ヒョウガがシュンに村の案内を頼んだのは、彼が シュンの尋常でなく澄んだ瞳に惹かれたからだったが、その選択が最も適切な選択だったことを、まもなくヒョウガは実感することになった。 ヒョウガが捜しているのは、その心身に聖闘士の小宇宙を養う可能性を持つ、おそらくは若い男で、村長の姉娘が言っていた通り、シュンはそういう男たちに異様に受けがよく、当然のことながら彼等の家はどの家もシュンを快く迎え入れてくれたから。 そういった家々の中には、もちろん若い娘のいる家もあったが、彼女たちですら、村長の姉娘の目が届かない家の中では、シュンに対して至極愛想がよかった。 それは、シュンが報酬を求めずにちょっとした家事を手伝ったり、時には病人や子供の世話や水汲み等の仕事をしてやっているせいもあるようだったが、娘たちの親切の第一の理由は、彼女等がそれぞれに好意を抱いている相手が誰なのかをシュンが知っており、彼女等の意中の人の情報をシュンが さりげなく娘たちに知らせてやっているから――のようだった。 「ミュラーさんとこのステファンは、明日から北の葡萄畑で幹の皮剥ぎ作業を始めるつもりだって言ってましたよ」だの、「ベッカーさんとこのヘルマンはキャベツの葉より芯の方が歯ごたえがあって好きなんだって」だのという、ちょっとした情報をシュンに知らされた娘たちは、「ふーん、そうなの。私には関係ないけど」と言いながら、その瞳を輝かせる。 そんな娘たちの様子を見て静かに微笑するシュンを見るたび、ヒョウガは、村長の姉娘の頑なさを傍迷惑と思わないわけにはいかなかった。 そんな気遣いまで見せながら、シュンは毎日くるくるとよく働く少年だった。 兄がハインシュタイン家に召し抱えられた際、耕地の大部分は手放したのだが、家の周囲の菜園だけは残しておいたのだそうで、シュンは毎日こまめに その菜園の香草の世話をしていた。 働き手の足りない家や病人が出た家に しばしば赴き、相手に恩を着せないように気を遣いながら、シュンは 家事はもちろん、老人の世話から赤ん坊のお守り、子供の遊び相手までこなしていた。 ヒョウガには、シュンのその様子が、まるで 考えたくないことを考える暇を持てないようにするために懸命に自分を多忙にしている人間のそれのように見えたのである。 ヒョウガがそう感じるようになったのは、シュンが時折 放心したように虚空を見詰めていることがあるからだった。 シュンは すぐに我にかえるのだが、シュンは そんな時には必ず、何か物言いたげな様子でヒョウガを見詰めてくる。 切なげで苦しげにさえ見えるシュンのその眼差しは、まるで恋焦がれているものに近付くのを恐れている少女のそれのようで、ヒョウガはシュンのその眼差しに出会うたび困惑し、そして、うぬぼれてしまいそうになったのである。 シュンと共に村の家々を訪れているうちに、ヒョウガは、そうなることを望んだわけでもないのに、村の個々の家の事情に通じるようになっていったのだが、シュンは、自分のことだけはほとんどヒョウガに語ろうとはしなかった。 ヒョウガが知りたいのは、ノイマン家のオットーが猫舌で熱いスープが飲めないというようなことではないというのに。 自分のことだけは語ろうとしないシュンに、ヒョウガが思い切ってシュン自身のことを尋ねてみたのは、ヒョウガがこの村の若い男たちを あらかた検分し終えたある日。 ある家から、手入れを怠ったせいですっかり錆びついた農具を幾つも預かってきたシュンが、テーブルの上で それらの錆落としの仕事を始めた時。 農民が、いわば自分の仕事道具である鍬や鋤をぞんざいに扱い、あまつさえ その不始末の尻拭いを他の家の者に頼む神経に、少なからず憤りを感じてしまったからだった。 「村長のところの我儘娘が、兄からの仕送りがあるから、おまえは本当は働く必要がないと言っていたぞ。にもかかわらず、おまえが毎日こまねずみのように働いているのはなぜだ? しかも、自分のためではなく他人のために。おまえはまるで、懸命に自分の身体を疲れさせたがっているようだ」 「そんなことはないですよ。だって、人は、働く必要がないから何もしないでいるなんてことはできないでしょう」 「 「それは町に住む人のやり方で、こんな小さな農村では通じない やり方ですよ。それに……人が何かをするっていうことは、誰かのために何かをすることでしょう。自分のために何かをしても詰まらない。一人でいるのが長くなるにつれ、僕は そう思うようになりました」 「そんなものか?」 シュンにそう言われても、ヒョウガは完全には得心がいかなかった。 ヒョウガは聖闘士で、聖闘士というものは地上の平和と安寧を守るために――つまりは、人のために――戦いという労働をするものである。 だが、そのために 合点できずにいるヒョウガを、シュンが いつものあの切なげな眼差しで見詰めてくる。 そうしてから、シュンはその目許に ごく薄い微笑を浮かべた。 「僕、本当は、少しラウラさんが羨ましいの。好きな人のために一生懸命意地を張るのって、どんな気分なのかなって思う」 シュンにかかると、村長の姉娘の依怙地さえ“他人のため”の行為ということになるらしい。 そういう意味でなら――人に益を与えない行為も“人のため”に為されていることと解するなら――確かに人は、誰もが誰かのために働いていると言えるのかもしれない。 シュンが日々 為している行為がそういうものであったなら――たとえば、誰かの気を引くことを目的とした我欲絡みのものであったなら――俺も特段 シュンの生活を奇異なものと感じることはなかったろうにと、ヒョウガは思ったのである。 「シュンにもそのうち、意地を張りたくてたまらない相手が現われるだろう」 「僕はきっと……誰かをそんなふうに好きになっちゃいけない人間なんです」 明らかに声の調子を沈ませ 暗くしてシュンが告げた言葉に、ヒョウガの感情と神経は ひどく敏感に反応した。 鼓動は異様に速くなっているのに、心臓が全身に送り出す血は冷えきっている。 つまり、シュンのその呟きは、ヒョウガには全く喜ばしいものではなかった。 「なぜだ」 不自然なほど強張った声でのヒョウガの問いかけに、シュンが泣きそうな目をして、 「わかりません」 と答えてくる。 シュンがそんな考えを抱くことになった経緯を確かめ、その誤った考えを正してやるのが 今の ヒョウガは、実際、そうしようとしたのである。 にもかかわらず、ヒョウガがその作業を実行に移すことができなかったのは、彼の感情が『そんなことはない。おまえの“誰か”は この俺だ』と叫び訴えたがっていることに、彼が気付いたからだった。 ヒョウガは、そんな自分の感情に、慌てて自重を促したのである。 アテナに命じられた任務を果たしてもいないのに、 喉を通らず 胸を突き破って外に出たがっている その叫びを抑えつけるために、ヒョウガはかなりの無理をして シュンとの会話の話題を変えたのだった。 「――おまえには兄がいるそうだな」 「はい。僕より5つ上の」 「ここには しばしば帰ってくるのか?」 ヒョウガに問われたシュンが、力なく首を横に振る。 ヒョウガが懸命に感情の上に理性を据えて持ち出した話題は、あまりシュンの気持ちを明るくするものではなかったようだった。 「兄は強くて――押し出しもよかったから、ご領主様に気に入られて、こんなひなびた村で土を相手にしているのはもったいないと言われて、ハインシュタイン家に召し抱えられたんです。でも、今は――」 「今は?」 「村の人たちは、兄さんは今でもご領主様にお仕えしていると思っているようですけど、兄さん、今はもう ご領主様のところにはいないようなんです。兄さんのことだから、どこかの騎士団に入ったか、傭兵になったか――そんなところだろうとは思うんですけど、何も知らせてくれなくて……。時々お金が届くけど、どこにいるのかは教えてくれない。だから、僕から手紙を出すこともできないままです」 「おまえは読み書きができるのか」 現在のドイツでの識字率は20パーセントに届いていないはずである。 都市部はもう少し高いだろうが、農村部では当然 その率は平均以下に下がる。 まして、こんな辺鄙な村では、文字を読める人間は非常に珍しい。 村長でさえ、字は読めないようだった。 「ちょっとだけ。僕たちの両親は、20数年前に、どこかの町から この村に移り住んできた人間で、読み書きができたんです。兄は両親から、僕は兄から教えてもらいました。父は僕が6歳の時、母は僕が10歳の時に亡くなりましたから」 「それから、兄がこの村を出ていくまでは 兄弟ふたりでここで暮らしていたのか?」 「ええ。若いというより、まだ子供だった僕たちを、この村の人たちは色々と助けてくれました。僕が今あれこれしているのは、その時の恩返しでもあるんです。この村の人たちは みんな、本当にとても優しいから」 苦笑と共に『あの我儘娘以外は』と言ってしまいそうになって、ヒョウガは またしても自戒という作業に取り組むことになったのである。 この村の者は皆 優しいと思いたがっているシュンの心に無用な傷を負わせる必要はない。 この村の者たちは皆 優しい。 そう信じていられることが、この村で一人で生きている寂しがりやの子供には唯一の心の支えだったのかもしれないと思えば、わざわざそんな事実を提示することは、それこそ心ない振舞いというものだろう。 「確かに、この村には素朴で親切な者が多いようだ」 浅く頷き、ヒョウガはシュンに同意してみせた。 『中には |