瞬は最初から高等部の寮に入ることができていたが、星矢の引越は卒業生たちが寮の部屋を出るまで お預けになっていた。 自宅で春休みを満喫している同級生たちより一足早く引越を済ませた星矢は、その日、彼の先輩たちに引越の餞別を要求すべく、同じ高等部の寮にある氷河の部屋に赴いたのである。 最初の2回は普通に、次からは かなり乱暴に、星矢は氷河の部屋のドアをノックした。 が、いくらドアを叩いても、その名を呼んでも、部屋の中からは答えが返ってこない。 「氷河ーっ。氷河、いねーのかーっ !? 」 生徒がほとんど出払っている寮の廊下に響き渡った星矢の大声に答えてくれたのは、氷河の隣りの部屋の住人だった。 「氷河に用なら、あとにした方がいいぞ。今の奴は使い物にならん」 「使い物にならん……って、風邪でもひいて寝込んでるのか?」 「そういうわけではないんだが……。いや、あれも病気の一種か」 そう言いながら、紫龍が氷河の部屋のドアを開ける。 「なんだ、開いてたのか。そんならそうと早く言えよ!」 てっきり鍵がかかっているものと思って声を張り上げていた星矢は、肝心のことを確かめずにいた自分の迂闊に呆れながら、紫龍のあとに続いて、氷河の部屋の中に足を踏み入れた。 ベッドと 机と 衣類を入れるためのチェストと 小さな書棚。 それだけ置けば、他にスペースといえるほどのスペースもない、到底広いとは言い難い部屋。 だが、中等部の寮と違って、高等部の寮の部屋は全室が個室になっている。 だから、中等部の生徒たちは高等部にあがる時を心待ちにしているのだが、それはさておき。 あれだけ威勢よくドアを叩き、大声で名前を連呼しても応答がなかったというのに、部屋の主はちゃんとそこにいた。 奇妙な角度で両脚を投げ出し、氷河は、彼のベッドの上で何をするでもなく、ぼんやりと虚空を見詰めていた。 それが苛立ちでも憤りでも、いつも感情を露わにしていることの多い氷河が、まるで心ここにあらずといった 「氷河の奴、なに、ぼーっとしてんだ? 熱でもあんのか?」 星矢の賑やかな乱入にも、氷河はほとんど無反応だった。 一度ちらりと後輩に視線を向けてはきたが、口をきくのも億劫そうに、すぐに視線を元の位置に戻してしまう。 『やかましい、この馬鹿』とか『静かにしろ、この粗忽者』とか、そういう罵声を投げつけられることを期待(?)して身構えていた星矢は、氷河のその態度に 我知らず気が抜けてしまったのである。 訳がわからず、その場に棒立ちになってしまった星矢に、紫龍が、氷河の氷河らしからぬ態度の理由を星矢に教えてくれた。 「氷河が かかっている病気は恋わずらいだ」 「恋わずらいー !? 」 紫龍が口にした病名を冗談と決めつけて笑い飛ばそうとした星矢の機先を制して、紫龍が、 「言っておくが、これはジョークでもなければ誤診でもない」 と言ってくる。 あろうことか、紫龍は全く笑っていなかった。 「こ……恋わずらいって、おい、氷河! 受験生がそんな病気にかかってどーすんだよ。おまえ等3年生には、これからの1年が、天下分け目の桶狭間で天王山で関ヶ原だろ!」 星矢の大声に、氷河は相変わらず反応らしい反応を示してこない。 代わりの返事は、またしても紫龍から もたらされた。 「その点は大丈夫だろう。俺たちは高校のカリキュラムは既に終えているし、瞬ににっこり笑って『合格してね』と言われれば、氷河はT大だろうが、司法試験だろうが、5分で合格してみせるだろうからな」 そう言って太鼓判を押す紫龍自身、この事態を笑えばいいのか、あるいは渋面を作るべきなのかの判断に迷っているらしい。 あらゆる色の絵の具を混ぜ合われば黒色ができるように、あらゆる色の光を重ね合わせば白色ができるように、紫龍の顔は、あまりに多くの感情と思惟が混じりすぎたせいでできた無表情(のようなもの)を呈していた。 その非常に複雑な無表情で、紫龍が、星矢に両の肩をすくめてみせる。 星矢はといえば、紫龍のその言葉に、鳩が豆鉄砲を食らったような顔をさらすことになったのである。 「氷河の恋わずらいの相手って、瞬なのかーっ !? 」 星矢の素頓狂な声に、紫龍は、やはり複雑な無表情で頷いた。 「瞬に『氷河は優しい』とか何とか言われたとか言っていたな。氷河は、人様にそんなことを言ってもらったのは初めてだったんだろう。感激して、もうすっかり お花畑の住人だ。そこの鏡を見てみろ」 「鏡?」 そう言って紫龍が指し示した鏡に、星矢が視線を巡らす。 その段になって、星矢は、氷河が見つめているものは虚空などではなく、彼の書棚の上に置かれている方形の鏡だということに気付いたのである。 「窓と壁しか映ってねーぜ?」 「氷河のいるところからだと、違うものが見える」 言われた星矢が、氷河の視線を辿る。 その鏡には、もう一枚の鏡――それは氷河の机の上にあった――が映し出す部屋の外の光景が映るようになっていた。 「氷河の位置からだと、図書館に続く渡り廊下が見えるだけだろ」 星矢が導き出した答えは、もちろん間違ったものではなかったが、それは物理上の答え。 だが、紫龍が確かめようとしたものは星矢の物理の基礎知識ではなく、星矢の想像力もしくは推理力の方だったらしい。 星矢がその正答に辿り着くのはさすがに無理と判断したのか、紫龍は、あまり時間を置かずに、本当の正答を星矢に教示してくれた。 「氷河は、そこに瞬の姿が映ったら、すぐ追いかけていけるように待機しているんだ」 「へっ」 星矢にしてみれば、それは馬鹿げた“正答”だった。 紫龍に教えられた答えに、星矢があっけにとられる。 「なんで、そんなまわりくどいことしてんだよ。こいつ、馬鹿になったのか? そんな監視みたいな真似してねーで、いつ図書館に行くのか、瞬に直接予定を訊けばいいだけのことじゃん」 「恋する男の思考回路がどうなっているのかなんて、そんなことを俺が知るものか」 星矢ももちろん、そんなものは知らない。 ただ、この事態が、人様に賞讃される事態でも、まともな事態でもないことだけは、星矢にもわかったのである。 腑抜けているのか、虎視眈々と獲物に狙いを定めているのか わからない男の肩を掴むと、星矢は、彼を正気に戻すべく、その肩を乱暴に揺さぶった。 「氷河、目を覚ませ! いくら可愛くても、瞬は男だ男! 人生、踏み間違えるなよ。受験より大事なことだぞ!」 「もちろん大事だ。受験なんかより瞬の方が」 彼の恋人の姿を映すはずの鏡から視線を逸らさず、氷河が抑揚のない声で答えてくる。 それは、今日 星矢が初めて聞いた氷河の声で、氷河はどうやら『可愛い瞬』という星矢の言葉に反応したらしかった。 「俺が言ってるのは、そういうことじゃなくてさ!」 「星矢、やめておけ」 思わず声を荒げた星矢の肩に、紫龍の手が置かれる。 振り向いて紫龍の顔を見た途端、星矢は知ることになったのである。 氷河を正気に戻すことを、紫龍は既に諦めてしまっていることを。 「何を言っても無駄だ。氷河は一度こうと決めたら、長さ10京キロのテコをもってしても動かせない男だ」 「10京キロのテコがあったら、地球でも持ち上げられるだろ」 「氷河の恋心は地球なんかより重くて不動のものなんだ。まあ、瞬は、氷河の顔を ものともしなかった初めての女の子だからな。これは、ある意味、自然な成り行きなのかもしれん」 そう言ってしまってから、紫龍は、自分の発言にあまり意味のない訂正を入れた。 「いや、女の子ではなかったな」 「瞬が女だったら、俺だって何にも言わねーよ! ったく!」 ほとんど突き飛ばすようにして、星矢が、掴みあげていた氷河の肩から手を離す。 「瞬は、そこいらの女共と違って、氷河の顔にイカれたりなんかはしねーだろうから、道を踏み外す心配はないだろーけどさ……」 だが、この場合は、それこそが――瞬が、氷河の顔にイカれたりしないだろうことこそが――大問題なのだ。 瞬は、容姿も頭脳も氷河と同レベルのものを持っている。 となれば、氷河を見る時、瞬が注目するのは当然、氷河の“中身”ということになる。 はたして、氷河にそれがあるかどうか。 本音を言えば、『中身では瞬の方がはるかに氷河に勝っている』というのが、星矢の認識だった。 当然、瞬は氷河を相手にしないだろう。 ゆえに、星矢が心配しているのは、瞬や氷河が道を踏み外すことではなく、瞬に失恋した時の氷河の反応――反動と言うべきか――の方だったのだ。 社会全般・人間全般に不信の念を抱き、人生を拗ねて生きてきた男が、おそらくは生まれて初めて恋をした――自分の心を預けられる人に出会った――のである。 その恋に破れ、お花畑から 草木一本 生えていない荒野に放り出された時、氷河はいったいどんな反応を示すのか。 氷河は、失恋のショックに大人しく打ちのめされるような男ではない。 その事実を受け入れないために、それこそ 10京キロのテコを使って地球を銀河系外に弾き飛ばすくらいのことはしかねない男なのだ。 星矢は、氷河の恋の未来に希望を見い出すことができなかった。 希望どころか、打ち消しても打ち消しても、星矢の胸中に生まれてくるのは悪い予感ばかり。 「よりによって瞬かよ〜……」 そうぼやく星矢の声は、聞きようによっては泣き言にも聞こえるほど情けないものだった。 |