前触れもなく突然 現われ、瞬には理解できない言葉を撒き散らし、一人ですべてを決め、一人で勝手に激し、一人で勝手に失望し諦めてしまった男が、一人で勝手にジュデッカを出ていこうとしている。 まるで自分勝手に暴れる つむじ風のような その人の肩が泣いているように見えることが、瞬の胸を痛いほどに締めつけることになった。 「う……」 心臓が、苦しく痛い。 あまりの苦しさに、瞬は胸を押さえ、その場に がくりと膝をつくことになった。 痛いから――なのだろうか。 瞬の瞳から 次から次に涙の雫がこぼれ落ち、それらがジュデッカの大理石の床に幾つもの染みを作っていく。 「瞬、どうしたのだ」 この無憂の宮で涙を見ることが、ハーデスは初めてだったのかもしれない。 そんな事態を想像したことがなかったかもしれない。 玉座の横に膝をついた瞬の背に ハーデスの手が置かれたが、瞬はもう その手を“お優しい”と感じることができなくなっていた。 「泣いてる……あの人……」 「瞬。あの者は泣いてなど……」 「泣いてる……!」 ハーデスの手からすり抜けるようにして立ち上がった瞬は、そのまま 瞬に背を向けている男を追って、冷たい石の床を蹴り駆け出していた。 「だ……だめ! 泣いちゃだめ! 泣かないで。氷河が泣くと、僕……」 「しゅ……ん?」 永遠に失ってしまったと思い込んだ恋人に 突然 背中から抱きしめられ、氷河は一瞬 全身に電流を流されたような衝撃を覚えることになったのである。 「瞬っ」 瞬を呼ぶハーデスの声がジュデッカの広間に響き、その声の木霊の中で 後ろを振り返ったのは、冥府の王に名を呼ばれた瞬ではなく氷河の方だった。 もちろん、氷河にはハーデスの声など聞こえていなかったのだが。 そして、それは瞬も同じだったらしい。 「泣かないで……!」 期待と不安の間で高鳴る鼓動を自覚しながら振り返った氷河の胸に、瞬がしがみついてくる。 泣いているのは瞬で、氷河の瞳はまだ絶望と悲嘆のために乾いたままだった。 以前――二人が懸命に生きていた地上で、以前も幾度かこんなことがあった。 泣いているのは瞬で、『泣かないで』と叫ぶのも瞬。 幾度もこんなことがあった――。 「瞬……?」 『思い出してくれたのか』と氷河が問いかける前に、 「瞬、余の許に戻れっ。今なら許してやる! 戻れっ」 ハーデスの 悲鳴じみていながら低い呻き声にも似た その声は、だが、すぐに別の神の明るく軽やかな声にかき消されてしまった。 「瞬。地上に戻りたいの?」 その身は おそらく争いと悲しみと苦しみに満ちている地上にあるのだろうアテナの声は、無憂の宮にいるハーデスのそれより はるかに幸福そうで、そして楽しそうだった。 「氷河と一緒に!」 一瞬の迷いもなく、瞬が答え、 「もちろんよ」 楽しそうに、アテナの声が頷く。 その時にはもう、アテナの結界が二人のアテナの聖闘士を包み終えていた。 「瞬がこう言っていますから、瞬は返していただきますよ」 帰還の用意をすべて済ませてから、アテナの声が冥府の王に決定事項の報告をする。 アテナのやりようは冥府の王の誇りをいたく傷付けたようだった。 まるで、悲惨な地上で長く暮らしていたせいで 心がすさみ、些細なことで気を荒げるようになってしまった生き物のような声を、ハーデスがアテナに投げつける。 「アテナ、勝手に余の国に入ってくるな! 瞬、ここにいれば そなたは幸せでいられるのだ!」 「ハーデス。憂いのないことを幸せとは言いません」 「そのようなことは、余とて知っている!」 ハーデスの声は、これまでになく苛立っていた。 冥府の王に、アテナが沈黙の答えを返す。 その沈黙は、同情でできたものであるように 氷河には感じられた。 憂いのないことを幸せとは言わない――。 ハーデスがその“事実”を知っているというのなら、冥府の王は、もしかしたら無憂とは違う幸福を求めて、瞬を彼の側に運んだのかもしれなかった。 ハーデスは、真の幸福に至る方法を知らない――つまりは、人の愛し方を知らない――不幸な神なのかもしれないと、氷河は思ったのである。 とはいえ、それは、自分で努力して学ぶことでしか習得できない技なので、氷河には不幸な神に何をしてやることもできなかったのだが。 悲しみに打ちひしがれている人を見て、泣かないでほしいと願う。 それが幸福の本質だということに、いつか冥府の王が気付くことを願う以外、氷河にできることはなかった。 |