氷河が本当に恐れていることが何なのかを知らない瞬は、まだたった5つの子供に、氷河はいったい何を言っているのかと訝っているようだった。
困ったような顔をして、瞬が氷河に尋ねてくる。
「氷河も?」
「なに?」
「氷河はこんなに綺麗なのに、心の中は醜悪なの?」

重ねて尋ねてくる瞬の口許には笑みが浮かんでいた。
どう考えても、瞬は、『俺は違う』という答えを期待している――そういう答えが返ってくるものと信じている。
そうして瞬は この場をごまかすつもりでいるのだ。
――と、氷河は思った。
だから、氷河は、
「そうだ」
と答えたのである。
もっとも ここで、『俺だけは違う』と答えられるのは、ほどの厚顔無恥か愚鈍な人間だったろうが。

「そんなはずないよ」
瞬がやはり笑顔で仲間の言を否定してくる。
「だが、そうだ」
氷河は同じ答えを返した。
そんなことは信じないという目を、瞬が氷河に向けてくる。
仲間の善良を信じきっている その眼差しが、氷河の胸中にあった あるものを刺激した。
触れてはならないものに 瞬に触れられて、氷河は初めて気付いたのである。
瞬に 清らかなおとぎの国の住人でいられては困る、もう一つの理由に。

瞬に、現実逃避などという、弱い人間のするようなことをさせてはならない。
親のない子が なるべく傷付かずに生きていけるように、“大人”は“子供”に現実の醜悪を知らせるべきなのだ。
そんな事柄は、氷河にとって ごく付随的な事柄でしかなかった。
白鳥座の聖闘士が殊更“現実の醜悪”にこだわる本当の理由――主たる理由――は、全く別のところにあったのだ。
その事実に気付いた氷河は、己れの醜悪さに自信を持ってしまったのである。
自分への嫌悪感と共に、自身の醜さ卑しさを確信してしまったのだった。

「現に、俺は!」
「現に、氷河は?」
瞬が歌でも歌うように軽い口調で尋ねてくる。
瞬はおそらく、白鳥座の聖闘士からは『子供はうるさいから嫌いだ』程度の答えが返ってくるものと思っているのだ。
その答えを聞いて 声をあげて笑う準備すら、瞬は既に整えているようだった。

瞬が望んでいるような答えを返すべきかと、一瞬 氷河は迷ったのである。
だが、その迷いが生じた時にはもう、彼は 彼の中にある本当の醜悪を、瞬の前にさらけだしてしまっていた。
「現に俺は、おまえを犯してやりたいと思っている。おまえをめちゃくちゃにして おまえが泣いても、許しを乞うても放してやらずに、自分の欲望を満たしたいと思っている。いつも――いつもだ」
「……」

想像していたものとは全く違う氷河の“醜悪”に、瞬は虚を衝かれたようだった。
瞬は、咄嗟に驚くことさえできなかったらしい。
あるいは、そもそも何を言われたのか わからなかったのかもしれない。
瞬はそういう顔をした。
かなりの時間をおいてから、何とか言葉の意味だけは理解した様子で、それでも その理解に自信を持てていないふうに、どもりながら反応らしきものを示してくる。

「で……でも、氷河はそんなことしないでしょう。現にしていない」
「それは、ただ単に、おまえに嫌われるのが恐いからだ。自分の都合だ」
「僕は、氷河にそんなことされても、氷河を嫌ったりしないよ」
瞬の言葉を、氷河は信じなかった。
瞬は、白鳥座の聖闘士が言及した醜悪の意味を正しく理解できていないのだ。
理解できていない人間の考えや言葉など、信じるに足るものではない。

「それは、おまえが、俺はそんなことをしないと思い込んでいるから言えることで――それが綺麗事だと言ってるんだ! 現実の醜悪から目を逸らして、おとぎ話の世界なんかに夢中になって、おまえは俺の醜悪を理解しようとしない。そんなことは、おまえが俺の心の中を見てないから言えることだ」
「じゃあ、見せて」
「そんなことができるかっ!」

それを見せるということがどういうことなのか、瞬はわかっているのだろうか。
もちろん、瞬はわかっていない。
わかっていないからこそ、瞬はそんなことを、これほど軽い口調で言ってしまえるのだ。
氷河は――だんだん腹が立ってきたのである。
瞬の頑ななまでの“清らかさ”に、憤り始めていた。

「そんなに、僕に嫌われるのが恐いの?」
「おまえを傷付けるのが恐いんだ!」
氷河の苛立ちが募り、彼が その苛立ちを態度に表わすほどに、瞬の微笑は深みを増していく。
氷河は、瞬のそんな様子の意味が理解できず、理解できないことで、彼の苛立ちは更に大きなものになっていった。
だが、氷河は、まもなく瞬の微笑の意味を理解することになったのである。
瞬は、つまり、白鳥座の聖闘士の“醜悪”があまりにささやかすぎて――微笑ましいほどに ささやかなものだったから――それで、微笑んでいたのだということに。

「僕がこれ以上傷付くことがあると思うの? 今以上に傷付くことがあると思うの? 僕は、この手で、信じるものが違っていただけの敵を傷付け、倒してきた。この家で共に育った多くの仲間たちを失い、アンドロメダ島で共に修行を重ねてきた多くの仲間たちを失い、アテナの聖闘士としての正義を貫き通した先生も失った。そんなにしてまで戦っても――僕たちがどれほど命がけで戦っても、世界は変わらない。人は変わらない。氷河の言う通り、現実の世界には、自分の利益だけを考える人や嘘をつく人や、他人を傷付けて平気な人や争いを傍観する人――そういう人たちばかりだ。そういう人たちに比べたら、氷河はまるで無力だよ。氷河は、そういう人たちの万分の一だって、僕を傷付けることはできない」
「瞬……」

おとぎ話の世界ではなく、現実の世界を見る瞬の悲痛な叫び。
白鳥座の聖闘士はアンドロメダ座の聖闘士を傷付ける力を持っていなくても、アンドロメダ座の聖闘士は白鳥座の聖闘士を傷付ける力を持っていた。
瞬の傷心、瞬の悲痛が、氷河を傷付ける。
瞬は、瞬自身が悲しみ傷付くことで、氷河を悲しませ傷付ける力を持っている存在だった。
そんな氷河の表情を見て、瞬が なぜか――瞬らしくなく――勝ち誇ったような口調になる。
「氷河は僕を傷付けることなんかできない。氷河は僕に対して完全に無力なの。氷河は何の力も持っていないんだよ」

瞬はいったい何を言っているのか――。
命をかけた戦いを共に戦ってきた仲間に向かって、瞬は誇らしげに何を言っているのか――。
瞬の言葉を理解できなくなったのは、今度は氷河の方だった。
「無力かどうか――」
同時に、氷河は、氷河自身が口にした言葉の意味もわかっていなかった。
そして、自分が何をしようとしているのかも わからなくなっていた。
「俺が無力かどうか、自分の身体で確かめてみろ」






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