冥界には太陽がない。
当然のことながら、日が昇ることもなく日が暮れることもなく――氷河は朝や夜の訪れによって時間の経過を確認することができなかった。
その上、本来 生きている者が存在するはずのない世界では、人間の肉体の新陳代謝すらも止まってしまうものらしく、氷河の中には眠りを求める気持ちも湧いてこなかった。
肉体が疲れを感じないことは助かるのだが、肉体で時間を感じることもできない。

そんなふうに時間の推移を確かめられないところに、この死者の国では、起伏があるにもかかわらず、似たような色の似たような風景ばかりが続く。
それは、限りある生ではなく 永遠の死のためにある世界にはふさわしいものなのかもしれなかったが、そういった冥界のありようは、生きている人間には苦痛以外の何ものでもなかった。

金銀の双子神も、ハーデスの力が行き渡っている冥界では そう迂闊なこともできないのか、あるいはハーデスの怒りを買ってしまったのか、すっかり鳴りをひそめて、あれ以降、彼等が氷河の前に姿を現わすことはなくなった。
あまりの変化のなさに、氷河は、いっそ自分の行く手を阻む敵が現われてくれたなら 憂さ晴らしになるのではないかという考えを抱くようにさえなっていったのである。

肉体ではなく――氷河は精神の方が疲れ始めていたのかもしれない。
それほど長い間、氷河は死者のための国を走り続けた。
氷河には半月にも ひと月にも感じられる その時間が、だが、実は ほんの1日にすぎないかもしれないのである。
自分がいったいどれだけ走ったのか、少しでも瞬に近付くことができているのか、こうして駆け続けていれば 自分は本当に いつかは瞬のいる場所に辿り着くことができるのか――。
そんな疑いが生まれるたびに、氷河の精神面での疲れは いや増しに増すことになった。
だが、瞬を諦める心だけは生まれてこない。
瞬を諦めるくらいなら、いっそ ここで死んだ方がましだという思いが、氷河の足を前に運んでいた。


氷河の視界に映るものが一変したのは、氷河の主観で1ヶ月――実際には1日にすぎなかったのかもしれないが――の時が過ぎた頃だった。
ほんの1秒前――実際には1年前だったのかもしれない――には、氷河は両脇に険しい崖のそびえ立つ谷底を走っていたはずだったのに、ある一歩を踏み出した途端、彼は、古代の遺跡のように仰々しい石造りの神殿の広間の中央に立っていたのだ。
いったい何が起こったのかと訝る氷河の上に、若いのか老いているのか判別の難しい男の声が降ってくる。
その声は、あまり機嫌がよさそうではなかった。

「放っておけば、疲れて諦めるかと思っていたのに、ちょろちょろと目障りな」
声は、以前 金銀の神が氷河に見せてくれた漆黒の神のものだった。
そして、その口振りから、氷河は知ることになったのである。
氷河をこの神殿に導いたのは、彼自身の足ではなく、冥府の王の意思だったということを。
彼は氷河に苛立ったわけではなく、もちろん氷河を哀れんだわけでもなく、自ら引導を引き渡すために、氷河をこの場に運んだものらしかった。
だが、そんなことは、氷河にはどうでもいいことだった。
本当にどうでもいいことになった。
漆黒の神が座している禍々しい玉座の横に立つ瞬の姿を認めた瞬間に。

「瞬!」
感極まった氷河に 名を呼ばれても、瞬は無反応だった。
ただ突然 目の前に“見知らぬ男”が現われたことには 驚いていないでもないらしい。
一度 大きく瞳を見開いてから、瞬は、氷河にではなくハーデスに尋ねた。
「こちらはどなた。ハーデス様のお知り合い?」
瞬は氷河を敵と見なしてはいないようだったが、氷河を映す瞬の目は どう見ても他人を見る目だった。

「余は知らぬ。このような者――生きている人間など、余が冥界に招くはずもない。おそらく、そなたに会いたいの一念で この冥界にまでやってきた、そなたに恋焦がれている男だろう」
「まさか」
ハーデスの冗談に、瞬が軽く微笑する。
だが、事実を冗談にされ、しかも瞬に それを軽く・・笑って済まされてしまうなどという状況は、氷河には、それこそ笑い事ではない事態だった。

「瞬、思い出してくれ! 俺だ。氷河だ!」
「氷河……?」
必死の形相で、氷河は、ハーデスの横に立つ瞬に訴えたのだが、瞬は氷河の名を聞いても何も感じるものがなかったらしい。
氷河の姿を見ても無感動無反応な瞬が、名前ごときに反応してくれるとは氷河も思ってはいなかったが、瞬があまりに無邪気な様子で首をかしげる様を見せられて、氷河は少なからぬ失望を味わうことになったのである。

「おまえはアテナの聖闘士だ。ハーデスなんかのしもべじゃない! なのに なぜ おまえはハーデスの側にいるんだ!」
「あなたは何を言っているの。僕は生まれた時からハーデス様のお側にいて、これまでずっとハーデス様にお仕えしてきました」
「違う! おまえは聖域近くの村で生まれた。両親は戦乱に巻き込まれ、幼いおまえを残して亡くなった。おまえは、貧しくて、無力で、虐げられて――不遇な子供時代を過ごした。だから、自分のような子供をこれ以上 増やすまいと決意して聖域に行き、つらい修行に耐え、アテナの聖闘士になったんだ」
「聖闘士……それは何?」
「瞬……っ!」

『氷河』を忘れることは致し方ないとしても、『アテナ』の名にまで無反応とは。
瞬がアテナのことまで忘れてしまっているというのなら、それは瞬が かつての自分の生きる目的までをも忘れてしまっているということである。
いっそ死んでしまった方がどれほど楽かと思える不遇と不幸の中で、それでも瞬を生かし続けた希望と夢を、瞬はすっかり忘れてしまった――ということだった。
幼い頃に つらかったこと、寂しかったこと、同じように孤独だった二人が出会って恋に落ちたこと、二人が出会うためだったのだと思えば 過去に寂しかったことすら美しい思い出に感じられるようになったこと――すべてを瞬は忘れてしまったということ。
『夢みたいに幸せ』
過去と未来への万感がこもった あの切ない口癖すら、瞬はもう忘れてしまった――瞬の唇が あの言葉を囁くことは もう二度とない――ということだった。

「瞬……おまえは今 幸せなのか」
「幸せ?」
瞬は、問われたことに答えてこなかった。
頷くことも、首を横に振ることもしなかった。
答える以前に――瞬は、氷河が血を吐く思いで口にした問いかけの意味さえ よく理解できなかったのだろう。
瞬はそういう目を氷河を向けてきた。
答えられない瞬の代わりに、ハーデスが瞬の幸福を語り始める。

「余の許にいれば、瞬は憂いなく生きて・・・いられる。戦いに駆り出されることもない。戦の悲惨を嘆くこともない。命がけの戦いをすることもなく、その戦いで敵を傷付けたことに傷付くこともなく――ここは悲しみも苦しみもない無憂の宮だ。ここにいれば、瞬は永遠に幸せでいられる」
「悲しみや苦しみのないことが幸福だとでもいうつもりかっ」
「悲しみや苦しみしかない地上に比べれば、ここは はるかに幸福に近い場所だ。ここで瞬は初めて、そして永遠の幸福を手に入れるのだ――」
「それを 生きているとは言わんっ!」

大理石の壁と床と柱。他にはハーデスの玉座があるだけの空虚な神殿に、氷河の怒声が木霊する。
氷河の剣幕に驚いたのか びくりと身体を震わせた瞬は、その右の手で自分の胸を押さえた。
恋人を失う予感に苛立つ男の声が――おそらくは単純にその声の大きさが――つらいことを味わったことのない か弱い瞬の心臓には 大きな衝撃だったのだろう。
「あの……怒らないで。あなたは何を怒っているの」
「生きている人間は激しやすいのだ。地上は悲惨で醜い争いばかりで つらいことが多すぎる。心穏やかに過ごせる場所ではないのだ。そういう場所で長く暮らしていれば、心もすさみ、些細なことで気を荒げる生き物ができあがる」
「あ、それなら……もしよろしければ、そんなところには帰らずに、あなたもここで暮らすことになさっては? ここでは心穏やかに幸せに暮らしていられます。ハーデス様はお優しい方ですから、きっと快く お許しくださるはずです」

小首をかしげた瞬に窺い見るような視線を向けられたハーデスは、あろうことか、瞬の提案に鷹揚に頷き返すことをした。
「それはよい考えだ。必要以上に瞬に近付かないと約束するなら、そなたが冥界に留まることを許してやってもよいぞ。そなたも なかなか美しいからな」
「心穏やかに幸せに?」
ハーデスの戯れ言が氷河の耳に届くことはなかった。
瞬が事もなげに口にした言葉が、氷河の聴力と思考を独占していたせいで。

「地上は戦いで覆い尽くされている。傷付き苦しんでいる者が大勢いる。それを忘れて、自分だけが幸せならそれでいいと、おまえは言うのか――おまえが言うのか!」
「え……」
自分が 人に責められるようなことを言った自覚が、瞬にはなかったらしい。
瞬は、氷河の面詰に 怯え戸惑ったような様子を見せた。

「そんなのは、俺が好きになった瞬じゃない!」
「あ……あの……」
「おまえは俺の瞬じゃない……」
最初は瞬に宣告するために、次には自分に言いきかせるために、氷河は同じ言葉を呻くように二度繰り返した。

途端にハーデスが勝ち誇ったような笑みを作る。
「諦めるがいい。瞬はここにいれば――余の側にいれば 幸せなのだ。ここでは、瞬は、戦いに駆り出されることも、人を傷付けることも、瞬自身が傷付くこともない。そなたには与えることのできない幸福を、余であれば瞬に与えることができる」
「そんなことを幸せと感じる瞬なら、それはもう俺の瞬じゃない!」

会えば思い出してくれる――というのは、甘すぎる期待だったらしい。
白鳥座の聖闘士がアテナの加護を得、生きている身で冥界にやってきたことも、徒労に終わるらしい。
氷河は、血がにじむほど きつく唇を噛みしめ、血の気が失せるほど強く 両の拳を握りしめることになった。

心穏やかで幸せな記憶しか有していない瞬には、氷河の声と言葉の持つ冷淡と絶望が よほどの負担になっているのか、彼は 苦しげに眉根を寄せ、両手で強く胸を押さえている。
瞬が心穏やかに過ごせる日々を幸せと感じているのなら、氷河はそれ以上 瞬を苦しませるようなことはしたくなかった。
だから、氷河は、瞬と冥府の王に背を向けたのである。
そして、そのままジュデッカを出ていこうとした。






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