アンナがヒョウガを連れていったのは、村外れにある小さな家だった。
レンガではなく漆喰と木でできた、こじんまりとした家。
庭にある小さな菜園にはカモミールやセージが植えられている。
その庭先に人影を見付けるや、アンナは ヒョウガをその場に残して、勢いよく駆け出した。
「シュンちゃーん。私のおにんぎょさん、元気になったー !? 」
家の住人が、アンナの声を聞いて その顔をあげる。
「アンナ、おはよう。今日も元気だね」
優しい響きの穏やかな声。
小さな家を囲む野茨の小柴垣の向こうに立つ少年の姿を視界に映した途端、ヒョウガは我知らず大きく息を呑むことになった。

「これは……」
本音を言えば、ヒョウガは、人口500にも満たない小さな村での“いちばん綺麗”など どれほどのものかと侮っていたのである。
だが、噂の人物は確かに“いちばん綺麗”な人間だった。
ヒョウガがこれまで出会ったことのある ありとあらゆる人間の中で“いちばん”。

身に着けているものは、貧しい農村の大抵の子供が着ているような麻のシャツや上着ではなく、こざっぱりした綿だったが、決して華美なものではなく、贅沢なものでもない。
この村の住人の衣服としては上等で異質なものではあるのかもしれないが、少し大きな町に行けば平民の子供でも普通に身に着けている程度のものである。
だから、ヒョウガが息を呑んだのは、決して彼が身に着けている衣装の美しさに目がくらんだせいではなかった――飾るものがなくても、少年は美しかった。

白い肌。
華奢な手足。
体格は 少し痩せ気味といっていいくらいのものだったが、彼の健康が その肢体を貧弱に見せていない。
淡い色のやわからい髪と、野に咲く白く控えめな花のように優しい表情。
顔の造作の端正は言うまでもないが、その澄んだ瞳の色と輝きは、女神アテナも敵わないほど美しく印象的で、なぜこんなにも美しい人間がこんなところにいるのかと、ヒョウガを驚かせ、戸惑わせることになった。
すぐに、ヒョウガは、こんなところだからこそ、この少年は 清楚という美徳を失わずにいられたのかもしれないと考え直したが。
ともかく、その少年を美しく見せているのは、彼の瞳の清澄の持つ力。
奇跡のように美しい その瞳の印象だった。
ヒョウガはしばらく 言葉もなく その場に立ち尽くし、本気で呆けていたのである。

「アンナ、こちらの方はどなた」
ヒョウガが何とか我にかえることができたのは、その少年の美しさが、対峙する者を突き放すような冷たいものではなかったからだった。
“シュンちゃん”の気取りがなく親しみやすい声のおかげで、ヒョウガの心は現実に戻ってくることができたのである。

「あのね、このお兄ちゃんはご領主様のお使いでマジョを捜しに来たんだって。ヒョウガさんだよ」
「ま……魔女……?」
ドイツ国内に魔女狩りの嵐が吹き荒れていても、こののどかな村では、やはりその単語は日常的に使われることのないものだったらしい。
不吉な言葉に さっと頬を青ざめさせた“シュンちゃん”に、ヒョウガは大いに慌てることになった。
「違う。俺は魔女なんてものを捜しに来たわけではない」
「でも、父さんがそう言ってたよ?」
「それは誤解だ」

この少年の前で、“魔女”を語るのは、もしかしたら春はまだ来ていないのではないかと怯えながら 恐る恐る顔をあげた春の花を『もうすぐここには嵐が来るぞ』と言って脅すようなものである。
ヒョウガは、そんな心ないことはしたくなかった。
それがアンナの誤解なのか、村長の勘繰りによる誤解なのかは わからなかったが、ヒョウガは急いで その誤解を否定した。
「恐がらないでくれ。魔女なんているはずがないだろう。俺は人を捜しているだけだ。あー……そうだな、たとえば、この村でいちばんの力持ちとか」
「力持ち? それなら、シュルツさんのところのルカス……かな」
「ふむ」

まるで そのルカス某が非常に重要な人物であるかのようにヒョウガが頷いてみせたのは、自分が魔女狩りにやってきたのではなく、確かに他に用件があるのだということを、この澄んだ瞳の持ち主に信じてもらいたいと思ったからだった。
自分が“シュンちゃん”に怯えられるような人間でありたくなかったから。
だが、ヒョウガのその対応は、シュンの胸に、また別の不安を運んでくるものであったらしい。

「まさか、この村の人たちを戦争に連れていこうとなさってるんじゃ……」
世に二つとない翠玉のように透き通り輝いているシュンの瞳が、ヒョウガの言葉のせいで にわかにかき曇る。
ヒョウガは、自分の軽率に、内心で大きく舌打ちをした。
「あ、いや、そうじゃない。今度、ヴェーザー川の上流に橋を架けることになって、工夫として適当な力自慢を捜しているだけだ。強制的に連れていこうとしているのでもない。もちろん 相応の労賃を提示して、それで相手が納得したらの話だ」
こうなると、シュンの瞳を曇らせないためになら、どんな嘘でもついてやろうという気になる。
ヒョウガは、適当に当たり障りのない作り話を即興で捏造した。
「ああ、そうなんですか」
それでシュンはやっと安心してくれたらしい。
再び明るく輝き出したシュンの瞳に、ヒョウガもまた安堵することになった。

「それで、力持ちの人を捜しにいらしたんですか? でも、ルカスは 最近歩けなくなったお母さんと二人暮らしだから、お給金がどんなによくても家を離れることはできないんじゃないかな。うん、でも、ちょうど ルカスに頼まれた繕い物を届けに行かなきゃならないところでしたから、僕、ご案内しますよ。ちょっと待っていてくださいね」
そう言って、シュンが急ぎ足で家の中に駆けていく。
シュンの瞳と視線を感じなくなると、ヒョウガは急に自分の身体から力が抜けていく感覚に襲われた。
それは、緊張から解放された脱力感と 明るく温かい希望を見失った脱力感の両方が入り混じってできたような感覚で、ヒョウガは、自分の理性と感性が、シュンを敵にも味方にも感じていた事実を自覚することになったのである。
シュンは、確かに“不思議な力”の持ち主ではあるようだった。
ヒョウガは、他人から そういう感じ・・を感じさせられた経験は、これまで ただの一度もなかった。

「私も、ルカスは村を離れない方がいいと思う。その方が色々なことがうまくいく可能性があるから」
突然、ヒョウガの心臓より はるかに下の方から、子供の声――だが、子供らしからぬ口調の声――が聞こえてくる。
なぜそんなふうに思うのだと、ヒョウガはアンナに尋ねようとしたのだが、ヒョウガがそうする前に彼女は家から出てきたシュンの許に駆け出していた。

「わあ、お花みたいなおリボンー!」
シュンがアンナに手渡した布製の人形の長い黒髪には、ピンク色の花びらを重ねて作ったようなリボンがついていて、アンナはそれがいたく気に入ったらしい。
自分の二の腕ほどの丈の人形を嬉しそうに抱きしめたアンナの表情は、間違いなく10歳前後の少女のそれで、ヒョウガは、だから、先程の彼女の言葉には深い意味はなかったのだろうと思うことになったのだった。






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