翌朝 氷河が目覚めると、彼の横には 裸体の瞬が無残なありさまで うつ伏せに横たわっていた。
瞬の髪は、おそらくは涙のせいで頬に貼りつき、剥きだしの肩やうなじには瞬のものではない男の指の跡が薄赤く残っている。
それは、掛け布で覆われている部分がどんなことになっているのかを察するに余りある姿だった。
肉体のみならず心まで満たされたような気分になって、快い眠りを貪っていた たった今までの自分を、氷河は殴り倒してしまいたくなったのである。

幼い頃から、仲間たちの悪意のない振舞いならどんなことでも許すことを知っていた瞬。
普通の子供なら腹を立て、あるいは泣きわめく場面で 仲間たちを笑って許すことができた瞬。
その瞬が唯一、抑制しきれないものが、身体に加えられる苦痛だった。
心の痛みなら耐えられる瞬が、肉体に及ぼされる苦痛には異様に弱かった。
聖闘士になった今でも瞬がそう・・であるわけはないし、子供の頃の瞬が『痛い』と言って泣いていた時、本当に瞬が痛みを覚えていたのは その身体ではなく、自分の置かれている境遇だったのだということは、今では氷河にもわかっていた。

心が痛いと言って泣くことは、同じ境遇にある仲間たちをも傷付けかねないことだが、手足が痛いと言って泣くことは、瞬の仲間たちに失笑を運ぶだけで済ませることができる。
幼い頃の瞬が 意図してそう振舞っていたとは思い難かったが、それでも瞬が子供らしからぬ鋭敏な判断力で、“絶対に我慢しなければならないこと”と“我慢しなくてもいいこと”を区別していたのは事実だったろう。

その瞬に、“絶対に我慢しなければならない苦痛”と“我慢しなくてもいい苦痛”を同時に与えてしまったのである。
目覚めた瞬が、自分に乱暴を働いた男にどういう態度を示すのか、氷河には全くわからなかった。
わからないことが恐ろしく、わからないことが、氷河の胸に途轍もなく重く巨大な不安を運んできたのである。
謝らなければならないことはわかっていたが、そのための言葉が思いつかない。
そもそも これは謝って許されることではないし、謝るという行為そのものが瞬を更に傷付ける可能性すら皆無とは言えない。

目覚めて自分に暴行を加えた男の姿を見ることになった瞬は、その男にどんな目を向けるのか――。
瞬に責められ なじられることは構わないし、瞬にはそうする権利があるとも思う。
だが、もし、昨日までは仲間だった男に怯え恐れる様子を瞬に見せられてしまったら。
氷河は、それだけは耐え難かった。
耐えられないと思った。
しかし、氷河が暴行を加えた相手は瞬なのである。
“瞬”なら、それが最もあり得そうな反応だった。

そう思った瞬間、氷河は、急いで――瞬には気付かれぬようにと恐れおののきながら――瞬のベッドの外に逃げ出していた。
無様なほど手際悪く身仕舞いを整え、氷河は、そして そのまま瞬の部屋からも逃げ出してしまったのだった。

瞬に合わせる顔もないし、その勇気もない。
氷河は自室には戻らなかった。
朝食をとるためにダイニングルームに行くことは なおさらできない。
結局、氷河は、城戸邸の庭の 夏場にはちょうどよい木陰ができる場所に置かれた石のベンチで、12月の冷たい風に我が身をさらすことになったのだった。
平生の彼であれば、日本の冬の風など 春のそよ風程度にしか感じられないものだったのだが、暖かいはずのその風が、今日はひどく冷たく寒く感じられた。

いったい なぜこんなことになってしまったのか。
それが、氷河にはどうしてもわからなかったのである。
白鳥座の聖闘士は、瞬がおとぎ話の世界に逃げ込んでいるように見えることを懸念し、瞬を元の瞬に戻してやらなければならないと考えていただけだった。
それは瞬の仲間としての懸念と考えだったし、そこに瞬への恋情はあまり作用していなかった――はずだった。
同じ目的のために戦う仲間として、瞬の心を案じていただけ――のはずだったのだ。
もちろん、これまでそうしてきたように、昨日も、瞬の身体への欲望は完璧に隠し通していた。
それが、いったいなぜこんなことになってしまったのか。
氷河にはどうしても合点がいかなかったのである。


「氷河、一緒に星の子学園に行こうよ」
冬の庭で ひとり懊悩していた氷河の肩に、不思議なほど いつも通りの瞬の声が降ってきたのは、氷河がその場所に逃げ込んでから1時間も経った頃。
すっかり葉が落ちた楡の木の枝の上に、控えめな冬の太陽が姿を重ねるようになった時刻だった。
氷河を責めもせず、なじりもせず、瞬の目許には昨日までと同じように ほのかな笑みさえ刻まれている。

瞬はいったい何を考えているのか――。
瞬が落ち着いているように見える分、氷河は尋常でなく混乱することになったのである。
だが、今は瞬に逆らうことなど思いもよらない。
昨夜のことを尋ねる勇気も、今の氷河には持ち得ないものだった。
氷河は、瞬に促されるまま、緩慢な動作で 掛けていたベンチから立ち上がったのである。






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