷河さん』から『さん』が消え、『一輝さん』が『兄さん』に変わった――つまり、瞬は、失ったものを取り戻したのである。 氷河が言葉もなく すがりつくように瞬を抱きしめる様を見て、一輝はほっと安堵の息を洩らした。 今ばかりは、氷河を瞬から引き剥がそうとは思わなかった。 |