氷河の胸の中で 散々泣き、声がかれるほど『ごめんなさい』を繰り返し、舌がしびれて動かなくなるほどキスを重ねてから やっと、二人は少しだけ落ち着きを取り戻した。
少なくとも、『愛している』と『ごめんなさい』以外の言葉を口にできる程度には。

「今の僕の身体、鍛え方が足りないのかな。まだ 舌と頬がひきつってる」
「聖闘士でも、その部分はあまり鍛えないだろう。これから二人で特訓すればいい。なに、すぐに昔の調子を取り戻すさ」
「それはちょっと恐いけど……」
許し許されると決めたのだ。
その決意が済むと、瞬の頭の中は、氷河を幸せにするためにはどうすればいいのかという思いだけで占められていた。

もう忘れようとしていた、氷河の癖、考え方、価値観。
氷河に関する記憶が、瞬の中で洪水のように急激にあふれ出し、うねるように瞬の心に絡みついてくる。
“氷河”は“瞬”に甘えるのが好きで、だが、“瞬”に甘えん坊と思われるのは嫌い。
“氷河”は“瞬”に甘えられるのが好きで、だが、その甘えは他愛のないものでなければならず、決して『図々しい』の域に達してはならない。
“氷河”は積極的な“瞬”も大胆な“瞬”も好きだが、“瞬”は“氷河”より積極的もしくは大胆であってはならない――。

姿は変わっても、氷河は氷河のままだろうか。
とりあえず、瞬は、以前の氷河が不機嫌になった時、その機嫌を直してもらうために しばしば実行していたことを試してみた。
1秒でも長く、1ミリでも近くにいたいと訴えるように、そうする必要もないのに氷河の胸に頬を押しつけていく。
氷河は嬉しそうに、そんな瞬の肩を抱きしめてきた。

姿は驚くほど変わってしまっているが、氷河の中身はあまり変わっていないようだった。
瞬は、ほっと安堵の胸を撫でおろすことになったのである。
そうする必要もないのに氷河に身体を密着させることは、瞬も大好きなことだったので。
氷河は、そうする必要もないのに、わざわざ瞬を自分の膝の上に座らせ、瞬の上体を抱きしめたまま、彼が瞬に出会うまでのことを 瞬に話してくれた。

「俺はもう 2年前から聖域にいたんだ。おまえが新しい命を得て、俺のことを思い出してくれたら、きっとおまえは聖域にくるだろうと思っていたから。ただ安穏と待っているのも芸がないと焦り始めた頃に、俺と同じ名の王子と この国の王女との政略結婚の情報が飛び込んできた。氷河という名は滅多にない名前だし、大国同士の結びつきの動きは多くの者の耳に入るだろう。王子の名につられて おまえがやってくるかもしれないと期待して、俺はこの館に潜り込んでいたんだ」

『アテナが わざわざ この国の有力貴族の紹介状を用意してくれたのに、そんなものは何の役にも立たなかった』と黒髪の氷河がぼやくのに、瞬は苦笑した。
綺麗なもの好きの王子は、氷河が持参した紹介状などには目もくれず、氷河の姿ばかりを 上機嫌で堪能したに違いない。

「俺がおまえに気付いたのは、おまえが あの王子の小姓に取り立てられた時で、俺はすぐにおまえに声をかけようとしたんだ。だが、おまえは あの王子を俺と信じているようだったから……。会えば俺とわかってくれるはずだと信じていた自信を俺は失い、おまえに俺だと名乗り出ることができなくなってしまったんだ。俺は姿が変わっていたし、何の因果か、あの王子は以前の俺にそっくりで、俺がおまえの氷河だと名乗り出たところで、信じてもらえるかどうかも怪しいものだった」

「信じてたよ。僕が氷河の目を恐がらずにちゃんと見詰めることができていたら、誰が僕の氷河なのか、僕にはきっとすぐにわかった。けど、氷河の瞳があんまり深くて――怖いくらい深い色をしていて――それで僕、氷河を長く見詰めていることができなかったの。何とか恐がらずに見詰められるようになった時には、僕、もう、氷河を お兄さんみたいに優しくて親切な人って思うようになってて、それで……」
『優しくて親切な人』などというものは、氷河が最もなりたくない人種の一つだろう。
むっとして唇を一文字に結んでしまった氷河の顔を、瞬は困ったように見あげることになった。

「俺は、前世での未練が深すぎたのか、今生ではこんな姿になってしまった。髪や目の色はどうしようもないから、せめて髪型だけは以前のようにと思っていたんだが」
「それで、こんな不揃いな髪をしてるの? 綺麗な黒髪なのに」
「おまえは金髪が好きなんだろう」
すっかり拗ねてしまったらしい氷河をあやすように、瞬は彼の黒髪に指を絡めた。
「僕は氷河の髪が好きなの」
それで氷河はやっと機嫌を直してくれたようだった。
氷河があまりに記憶の中にある通りの氷河であることが、瞬の胸を弾ませることになったのである。

「勇気を出して名乗り出ればよかった……。あの おめでたい王子がもっと嫌な奴だったら、あんな奴はやめて俺の方を見ろと強引に出ることもできたんだが、奴は何というか――軽率ではあるんだが、どこか憎めない人間で、忌々しいことに悪党でもなかったし……」
「王子様が嫌な人だったら、この人は僕の氷河じゃないって、僕はすぐに気付いてたよ。少なくとも、この人はほんとに僕の氷河なんだろうかって疑ってた」
「いい奴というのは、実に傍迷惑な代物だ」
「ほんとだね」
だが、その傍迷惑な人間が こうして二人を引き合わせてくれたのも事実である。
瞬は、彼に対しては感謝の気持ちしか抱いていなかった。






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