「シュン。また窓枠にガタでもきたのか」
「ううん。この間はありがとう。頼まれてた上着の繕い物が終わったから届けにきたの。肘と肩に当て布をしておいたから、今度からは滅多なことでは擦り切れなくなると思うよ」
噂のルカス某は、村の南側にある、あまり立派とはいえない家に住んでいた。
シュンの家よりは大きいが、あちこちに修繕が重ねられているのがわかる木の家。
ヒョウガたちが彼の家を訪れた時も、彼はかまどの脇にある鍋置き用の木の棚を新しいものに変えようとしているところだった。

村の中では貧しい方に入るのかもしれないが、その表情に暗さはない。
村長の姉娘は、この村には ガサツな男と しょぼくれた男しかいないと愚痴っていたが、やはり彼女の意見は話半分で聞いておいた方がよさそうだと、ヒョウガは思ったのである。
ルカス某は、着ているものは確かに粗末だったが、20代半ばの、いかにも力仕事で鍛えられた たくましい体躯と嫌味のない素朴な表情を持つ朴訥な好青年だった。
もっとも、ヒョウガには、彼が特別の力を持たない ごく普通の青年だということが――彼は聖闘士ではないということが――彼と対峙した瞬間にわかってしまったのだが。

彼は、どうやら、自分の家だけでなくシュンの家の修繕をしてやることもあるらしい。
「親切なんだな」
「いや、シュンは一人暮らしで大変なんだ。困った時はお互い様で、俺も、シュンには服の繕い物をしてもらったり、香草を分けてもらったりしている。ウチのお袋は この頃、足だけでなく目も悪くなって、繕い物ができなくなってしまったんだ」
「では、シュン――は、繕い物で生計を立てているのか?」
「シュンはただでやってくれる。兄貴がご領主様に仕えていて、そっちから 生活に困らないよう、色々届けられてるらしい」
「それは――」

ルカスに対して 領主の使いで領地の見まわりに来た者と自己紹介をしたばかりだったヒョウガは、彼のその言葉を聞いて、少しく慌てることになったのである。
「それは知らなかった。もしかしたら、俺もシュンの兄にはどこかで一度くらいは会っていたかもしれないな」
ヒョウガのその場しのぎのぼやきは、幸い、その場にいた誰にも疑念を抱かせずに済んだらしい。
「ご領主様に仕えている人は何百人もいるそうだから……」
瞼を伏せて そう呟いたシュンに、ルカスが僅かに痛ましげな視線を向ける。
察するにハインシュタイン伯に仕えているシュンの兄は、弟の許に金品を届けるだけで、本人が弟の許に戻ってくることはないのだろう。
まだ子供といっていい歳で一人暮らしを余儀なくされているシュンを、ルカスは気の毒に思っているようだった。

「シュンちゃんはみんなに優しいから、みんなも優しくしてくれるんだよ。お姉ちゃんたちもそうすればいいのに、お姉ちゃんたちはいつも文句ばっかり言ってる。この村の男たちはシュンちゃんにばっかり優しくして 変だって」
アンナの邪気のない――だが、聞きようによっては皮肉な――言葉に救われたように、ルカスはその顔に再び素朴な笑みを浮かべた。
「シュンは、村の娘たちの誰より優しいからな。どんな娘より綺麗だし。この村の娘たちは皆、村の男たちを軽蔑していて、言い寄っても嫌味を言われて肘鉄を食うだけだから、男たちも諦め気味なんだ」

「お姉ちゃん、繕い物なんか嫌がるもんね。へたくそだし。私も、お姉ちゃんには絶対に この子を預けられないもの」
シュンの手で“元気”になった人形を大切そうに抱きしめて、アンナが言う。
姉を酷評するアンナの様子を見て、ルカスは苦笑した。
「以前、一度だけ上着のかぎざきの繕いを頼んだことがあるが、驚くほど悲惨な出来で、すぐにシュンに頼み直したな。それがばれて、俺はすっかりラウラに嫌われてしまった」

『それは災難だったな』と、ヒョウガは ほとんど声に出しかけていた。
あの気の強そうな娘に睨まれたら、その人間は さぞかし悲惨な目に合わされることになるだろう。
シュンの瞳が悲しげな影を帯びていることに気付かなかったなら、ヒョウガは素朴な青年が背負い込んだ とんだ災難を笑い飛ばしてしまっていたかもしれない。

「そんなことしちゃいけなかったの。ラウラさん、きっと お裁縫なんてしたことなかったのに、ルカスのために、お母さんにも頼まずに自分の手で一生懸命 繕ったんだよ。それなのにそんなことされたら、誰だって悲しいでしょう。だから、あんなふうに意地を張るようになってしまったんだよ。そんな経緯があったって知っていたら、僕だってラウラさんを悲しませるようなことの片棒を担いだりはしなかったのに……」
「だが、それにしたって意地を張りすぎだろう。俺はもう1年以上もラウラと口をきいてもらえずにいる」

「なるほど、そういうことか」
二人のやりとりを聞いて、ヒョウガはやっと事情が飲み込めたのである。
だから、あの我儘娘はシュンを嫌っていたのだろう。
あの姉娘は、この素朴な青年を好きなのだ。
彼女にとってシュンは 好きな男が自分よりも好意を寄せている憎らしい相手。彼女がシュンに好意を抱けるわけがない。
わかってみれば馬鹿馬鹿しさを覚えるほど くだらないことである。
が、そのくだらないことの当事者の一人に妙な影響力と統率力があるせいで、事態は笑い話では済ませられないことになっているのだ。

「ラウラに限ったことじゃない。この村の娘たちはみんな 村の外に行きたがっていて、どんなに熱心に言い寄っていっても、村の男たちは必ず振られるんだ」
「みんなじゃないよ。そう言ってるのは お姉ちゃんだけ。他の子たちは、お姉ちゃんに逆らうのが恐いから、お姉ちゃんにならってるだけだよ。お姉ちゃんの手前、村の男たちと仲良くできなくて困るからどうにかしてくれって、時々私に言ってくるもん。私だっていい迷惑だもん」
「ラウラさんは、本当はルカスを好きなの。優しくしてあげて」

聡明すぎる小さな少女と 綺麗すぎる華奢な少年に同時に責められて、大きな図体をした男は 二人の間で大いに往生することになったらしい。
だが、その件に関して、彼は既に彼なりの結論に至っているようだった。
それは、ほとんど諦観によって作られた結論のようだったが。
「何をしても、肘鉄を食うのが落ちだ」
「そこを ちょっとだけ我慢して……。そしたら、好きな人のためだもの、ラウラさんだって、すぐに素直に――」
「シュンにそう言われて、俺は何度もラウラに謝ったんだ。そのたび、『許せない』『侮辱だ』と癇癪を起こされて――我慢にも限界がある。俺は親切にしてくれる人にこそ親切にしたいし、優しくしてくれる人にだけ優しく接したい。それは変なことか? 当然のことだろう?」
「それは……」

それは“変なこと”ではないだろう。
すっかり依怙地になってしまっている娘の恋を案じたところで 得られるものは徒労感だけとわかっているのに、そんな我儘娘の心を気遣ってやっているシュンの方が、よほど“変”なのだ。
「お姉ちゃんがもう少し素直で、シュンちゃんの100分の1でも優しかったらよかったのに」
シュンの“変”は、つまり“優しい”ということで、それがわかっているから我儘娘の妹はシュンを好きでいるらしい。
「君の姉さんが、君の100分の1でも利口だったらよかったのにな」

なぜ あの姉娘の妹がこれほど聡明なのか。
この世には実に奇妙な事態が出来しゅったいするものだと思いながら、ヒョウガは溜め息を一つ ついたのだった。






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