氷河の行く手は、だが、彼が村を出て さほども行かないうちに邪魔者に遮られることになってしまったのである。 まるで、氷河がその事実を知ることが何かの合図だったかのように、氷河がその事実を知る時を待っていたかのように、彼等は氷河の前に姿を現わしてきた。 村の西の外れにある草原。 おそらくは、瞬がさらわれた場所に。 とはいえ、氷河の行く手を遮ったのは、あの子供が言っていたような黒づくめの神ではなかった。 人間でないことは確かだったが――なにしろ、彼等には影がなかった――黒ではなく、金色と銀色の若い二人の男。 彼等の実体がここにはないことが、氷河にはすぐにわかった。 この二人も神なのかもしれない――少なくとも彼等は尋常の人間ではない――と、氷河は思うことになったのである。 「貴様等は何者だ」 神かもしれない者たちに対する氷河の口調は、到底 丁寧とは言い難いものだった。 だが、氷河は、実体のない幻影に敬意を払う気にはなれなかったのである。 彼等はアテナの敵であるかもしれないのだから。 氷河の その代わりに、銀色の髪と瞳をした男が、妙に侮蔑的な口振りで、氷河が彼等の正体よりも知りたいと思っていることを教えてくれる。 「おまえの恋人はハーデス様の許にいる。捜しても無駄、取り戻すことは無理だ、諦めろ」 「ハーデス?」 その名を聞いて、氷河は少なからず驚き、そして全身を緊張させることになった。 それは冥府の王の名――アテナとアテナの聖闘士が最後に戦う敵として、アテナがしばしば口にしたことのある、死と死の国を司る神の名だったのだ。 聖域の周辺に鈍色の戦闘衣をまとった怪しげな者たちが現われるようになってから、アテナはその名を口の端にのぼらせることが多くなっていた。 不審者たちがハーデスの手の者と断言することはなかったが、アテナはその者たちの正体に気付いていたのかもしれない――おそらく気付いていたのだろう。 だが、なぜ、ハーデスが瞬をさらうのか。 氷河には、それがわからなかったのである。 瞬は、アテナの聖闘士であるという一点において ハーデスに敵対するものではあるが、彼に致命的な打撃を与えられるような突出した戦闘力を持つ戦士ではなかった――そのはずだった。 瞬がアテナの聖闘士として持つ特殊な力は、戦いを厭い、人を傷付けたくないと願う気持ち。その願いを叶えるためになら命をも投げ出そうという決意。戦士としては弱点にしかならないような戦う姿勢だけだった。 その思い、その願いがあるからこそ 瞬は強いのだということは 氷河も承知していたが、だが、それは冥府の王が最初に倒す敵として瞬を選ぶ理由にはならないだろう。 そう、氷河は思った。 疑念が顔に出てしまったらしい。 氷河の疑念を察しているはずの銀色の神は、しかし、またしても、氷河の疑念に対する答えを返してはこなかった。 そんな答えより氷河が知りたいこと――を、彼は氷河の前に示してきた。 つまり、この ひと月の間 氷河が捜し続けていた人の姿を。 銀色の男が最初に宙に浮かびあがらせたのは、薄墨を落としたように ぼんやりと輪郭がはっきりしない煙の塊りのようなもの――だった。 その薄墨の中に映し出されているものが 石造りの神殿の広間の光景だということを、光を見慣れた目で見極められるようになるまでに、氷河はしばしの時を要した。 アテナのそれとは違う、何か禍々しい装飾が施された玉座に、黒い髪、黒い瞳、黒い衣装をまとった若い男――神なのであれば、その姿の通りに若いはずもなかったが――座っている。 おそらく、それがハーデス――冥府の王なのだろう。 見る者に、金や銀より黒の方が豪奢で格上のものなのだということを嫌でも認めさせるような威厳ある風情をしてはいるが、不思議に不安定な印象もないではない。 傲慢ゆえに孤独をかこつ人間のような目を、その男は持っていた。 その漆黒の神の足許に、瞬は控えていた。 一日たりとも離れたことのない恋人から引き離されたというのに、憂いを全くたたえていない表情で。 憂いもないが生気もない。そんな様子で。 「瞬……!」 ともあれ、瞬は、いずれアテナの敵となるだろう神に 命を奪われてはいない。 氷河は、何よりもまず その事実に安堵した。 生きていてくれさえすれば、希望はいくらでも生むことができる。 「瞬はどこにいるんだ! どこに行けば、瞬に会える!」 「ここから、常人の足で10日ほど北西に行ったところに、ハインシュタイン城と呼ばれる城がある。200年ほど前に、城砦として 人の手で建てられた城だ。そこに、生者の国から冥界につながる道がある。もっとも、ハーデス様に招かれた者でないのなら、生きている者には足を踏み入れることもできない道だがな。神の加護がない者が一歩でも足を踏み入れたなら、まず肉体の死は免れ得ぬ道だ」 「神の加護……」 それならば、ギリシャの神々の中で最も卓越した女神が、氷河にはついている。 知りたい情報を手に入れることさえできれば、幻影にすぎないものに もう用はないと言わんばかりの勢いで、氷河は金と銀の影法師たちの脇を通り過ぎた。 そして、氷河は、彼の女神の許に向かって駆け出したのである。 理由はわからない。 理由はわからないが、ともかく瞬は冥府の王の許にいるのだ。 だとしたら、氷河は、己れの命よりも大切な人を取り戻すために、万難を排して そこに行かなければならなかった。 「アテナの許に行くつもりかな」 神の厚意に『ありがとう』の一言も残さずに駆け出した無礼千万な人間の後ろ姿を見やって、死を司る神が独りごちる。 もっとも、彼が見ているものは氷河の実像ではなく、彼自身の本当の目は、冥界のエリシオンの園にあったのだが。 「タナトス。こんなことをして、ハーデス様に知れたら――」 「では、なぜ止めなかったのだ」 眠りを司る神の非難めいた言葉を、彼は最後まで聞くことをしなかった。 皮肉な眼差しで、金色の神の非難を遮る。 「おまえは、それでも一応は神だ。馬鹿なことはするなと、おまえに命じる権利は私にはないだろう。命じたところで、素直に私の忠告に従うおまえでもないだろうし」 兄弟神の 尤もらしい返答に、だが、死を司る神は、その瞳にたたえた皮肉の色を更に濃くしただけだった。 「俺にまで綺麗事を言う必要はない。ハーデス様は、あんな何の力もない人間の子供のどこがいいのかと、おまえも内心では よい気持ちではいないのだろう」 「……何の力もないことはないだろう。仮にもアテナの聖闘士だ」 「その力も記憶も、ハーデス様は封印してしまわれた。今は、綺麗なだけの ただの子供だ」 「その綺麗なところが お気に召したんだろう」 「ハーデス様の面食いにも困ったものだ。その実、あのお方はご自身より美しい者は 人間の中にも神の中にもいないと信じている。あの方が美しいものを好むのは、要するに自分が好きで好きで たまらないからなんだ」 それがわかっていても、人間ごときに冥府の王の心が向いている この現状は気に入らない。 彼が氷河にその姿を見せ、氷河をけしかけたのは、そのためだった。 ただただ、人間ごときに冥府の王の心が向いている この現状が気に入らないから。 どういう方向にであれ、不愉快な現状が変わってくれれば、それでいい。 さて どういう方向に変わることになるのかと、死を司る神は、極めて無責任な笑みを その口許に刻んだのだった。 |