さっちゃんの退場で 困ったように肩を落としてしまった瞬の側に、氷河はゆっくりと歩み寄っていった。
瞬の説得を無理無駄無意味と断じて、瞬の努力を否定するのも はばかれたので、全く別の話題を持ち出す。
「今の話、どこぞの女の子じゃなく靴屋の話じゃなかったか」
「さっちゃんには、靴屋さんより 同じ歳ごろの女の子の方がわかってもらえるかなって思ってアレンジしてみたんだけど……。ちょうど夕べ読んだばかりだったんだ。『小人の靴屋さん』」
「……」
瞬の返答を聞いて、氷河はあまりよい気持ちはしなかった。
むしろ、不愉快になった。

瞬がおとぎ話に異様に興味を持つようになったのは ごく最近。十二宮戦後のことである。
十二宮戦とその前後には、あまりにも多くの出来事が次から次に起こったので、何が瞬をそんな趣味に走らせることになったのか、本当のところは氷河にもわかっていなかった。
氷河は、その理由や原因を瞬に確かめてみたこともなかった。
ゆえに、それは氷河の推察でしかなかったのだが、氷河は、その原因は、瞬が自分の師の死の経緯を知ったことにあるのだろうと考えていた――察していた。
そして、氷河は、瞬が急に児童文学に傾倒し始めたことを現実逃避だと思っていたのである。

瞬の師は、正しい考えを持ち、冷静に状況を判断し、彼が最も正しく適切だと思うことをした。
そして、その態度を貫いた。
つまり、偽の教皇に無思慮に恭順の意を示すことをしなかった。
それが彼の命を奪うことになってしまったのである。

優しい者には優しさへの報いを、正直者には その正直にふさわしい褒美を、勤勉には勤勉の報酬を。
おとぎ話の世界では、それが自然な展開であり、当然の結末だというのに、その当然で自然な法則が現実の世界には適用されなかったのだ。
瞬は、そんな現実を許すことができず、そんな現実を拒もうとしている。
努力は認められ、正しい者は勝利し、優しい正直者がふさわしい報いを得る世界に、瞬は逃げ込んでいるのだと、氷河は思っていたのである。

現実はおとぎ話とは違うのだということを、瞬は以前から――それこそ幼い子供の頃から知っていたはずだった。
良いことをすれば必ず良い報いがあるというのは、おとぎ話の世界だけでのこと。
瞬が、その事実を知らないはずはない。
瞬は、子供の頃から残酷なほど理不尽で不公平な世界で生きてきたのだから。

それでも、瞬はおそらく、おとぎ話を信じ続けていたいのだろう。
苦しいことや悲しいことを我慢していれば、いつかきっと報われる時がくるのだと、優しさや正直や正義や努力の価値は、おとぎ話の世界の住人のみならず、現実を生きている者たちにとっても同じもののはずだと。
実際、瞬は数々の試練を耐え乗り越えることで聖闘士になることができたし、一時は離れ離れになっていた兄と再会することもできた。
瞬が正義と信じるアテナを奉じての戦いでは、実力的には勝てるはずのなかった敵たちに打ち勝つこともできた。

不幸不運に傾いていた瞬の人生の天秤は、徐々に水平の状態に近づきつつあった。
もともと多くを望まないたちの瞬のこと、あるいは、その天秤は既に瞬の中で幸福幸運に傾いていたのかもしれない。
そして、瞬はおそらく、おとぎ話の世界の法則は現実世界でも有効なのだと思いかけていた。
だが、瞬の師は死んでしまった。
瞬の師の正義は、もう報われることはない
彼は、その正しい行ないにふさわしい報いを受けることなく死んでしまったのだ。
死んでしまったら、生前どれほど高潔の士であっても、彼はもはや“死んだ人”以外のなにものにもなれない。
幸福な人間になる機会は、彼にはもう与えられることはないのだ。

そこで、現実とはそんなものだと諦めてしまうのが普通の人間だろう。
しかし、“清らか”な瞬には諦めてしまうことができない。
そんな不公平で理不尽な現実を、瞬は認めたくないし、認められない。
逆に、正しい人間は その正しさの報いを受けるべきだという考えを更に強くし、瞬は その考えに固執するようになった。
現実はそうではなかったから、そうではない実例を見せられてしまったからこそ なお一層、世界には 正義の騎士や 善い魔法使いや天使がいるべきなのだと、瞬は祈り、願い、信じることを始めてしまったのだ。

そんな瞬に、『おまえの師は、道半ばで、何も悪いことをしていないのに死んでしまったのだ』と言うことができるだろうか。
現実は おとぎ話の世界とは違うのだと言うことが?

氷河には、言うことはできなかった。
瞬を傷付けることを避けたいという気持ちもあったが、同時に、そう言ってしまうことの危険も、彼は承知していたのだ。
『正義は必ず勝利する』という おとぎ話の法則を否定することは、アテナの正義を信じて戦うアテナの聖闘士から希望を奪い去りかねないことでもあった。
そんなことを瞬に言えるはずがない。
『勝利の確信がなくても、戦うことしかできないのだから戦い続ける』という、“清らか”でない白鳥座の聖闘士になら抱き得る決意を、汚れひとつない美しい理想と夢の実現のために 一途に戦いたい“清らか”なアンドロメダ座の聖闘士に強いることは、氷河には到底できることではなかったのだ。

理不尽な現実の法則を瞬に告げる代わりに、氷河は、
「おまえ、最近、妙に 童話や児童文学に凝っているな」
と、なにげなさを装って、瞬に探りを入れてみたのである。
瞬はこのところ、城戸邸の図書室の児童書のコーナーに入り浸りだった。
瞬の仲間たちが そんなものがあったことさえ忘れていた書棚の前に立つ瞬の姿を、氷河は最近、ほとんど毎日のように見かけていた。
瞬が、少し気恥ずかしそうな笑顔を作る。

「あ、うん。懐かしくて。図書室にあんな昔の本が残ってるなんて思ってなかったから、見付けた時はすごく どきどきしたんだ」
それらの本は、城戸邸に集められた子供たちのために揃えられた書籍ではなかった。
すべてが、幼い日の沙織のために購入されたもの。
昔は、本を汚したりしないのなら、沙織以外の子供たちも それらの本を読んでもいいということになっていて、トレーニングが嫌いな瞬は、時間を見付けては その書棚の本のページを繰っていたものだった。
不幸不運に天秤が傾いていた頃の瞬にとって、その時間は、自分の生に課せられた つらさを忘れていられる ささやかな幸福の時だったのかもしれない。

最近の瞬は、あの頃の瞬に戻ってしまったかのように、おとぎ話に夢中である。
そして、氷河には、それが良いことだとは、どうしても思うことができなかった。






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