「瞬!」 最初に瞬の視界に飛び込んできたのは、空の色――氷河の青い瞳だった。 その色と輝きだけが、瞬には妙にはっきりと知覚できた。 やがて、彼の金色の髪と、その背後にある光景が少しずつ色と形を成し始める。 大理石のイオニア式の柱、メトープのレリーフ――そこは、聖域の宮のいずれかにある一室のようだった。 天国なら、ここに氷河がいるはずはないし、冥界――死者の国なら、彼の瞳がこれほど明るく輝いているはずがない。 では、これは夢なのか。 自分は死後の世界で夢を見ているのか――そんなことをぼんやりと考えているうちに、瞬の身体に五感の力が徐々に戻ってくる。 「よかった。おまえだけ なかなか目覚めないから、おまえはまた ハーデスの魂にからめ取られてしまったのかと心配していたんだ。よかった……」 照れのせいか気取りのせいなのか、氷河は いつもは、ぶっきらぼうとしか表しようのないやり方で、瞬にその優しさを示してくれていた。 彼の不器用な優しさを、瞬は こそばゆい思いで微笑んで受け取るのが常だった。 その氷河が珍しく、幼い子供のようにストレートに感情を露わにしている。 いったい なぜなのだろうと、瞬は疑ったのである。 自分は本当は、氷河にこんなふうに接してもらいたいと思っていたのだろうか――と。 が、そんなはずはなかった。 瞬は、表に出る態度がどんなに素っ気なくても、ぶっきらぼうでも、氷河が優しいことは知っていた。 その優しさに罪悪感を抱いたことはあっても、不満を覚えたことはない。 では、これはやはり死んだ者が見ている意味のない夢なのだろう。 だとしたら実に妙な夢だと思い、もう一度 目を閉じようとした時、瞬は突然 ある可能性に思い至り、今度こそ その意識を明瞭に覚醒させることになったのである。 ある可能性――とは、つまり、『偽のアテナの聖闘士が死に損ねた』という可能性だった。 「瞬!」 「目覚めたか。瞬、よかった」 反射的に身体を起こした瞬の上に、先に目覚めていたらしい仲間たちの声が降ってくる。 兄は例によって 人目のないところで自身の傷を癒すことにしたのか、その場にはいなかったが、星矢と紫龍はそこで瞬の目覚めを待っていてくれたらしい。 星矢も紫龍も到底 無傷とは言い難い様子をしていたが、だからこそ、彼等が生きていることは明白。 どう見ても ここは天国ではなく、そして、瞬の名を呼んでくれたのは、生きている瞬の仲間たちだった。 その事実を認め、瞬は愕然としてしまったのである。 仲間たちが生きているのは嬉しい。 だが、偽の聖闘士までが生き延びてしまったとは。 偽の聖闘士までが光ある世界に戻り、光の中で再び仲間たちの笑顔に迎えられることになろうとは。 ハーデスとの死を覚悟した時には、その最高の終焉に歓喜した瞬の心が、今は恐怖にも似た思いに支配されていた。 どうして瞬に己れの生を喜ぶことができただろう。 偽の聖闘士は、彼の敵であり味方でもあったハーデスを倒し、彼の力・神の庇護を失った。 瞬は、今は本当に ただの無力な人間で、もう仲間たちを騙すための力さえ持っていないのだ。 「本当に……心配したんだ。よかった……」 氷河の青い瞳が、仲間を騙す術を失った瞬を見詰めている。 いったい自分はこれからどうすればいいのか――。 瞬は、泣きたくなってしまったのである。 偽の聖闘士がハーデスと共に死ぬことで、自分は最後まで彼等の仲間でいられると思ったのに、そんな卑怯を、天は許すつもりがないらしい。 あるいはこれは――偽の聖闘士が生き延びてしまったことは――卑劣非力な人間に野望を砕かれたハーデスの意趣返しなのではないかとさえ、瞬は思ったのである。 アテナとハーデスとの戦いが聖戦と呼ばれている それは、ハーデスこそがアテナの最大の敵であるから――“死”こそが 生きている人間にとっての最大の恐怖であり脅威であるから――だった。 だからこそ、ハーデスの魂をその野望と共に封印することが、その時代のアテナとアテナの聖闘士たちの究極かつ最後の目的なのである。 その戦いが終わった。 アテナは、絶望に対する希望の勝利を誇らかに宣言した。 無論、人間の生は、ある意味では 自らの死の時まで続く戦いなのであるから、ハーデスとの戦いでの勝利によって アテナの聖闘士たちが永遠の平穏を手に入れたことにはならない。 それでも、ともかく、一つの大きな戦いが終わったのだ。 アテナの聖闘士たちには束の間の休息が与えられることになった。 |