畏れ多くもアテナの血の加護を受けて、氷河が その命を保ったまま冥界に身を置くことになったのは、それから2日ののち。 生きている者は決して足を踏み入れることのできない場所に 生きたまま立つことになった氷河は、たちまち 先日の金銀の神たちの出迎えを受けることになったのである。 「ほう。やはり来たか。そうでなくては面白くない」 銀色の神は、死の国に現われた氷河の姿に いたく上機嫌だった。 アテナは、氷河が出会った金銀の男たちは、眠りを司る神と死を司る神の双子神だろうと言っていたが、氷河にはアテナの言葉は なかなかに信じ難いものだったのである。 無口な金色の神の方はともかく銀色の神の方は、神が備えているべき(と氷河が考えている)品性を著しく欠いていたのだ。 しかも、この男はあまりにも その言動が軽薄かつ軽率だった。 「冥界には、8つの 「ジュデッカ――。そこに瞬がいるのか」 軽率な神が薄ら笑いを浮かべながら、氷河に瞬の居場所を教えてくれる。 その段になって、氷河は、彼がただの軽率で、氷河の知りたいことを次から次に教えてくれているのではないということに気付いたのである。 彼が、瞬を追って冥界にまでやってきた男を、たかが人間と侮っているのは事実だろう。 だとしても、彼は意図して、その情報を氷河に洩らしているのだということに。 「貴様等はなぜ――」 彼は、今日も氷河が尋ねたことには答えず、氷河が より知りたいことを先走るように氷河に語ってくれた。 「ハーデス様は、美しいものが何より お好きな方でな。もちろん人間も その例外ではない。ああ、だが安心していいぞ。貴様にとっては幸いなことに、ハーデス様は、ご自身の実体を目覚めさせ じかにアンドロメダに触れる気はないようだ。いずれ地上に出てアテナと決戦する際に、ご自身の魂の器となさりたいらしい」 瞬を『アンドロメダ』と呼ぶところをみると、彼等は瞬がアテナの聖闘士だということを知っている。 当然、ハーデスも、それは承知しているのだろう。 にもかかわらず、ハーデスは、(銀色の神の言うことが事実なら)瞬をアテナとの戦いの道具として使おうとしていることになる。 「ハーデスの魂の器だと?」 氷河の反問に、銀色の目をした神は、それまでの上機嫌を突然忘れ、何か唾棄すべきものに出会ったような顔になった。 「光栄に思うがいい。ハーデス様は、気に入った器がないと、アテナとの戦いすら平気ですっぽかしてしまうようなお方だ。どういう基準で選んでいるのかは知らないが、ハーデス様は殊のほかアンドロメダがお気に召したらしく――ったく、気が知れない。神族ならともかく、人間の男ごときに夜ごと犯され喜んでいたような汚れた者に……!」 「……」 それは、氷河こそが言いたい台詞だった。 『ハーデスはなぜ、よりにもよって瞬を選んだのだ』というのは。 そして、氷河は、下品な神に反駁もしたかった。 『瞬の価値がわからないのなら、貴様も大した男ではない』と。 とはいえ、人間が愛する者を抱き、抱かれることを『汚れ』と断じる者に、瞬の清らかさが理解できるとは思えない。 だから、氷河は、彼が理解できずにいることを わざわざ教えてやろうという気にはならなかったのである。 この品性下劣な神はただ、彼が見くだしている人間に 彼の持つ情報を提供してくれればいいのだと、氷河は思った。 「今、アンドロメダは、ハーデス様の力で、地上にいた時の記憶をすべて消し去られてしまっている。自分が人間だったことも、地上にいたことも、貴様のこともすべて――過去のすべてを忘れ、今のアンドロメダは夢の世界を漂っているようなものなのだ。それでも行くのか? アンドロメダは、おまえに会っても、おまえの名前すら思い出せないだろう」 怒りのために言葉が出なくなってしまった銀色の神に代わって、初めて金色の神が口を開く。 氷河は彼に即答した。 「行く。瞬がいないと、俺自身が死んだも同然のものになる」 「結構。人間らしく極めて愚かで――大変結構だ」 金色の神は、見ようによっては 氷河の決意を祝福しているようにも取れる穏やかな笑みを浮かべて そう言ったが、彼が銀色の神以上に 人間というものを侮り見くだしているのは、紛う方なき事実のようだった。 「せいぜい頑張ってみるがいい。あるいは――」 その先の言葉を口にすることは、この冥界では許されることではなかったのかもしれない。 彼は、彼の言葉を途切らせ、ある方向を指で指し示した。 おそらく その先にジュデッカがあるのだろう。 「あるいは……?」 金色の神が視線を投げた氷河が 再び金色の神の上に視線を戻した時、金銀の双子神の姿は 既にその場から消えていた。 氷河の目の前には、薄墨色の冥界の空と 荒涼とした光景だけが残されていたのである。 他にもう一つ、金色の神の告げた言葉が。 『自分が人間だったことも、地上にいたことも、貴様のこともすべて――過去のすべてを忘れ、今のアンドロメダは夢の世界を漂っているようなものなのだ』 「夢の世界か……」 金色の神が残していった言葉を 声にして呟いてから、氷河は唇をきつく噛みしめた。 『夢みたいに幸せ』というのが、瞬の口癖だった。 瞬は、いつも、本当に幸福な夢を見ているような眼差しで、その言葉を氷河に囁いてくれた。 瞬がその言葉を囁く時、瞬は暗に、『僕の夢は叶っている』と氷河に告げてくれていたのだ。 幼い子供を守ってくれるはずの親を失い、非力で不幸な存在だった頃に夢見ていた幸福を、僕は手に入れた――と。 瞬と過ごす時間、瞬と共に在った空間は、氷河にとっても夢のように美しく満ち足りたものだった。 しかし、あれは現実だった――確かな現実だった。 氷河にとっては、今 彼が一人で立つことを余儀なくされている この冥界こそが夢だった。 しかも、これは、どう考えても 極めつけの悪夢である。 その上、瞬までが、同じ悪夢の中にいるのだ。 だが、会うことさえできれば、瞬は必ず まやかしの夢から覚めてくれるだろう。 そうして、瞬は、瞬を愛し必要としている男の存在を思い出してくれるに違いない。 そう信じて、氷河は、瞬が冥府の王と共にいるというジュデッカを目指して走り始めたのである。 希望が叶うことを信じるのではなく――信じるという行為そのものが、今の氷河にとっては希望そのものだった。 |