城戸邸に戻った瞬は、自室に戻ろうとした氷河を、瞬自身の部屋に寄ってほしいと言って引きとめた。 すなわち、昨夜暴行が行なわれた場所に来てほしい――と言って。 自分が瞬に逆らう権利を有していないことは承知していたのだが、瞬の部屋のドアの前で、さすがに氷河は中に入ることを躊躇してしまったのである。 瞬は、氷河の躊躇にも動揺にも気付いていない様子で、氷河に入室を促し、結局のところ 氷河は瞬の言う通りにするしかなかった。 瞬が椅子を勧め、瞬自身は凶行の行なわれたベッドを椅子の代わりにする。 それだけのことに、氷河の心臓は大きな負担を強いられることになった。 自分は瞬にいたぶられているのではないかという邪推まで、氷河の胸中には生まれてきてしまったのである。 瞬がそんなことをするような人間でないことは わかっていたのだが。 それはわかっていたのだが、だからこそ氷河は、瞬が和やかな表情で卑劣な暴行者を その部屋に招き入れる理由がわからなかったのだ。 昨夜 卑劣な暴行が行なわれた寝台に腰をおろした瞬が、懸命に動揺を押し隠そうとしている氷河に 静かに語り始める。 「あのね……僕は、自分に非がないのに他人の過ちを許してあげることも、人間が知らなきゃならない理不尽の一つだと思ってるんだ。それも人が耐えなきゃならない現実だと思ってるんだよ。僕は、さっちゃんを夢の世界に逃げ込ませようとしていたんじゃなく、さっちゃんを甘やかそうとしていたのでもなく、もっと厳しいことをさっちゃんに要求していたんだ。でも、それは大事な現実でしょう? 人を許すってことは、許さなきゃならないってことは、とても大事で価値のある理不尽だよ。大切なことなんだ」 瞬はどういうつもりで そんなことを言い出したのかと、氷河は訝ったのである。 否、氷河は、瞬のその言葉を聞いて期待してしまった。 瞬はもしかしたら、自分を許すと言ってくれているのではないかと。 すぐにそんなはずはないと思い直し、氷河は自分の中に生まれた その期待を打ち消すことになったのだが。 そして、 だが、瞬の発言の意図は、やはり 自分に乱暴を働いた男を許すこと――。 許すどころか、瞬は、己れのしでかしてしまった罪の深さに恐れおののいている男に、 「氷河が、氷河の小人の力を必要としてるなら――僕の力を必要としてるなら……僕は氷河のためにどんなことでもするよ」 とまで言ってくれたのだった。 瞬のその言葉は、罪を責められることより、罰を科せられることより大きな衝撃を 氷河にもたらすことになったのである。 なぜ瞬は 許されない罪を犯した男を責めないのかという思いより、なぜ自分はこの瞬にあんな無体ができたのかという思いが、氷河の心をより強く重苦しい力で支配する。 いっそ自分が5歳の子供だったなら、ここで 見境のない大声をあげて泣き叫び、瞬に許しを乞うこともできるのに――と、氷河は半ば以上 本気で思った。 「俺は……。すまなかった。俺はただ……」 それが、今日初めて氷河が発した声だった。 その声は、少しかすれていた。 瞬が、そんな氷河に、『優しい』としか表しようのない微笑を向けてくる。 「僕が現実逃避して弱い人間になるのを止めようとした」 「瞬……」 「僕は、僕の小人さんのこと、少しはわかるんだ。仲間だから」 「……」 瞬は、瞬の仲間が本当は――あんなことをしてしまう以前は――何を望んでいたのかを知ってくれていたらしい。 そして、瞬はやはり、あんなことをしてしまった仲間を許そうとしているらしい。 だが、氷河は、素直に――あるいは安易に――瞬の寛大を受け入れてしまうことができなかったのである。 瞬は、“許すこと”同様、“許されること”も 価値ある理不尽なのだと言いたいのかもしれなかったし、そうすることを仲間に求めているのかもしれなかった。 “許されること”を甘受しろと、氷河に言っているのかもしれなかった。 だが、腕白坊主たちがしでかした過失とレイプは、あまりにも次元の違う罪である。 少し冷静になれば、それがどういう結果を招くのかということは容易に察することができたはずなのに、氷河は己れの激情に身を委ねてしまったのだ。 再び黙り込んでしまった氷河を困ったように見詰め、一瞬 何かを迷ったような様子を見せてから、瞬はゆっくり口を開いた。 「痛いだけじゃなかったから、そんな顔しないで」 「す……少しは気持ちよかったのかっ !? 」 気負い込んで尋ねてから、自分は何という馬鹿なことを訊いているのかと、自分はもう二度と口をきかない方がいいに違いないと、氷河は本気で思ったのである。 そんな氷河を見やって、瞬がくすくすと小さな笑い声を洩らす。 「『許してくれ』『我慢してくれ』『傷付かないでくれ』『泣かないでくれ』」 「あ……?」 「氷河ってば夕べ、『好き』とか『愛してる』とか、気の利いたことは一言も言わずに、そればっかり言ってたよ」 「……」 許されない暴力を働いた男に、瞬がムードの欠如を責めているのだとは思い難く、氷河は返答に窮した。 まさか、ムードのない強姦を為してしまったことを、瞬に詫びるわけにもいかない。 「よ……く憶えてるな。おまえは それどころじゃなかったのだとばかり」 「『許してるよ』『大丈夫だよ』『僕は傷付いてない』『僕は悲しくて泣いてるんじゃない』。氷河に何か言われるたび、僕も同じことばっかり答えてたから。氷河に聞こえていたかどうかは怪しいけど」 「……」 夕べ、瞬はそんなことを言っていただろうか。 氷河は、瞬にそんなことを言われた記憶が全くなかった。 もし瞬が本当に そんな言葉を繰り返し告げてくれていたのだとしたら、自分はそれらの言葉をすべて 男の欲望を煽るような喘ぎ声に変換して聞いていたのだとしか思えない。 そう考えて、氷河は、そんな自分自身を深く反省することになったのである。 言葉を音としてしか捉えられないほどに――自分は尋常でなく理性を失っていたのだと。 「僕はずっと氷河を好きだったし、氷河はいつも僕を見ててくれて、優しかったし……。でも、氷河が本当の僕を見ていてくれたとは言えないかもしれない。現実を直視しないで、僕を綺麗なおとぎ話の世界の住人にしてしまっていたのは氷河の方だよ」 「俺が現実を見ていない?」 反射的に問い返した氷河に、瞬は縦にとも横にともなく首を振った。 そして、一瞬間 瞬は何事かをためらったようだった。 やがて、そのためらいを振りきり、まっすぐに氷河の目を見詰めてくる。 「僕は、氷河に抱きしめてもらって、すごく気持ちよかった。恥ずかしかったけど、気持ちよかった。氷河、僕に性欲がないとでも思ってたの」 瞬の声音はごく自然で穏やかなものだったのだが、氷河はその発言の内容にぎょっとしてしまったのである。 今 自分は意味のある言葉を聞いたのか、それとも単なる音の羅列を聞いただけなのか。 氷河はまず それを疑うことになったのである。 「……そう思っていたところがないとはいわないが――おまえがそんな単語を口にすることがあるとは 思ってもいなかった」 それが氷河の本音だった。 まさか瞬の唇が『性欲』などという言葉を形作ることがあろうとは。 氷河には それは、青天の霹靂と言っていい事態だったのである。 瞬の背後にある窓の向こうには、晴れやかな初冬の水色の空が広がっていたのだが。 氷河の“本音”を聞いて、瞬は軽い溜め息を洩らした。 「じゃあ、氷河は、自分が 僕に挑発されたんだってこともわかってないでしょう」 「なに?」 今度こそ 瞬の発した言葉の意味を完全に理解することができず、氷河が眉根をきつく寄せる。 「やっぱり……」 瞬の洩らす溜め息は深いものに変わった。 その溜め息を最後まで吐き出してから、瞬は、まるで5歳の幼子に『1+1』が『2』になる理屈を説明するような口調で、 「僕が、氷河には僕を傷付けられないって言ったのは――あれは僕が氷河を挑発したの。あんまり氷河に切ない目で見詰められ続けてると、僕の方が切なくて苦しくなるから、さっさと行くとこまで行っちゃおうって思ったんだ」 と氷河に言った。 それは、瞬には『1+1』なのかもしれなかったが、氷河には『E=mc**2』以上に理解の難しい事柄に思えたのである。 氷河には、それは信じ難いことだった。 隠し通していたつもりのことに気付かれていたことにも驚いたが、“清らか”なはずの瞬がまさかそんな大胆な決意を為すことがあろうとは。 だが、それは事実であるらしい。 瞬は、自身の発言を笑いにごまかすようなこともせず、真顔で氷河に尋ねてきた。 「幻滅した? それが僕の本心で、現実だよ。そんな僕は醜悪なの?」 氷河は瞳を見開いたまま、ほとんど瞬に操られている 氷河の人形師である瞬が、彼の人形に優しく微笑する。 「なら、氷河だって綺麗なのに決まってるでしょう。むしろ、氷河の方が僕よりずっと純粋で世間知らずだよ」 「瞬……俺が純粋だというのは、いくら何でも――」 氷河の人形師は、氷河の言葉を最後まで聞かなかった。 瞬は自分の見解に絶対の自信を抱いているらしい。 「氷河は、僕に夢を見すぎ。そして、多分、自分を卑下しすぎている……と思う」 「俺は別に自分を卑下しているわけじゃない。俺はただ、自分が無力だということを知っているだけだ」 「無力? 僕が氷河にあんなこと言ったのは、氷河を挑発するためだったって言ったでしょう。本気でそう思ってるわけじゃないよ」 「そうじゃない」 白鳥座の聖闘士が自分を無力な存在だと思うに至った理由。 瞬は おとぎ話の世界に逃げ込んでいるのだと考えるようになった根拠。 それを瞬に知らせてしまっていいのかどうかを、氷河は迷うことになったのである。 それは瞬の心の傷口を更に開いてしまうことになるのではないかと考えて、氷河は躊躇した。 「おまえが急に児童書のコーナーに入り浸るようになったのは、おまえの先生が――」 だが、言わずにいると、それは また別の不安と誤解を瞬の中に生むことになりかねない。 氷河は意を決して、口を開いた。 「おまえの先生の理不尽な最期がつらくて、だから、おまえは、正しい者が必ずその正しさの報いを受けるおとぎ話の世界に逃げ込んでいるのだろうと、俺は思っていた。俺ではおまえを慰めてやれないんだと、俺は――」 「氷河、ちょっと待って……!」 瞬が慌てて、氷河の言葉を遮る。 それから、瞬は大きく首を横に振った。 「それは誤解だよ! 僕は、ただ懐かしかっただけ。そう言わなかった?」 「それにしては……。あそこには千冊は下らない数の本がある。おまえの入れ込みようは、あそこにある本を全部読破しようという勢いだったぞ。ただ昔を懐かしむだけなら、1、2冊 手に取って目を通せば、それで十分じゃないか」 「それは、ちょっと探してる本があったから……」 氷河が自身を無力だと思うに至った理由。 それは瞬には思いがけないものだったらしい。 が、それを誤解だとわかってもらうためには、瞬は彼が児童書のコーナーに入り浸るようになった本当の理由を氷河に告白しなければならない。 その“本当の理由”が、瞬には言いにくいことだったようだった。 仲間の誤解を解くために、結局 瞬は 本当の理由を氷河に告白しないわけにはいかなかったのだが。 「その……僕は本を探してたの。絶対に 「なに?」 反射的に問い返した氷河の視線から逃げるように、瞬はあらぬ方向に視線を泳がせ、最後に 恥ずかしそうに その瞼を伏せた。 「もう半分以上読んだと思うのに、見付からないんだ。最初はエリザ姫の絵本で見たのかなって思ったんだけど、違ってて……。記憶違いだったのかな……」 瞬が児童書のコーナーに入り浸るようになった本当の理由を知らされた氷河は、そのあまりの思いがけなさに、つい まじまじと瞬の顔に見おろすことになったのである。 氷河の遠慮のない視線にさらされることになった瞬が、身の置きどころをなくしたように身体を縮こまらせる。 瞬がおとぎ話に夢中になっていた本当の理由が本当に 少々――照れくさいところがなくもなかったのではあるが。 「それは――児童書のコーナーにはないだろう」 「え?」 「あるのはオーディオコーナーだ。CDについていた絵本だと思うぞ。ローエングリンだ――ワーグナーの」 「氷河、知ってるの? 白鳥の騎士の絵本を見たことがあるの?」 氷河が頷く前に、瞬の手は氷河の腕に絡んでいた。 「どこどこ。どこにあるの !? 」 出不精を決め込んでいる父親を遊園地に誘う幼い子供のように、瞬が氷河の腕を引き、掛けていた椅子から立ち上がらせる。 実質的には合意のことだった(らしい)とはいえ、つい 昨晩 自分に乱暴を働いた男に気安く触れてくる瞬に、氷河は大いに困惑した。 だが、してみると、あれは瞬の意に反して為されたことではないという瞬の言は あながち嘘ではないのかもしれない。 瞬は、激情に任せて瞬の身体を蹂躙した男を恐れても憎んでもいない――。 そう思えるだけで、氷河は救われた思いがしたのである。 |