『夢みたいに幸せ』
瞬がいるのは幸福な夢の世界、その目に映っているものは美しい夢のような光景。
本当に幸福な夢を見ているように微笑んで そう言ってくれる瞬が、氷河は好きだった。

既に100年以上の長きに渡って――聖闘士が関わるべきものであれ、関わるべきではないものであれ、世界は戦いの殺伐で覆われ続けている。
その戦乱で、瞬と氷河は、まだ幼かった彼等を守ってくれるはずだった親を失った。
庇護者を失った彼等の中にあったものは孤独と不安。
彼等に与えられるものは、その命を永らえることを困難にするほどの貧しさ。
彼等の周囲に確かに存在すると信じられるものは争いばかり。
そんな中で、まだ幼かった二人は出会ったのである。
氷河には、瞬だけが希望だった。

世界中の大多数の子供たちがそうであるように、瞬もまた決して恵まれた境遇に生まれ 生きてきた子供ではなかった。
にもかかわらず、瞬はいつも明るく、しかも美しく、可愛らしくもあった。
瞬を取り巻く世界のありようを思えば、自分が生きていることを、瞬が心から楽しめていたはずはなく、瞬のその明るさは多分に意識して作られたものだったろう。
悲しいことも つらいことも泣きたいことも ひた隠して、瞬は氷河のために明るい笑顔を作る――健気な笑顔を作る。
瞬の明るさは瞬の強さと優しさが作るものだということを、氷河は知っていた。
氷河は、そんな瞬が好きで好きでならなかった。
いつかは、その健気な笑顔を、全く憂いを含まない心からのものにしてやりたいと、氷河はいつも願っていた。
その思いは、共に過ごす時を経るほどに――二人がただの幼馴染みでなくなってからは更に――氷河の中で強まり深まっていった。
その願いは叶いつつある――と、氷河は少し うぬぼれてもいたのだ。

その瞬の姿が氷河の前から消えてしまった――。
聖域の周辺を徘徊していた怪しい者たちの出現が止み、自分たちが感じていた大きな戦いの予感は杞憂にすぎなかったのかもしれないと氷河が安堵し始めた頃、瞬の姿は忽然と、まるで花霞のように消えてしまったのだ。

二人が暮らしていた家で3日、氷河はひたすら瞬の帰りを待った。
やがて、待っているだけでは埒が明かないと悟り、氷河は家の周辺を捜し始めた。
だが、瞬の姿は、捜しても捜しても見付からない。
村の者たちの中にも、瞬の行方を知る者は誰ひとりいなかった。
「そういえば、ずっとあの子の姿を見掛けていないな」
と心配顔に言っていた村人たちは、毎日 朝早くから夜遅くまで瞬の姿を捜し求めている氷河に、やがて、
「綺麗な子だったから……どこぞの神様にさらわれてしまったんじゃないか」
と言うようになった。
つまり、暗に『もう諦めた方がいい』と。

「神にさらわれた?」
そんな馬鹿なことがあるかと、氷河は思ったのである。
氷河と瞬は、二人が暮らす村では、農具や漁具・調理用の刃物を作る野鍛冶とその助手ということになっていた。
が、その“本業”はアテナの聖闘士なのである。
たとえ神の手先が相手でも、瞬が大人しく さらわれたりなどするはずがないのだ。

瞬が本当にどこぞの神にさらわれたのであれば、アテナの力を借りて瞬の行方を捜すこともできようが、そんなことはまずあり得ない。
瞬と氷河は、アテナの聖闘士といっても、その末席に連なる青銅聖闘士で、神が欲しがるほどの特別な力を持っているわけでもなければ、特別な地位に在るわけでもないのだ。
瞬は確かに『綺麗な子』だったが、それは瞬に恋する男にのみ重要な事実であるにすぎない。
瞬は、神にさらわれるような、どんな理由も持ってはいない――はずだった。
だが、だとしたら、瞬はなぜ、それこそ『神にさらわれた』とでも言わなければ説明がつかないほど忽然と、どんな痕跡も残さずに消えてしまったのか。
瞬が自分に愛想を尽かして自ら恋人の許から去っていったのだとは、氷河にはどうしても思うことができなかった。


10日、20日、30日――捜しても捜しても、瞬は見付からない。
瞬の行方が知れなくなってから、ひと月も経った頃には、狂気のように瞬を捜し続ける氷河に、村人たちも、
「もう諦めた方がいい」
と、はっきり言うようになっていた。

そんな頃だった。
村の小さな子供が、人目を避けるように怯えた様子で氷河に近寄ってきたのは。
その子供は、そして、まるで同胞を裏切ろうとしている密告者か何かのように低く小さな声で、
「あのさ、俺、瞬がひと月前に、黒づくめの神様にさらわれていくのを見たんだ」
と、氷河に知らせてきたのである。
「なに?」

「村の外れの野原でさ、瞬は薬草を摘んでるみたいだった。そこに、すごくでかくて黒い馬に乗った神様が 急に空から下りてきて、それで瞬を抱きかかえるようにして、そのままどっかに飛んでいったんだ」
「それは本当か!」
険しい顔で氷河が念を押すと、それまで怯えることしかできずにいたような子供が、急に泣きそうな顔になった。
「ご……ごめんよ! 言うと神様の怒りを買うかと思って、恐くて言えなかったんだ。でも、こんなふうにしてたら、氷河が死んじまうんじゃないかって……。氷河に何かあったら、瞬が悲しむだろ。だから――」
「……」

神や その意を受けた者と拳を交えることもある聖闘士ならともかく、まだ幼く非力な子供には、神の力は ただただ畏れるべきものでしかないだろう。
なぜもっと早く教えてくれなかったのだと 子供を責めることは、氷河にはできなかった。
誰とでも分け隔てなく親しんでいく瞬は、村の子供たちとは特に仲がよかった。
この子供は“仲良しの瞬”のために決死の覚悟で勇気を奮い起こし、氷河の許に来てくれたに違いないのだ。
氷河は、この小さな少年の勇気に、むしろ感謝の念を抱いたのである。
瞬の失踪が神の仕業だというのなら、アテナに助力を乞うこともできるようになる。
捜しても捜しても瞬が見付からぬことに 生きる力を失いかけていた氷河には、子供からもたらされた情報は、希望の光を見せてくれるものだったのだ。

「ありがとう」
子供に礼を言うと、氷河はすぐに自分が為すべきことに取りかかった。
何はさておいても、アテナの許へ。
逸る心を抑えて、氷河は村を飛び出たのだった。






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