事件が起きたのは、A校中等部入学試験の合否発表が済んでから最初の日曜日。 幾人か残っていた卒業生たちが全員 寮を出、自宅に帰っている新1年生2年生も未だ寮に戻ってきていない、A校の寮の人口が極少になる時季。 つい先ほど、ほとんど生徒のいない学食で共に朝食をとったばかりの瞬の部屋に 星矢が赴いたのは、瞬を遊びに誘うためでも、A校での生活をレクチャーするためでもなく、瞬に恋をして お花畑の住人になっている男を捜すためだった。 「瞬。おまえ、氷河、知らねーか」 「氷河? ううん。氷河がどうかしたの?」 瞬は、机の上の右手に中学で使っていたテキスト、左手に新学期から使うテキストを積んで、間もなく始まる御三家高校での授業に備えて予習と復習をしていたところだったらしい。 氷河の所在を問われ、軽く左右に首を振ってきた。 「さすがに、瞬のとこに夜這いにくるほど正気を失っちゃいないか……」 安堵と失望の入り混じった独り言を口の中で呟いてから、星矢は顔をしかめることになったのである。 「あいつ、夕べ、寮の部屋に帰ってこなかったらしいんだよ」 「部屋に帰ってなかった?」 少し不安そうな目になった瞬に、星矢が浅く頷く。 「ほら、こないだ教えただろ。ウチのガッコ、授業のない日は生徒のケータイや自宅のPCに安否確認メールを送って、その返信の有無で生徒の身の安全を確認してるって。夕べ、氷河の寮のPCに送られた安否確認メールに返信がなかったんだと。寮の部屋にはいないし、外出届けも出てねーし……。何かあったんじゃないかって寮監が言ってきたから、あの馬鹿を捜してるとこなんだ。無届けで外に出たのかもしれないってんで、今 紫龍が警備員室の監視カメラの映像をチェックしてる」 「安否確認メールに返信がなかったの……」 昨夜、瞬が、学校から貸与されたPCで安否確認メールを受け、在室を知らせるメールを返信したのは、夜の11時だった。 では、その時には既に氷河は寮の部屋にいなかったことになる。 「心当たりねーか? 最後に氷河に会ったのはいつだ? あいつ、ケータイ持ち歩かねーから、掴まえようがないんだよ」 これが ひと月前のことだったなら、星矢もあまり深刻に氷河の身を心配することはしなかったのである。 いずれ どこからかひょっこりと顔を出すに違いないと、たかをくくっていられただろう。 だが、今の氷河は ひと月前の氷河ではない。 氷河は今、恋のせいで まともな判断力を失っているのだ。 瞬のちょっとした言動一つが原因で何をしでかすかわからない男。 それが今の氷河だった。 「僕が氷河に最後に会ったのは昨日の午後だよ。3時頃かな。タイミングがいいんだか何なんだか、僕たち、このところ毎日 図書室で鉢合わせしていて、ラウンジでいろんな話をするのが日課みたいになってたから。昨日もそうだったんだけど、氷河、突然 真っ赤になって、飛び出していっちゃったんだ」 偶然を装って 瞬と図書館で鉢合わせをするために、氷河がどれほど苦労していたかを、瞬は知らない。 氷河の苦労を『タイミングがいい』の一言で片付ける瞬に、星矢は内心で、罪のない罪とはこういうものかと嘆息することになったのである。 「真っ赤になって飛び出してった? おまえ、何か氷河を刺激するようなことでも言ったのか?」 「刺激?」 星矢の単語の選択を、瞬は奇妙に感じたらしい。 それでも、今はそんなことより氷河の所在をつきとめることの方が優先課題と思ったのか、瞬は その件には触れずに、昨日彼が氷河と別れたときの様子を星矢に語り始めた。 「初めて会った時のことを謝っただけだよ。氷河の顔が、だんだん優しくて印象的に見えるようになってきたって言っただけ。顔のこと、あれこれ言われるの嫌がってたから、それで怒っちゃったのかな……。そんなつもりはなかったんだけど……」 瞬の表情がうっすらと曇る。 瞬の説明を受けて氷河の暴走(?)の理由を察した星矢は、瞬のそれとは別の意味合いで顔を曇らせることになったのだった。 「いや、多分、氷河は嬉しくて、照れて逃げ出したんだ」 「え?」 「あの馬鹿、嬉しがって東京湾に飛び込んだりしてなきゃいいけど……。あいつ、極端から極端に走るとこあるし、典型的な利口馬鹿だし――」 『東京湾に飛び込む』とは穏やかではない。 瞬の顔の曇りは更に深みを増すことになった。 「僕も、氷河捜すの手伝うよ」 「ああ、そうしてくれると――」 『助かる』と言おうとした星矢の声が、ノックの音で遮られる。 ノックの主は紫龍で、彼は星矢が開け放しにしていた瞬の部屋のドアを律儀にノックして、部屋の主に入室の許可を得ようとしたものらしかった。 はっきりしたものではなかったが、彼がその顔に微笑めいたものを浮かべているのを見て、星矢は一瞬 行方不明の男の居場所がわかったのかと期待したのである。 残念ながら、そうではなかったが。 「今、正門と裏門の監視カメラの映像を確認してきた。氷河は学校の外には出ていないようだ。氷河は校内にいる。で、すまんが、瞬。氷河を捜すのに力を貸してくれ」 「校内に? うん。じゃあ、すぐに手分けして校内を――」 「その必要はない。氷河は校内にいるんだ。寒いところ申し訳ないが、おまえ、グラウンドの真ん中に しばらく一人で立っていてくれ。それで氷河は見付かるだろう」 「は?」 瞬には理解できなかった紫龍の意図が、星矢には すぐにわかった。 が、だからといって、星矢が紫龍の計画に呆れなかったわけではない。 「瞬を、氷河をおびき出すエサにすんのかよ」 「エサ……って、氷河が行方不明になったのは、やっぱり僕のせいなの?」 「そういうわけではないが、他の誰かのせいでもないな」 「そんな……」 紫龍の断言ともいえない断言が、瞬には小さくない衝撃だったらしい。 なぜそんなことをしなければならないのかと尋ねることも思いつかない様子で、瞬はふらふらと心許なげな足取りで 紫龍に指示された場所に向かったのである。 自分の心ない言葉のせいで氷河は失踪したのだ――と思い込んだ瞬が、グラウンドの真ん中に立って僅か2分後のことだった。 「瞬! 何かあったのか、こんなところに一人で! 風邪をひいたりしたらどうするんだ!」 氷河が、途轍もない勢いで瞬の側に駆け寄ってきたのは。 氷河の姿が現われた方向にあったのは1本の背の高いポプラの木で、どうやら 瞬の姿に気付くまで、彼はその木の上にいたらしかった。 紫龍の計算通り、見事にエサに食いついてきた氷河に、星矢は盛大に舌打ちをすることになったのである。 失踪した氷河の身を案じていたのは、失踪男の友人たちの方である。 氷河には、偉そうに瞬の身を案じる権利などないのだ。 「何してたんだ、この馬鹿たれっ!」 星矢に大声で叱責されても、氷河は その目を星矢にはちらりとも向けなかった。 氷河の視線は瞬の上に据えられたままである。 とはいえ、それで氷河を責めるのは気の毒というものだったろう。 失踪男でなくなった氷河の前で 俯いている瞬の様子は、氷河の心配も当然なほど、力なく打ち沈んでいたのだ。 「氷河が部屋に帰らなかったのは僕のせいなの?」 そう尋ねて瞼を伏せた瞬は、それでも氷河から否定の答えが返ってくることを期待していたようだった。 が、瞬の期待は裏切られることになった。 氷河は、瞬の問いかけに、あまり迷った様子もなく頷いてきたのだ。 頷いて、だが、氷河はすぐに少し照れたような笑みを作った。 「嬉しかったんだ」 「え?」 「俺の顔が印象に残るようになったと言ってくれたろう。その……大いなる誤解だとは思うが、俺を優しいとも」 「言ったけど……」 「それで嬉しくなって、高いところに登りたくなった」 「それで嬉しくて高いところ……って……」 氷河失踪の原因を知らされた瞬が、言葉を失う。 星矢は、瞬の絶句の理由を、当然のことながら、『どれほど嬉しい言葉を告げられたにしても、それで高いところに登りたくなるというのは、普通の人間のすることではない』と驚き呆れたから――なのだと思った。 が、実はそうではなかったらしい。 瞬に言葉を失わせたものは、『高いところに登りたくなるほど、そんな言葉が嬉しかったのか』という感激だったのだ――そうだったらしい。 「そんなことで……」 氷河の言葉に戸惑う瞬に、 「嬉しかったんだ……」 氷河が、もう一度、その言葉を繰り返す。 「馬鹿と煙は高いところに登りたがるっていうけど……。氷河、おまえ、やっぱり、利口より馬鹿の方だったんだな」 馬鹿でも阿呆でも、この世に4人しかいないタダ飯仲間である。 憎まれ口を叩きはしても、星矢は氷河の無事を喜び、また安堵もしていた。 だから、仲間の無事に安堵することに気を取られ、星矢は気付かなかったのである。 春の雨に色を失った白いソメイヨシノの花が、暖かい春の陽射しを受けて再び薄桃色の色を取り戻すように――『嬉しかった』と氷河に告げられた瞬の頬が、ぽっとほのかに色づいたことに。 |