世界の王となる運命を背負わされた氷河王子の、俗世の汚れから遮断された塔での暮らしは既に18年の長きに及んでいました。
中継ぎ王カミュの最近の悩みは、氷河王子の情緒不安定。
悪徳や負の要素の入り込む隙間ひとつない清潔清浄な塔の中にいるというのに、最近の氷河王子は いつもいらいらしていて、その様子にカミュ国王は大層 心を痛めていたのです。

ちょうどそんな時でした。
南方にある小国から一人の王子がはるばる北の国までやってきて、氷河王子に仕えたいと申し出てきたのは。

氷河王子は18歳になっていました。
ありとあらゆる俗世の汚れから遠ざけられて18年。
もはや彼が世界の王になるのは確実と見越して、他国の者が未来の世界の王に取り入るためにやってきたのかと、最初 カミュ国王は、南の国の王子の申し出を疑ったのです。
氷河王子に仕えたいという申し出が、南の国の王子自身もしくは彼の故国の益を考えてのことだったなら、彼を氷河王子に近付けることは、氷河王子に私利私欲という悪徳を知らせることになってしまいかねません。
18年間の苦労を一瞬にして水泡に帰すようなことがないように、カミュ国王は慎重に対応しなければならなかったのです。

けれど話を聞くと、どうも そういうことではなさそうでした。
はるばる南の国から 世界の北の端までやってきた若い王子は、大層健気な様子でカミュ国王に告げたのです。
「瞬と申します。先月 母が亡くなり、その遺言を果たすために こちらに参りました。故国の王位は兄が継ぎ、治めています。僕自身は故国と王子の身分を捨て、氷河王子様に仕えるために、身ひとつでこの国にやって参りました。どうか僕の願いをお聞き届けください」

瞬王子は、この世の汚れを知らぬ子供のように美しく澄んだ瞳の持ち主でした。
氷河王子より幾つか年下らしく、体格も 青年のそれというよりは少年のそれ。
そして、氷河王子に近付けることが固く禁じられている様々の悪徳を、氷河王子以上に知らない風情をしていました。
氷河の情緒不安定は友人と呼べる者がいないせいかもしれないと憂慮していた時だっただけに、これは天啓かもしれないと、カミュ国王は思ったのです。

王子の身分を捨ててきたというのなら、瞬王子は 自らが富や権力を手に入れることを望んではいないのでしょう。
故国を捨ててきたというのなら、国益を考えてのことでもなさそうです。
仮にも一国の王子だったのであれば、それなりの分別と品位も備えているだろうと、カミュ国王は思いました。
実際、瞬王子の態度や言葉使いは大変丁寧で品もあり、その姿も可憐そのもの。
可憐どころか、へたをすると少女と見間違えてしまいそうなほどでしたが、それはつまり、瞬王子に争いを好む猛々しさがないということです。
温和な性質は、氷河王子に接する者に必ず求められる、とても重要な美質でした。
なにしろ、世界中の人々が氷河王子に望んでいるのは、争いのない世界の実現でしたから。
闘争心や攻撃性という悪徳は、絶対に氷河王子に知らせてはならないものだったのです。

カミュ国王は、この少年なら氷河王子に会わせても、氷河王子に悪い影響を与えることはないだろうと ほとんど確信していました。
ですが、氷河王子は大切な大切な世界の希望。
念には念を入れる必要があります。
ですから、カミュ国王は、瞬王子がこの国にやってきた詳細な事情を、重ねて瞬王子に尋ねたのです。
人を動かす動機は、私利私欲でなければ正しい――とは、必ずしも言えるものではありませんから。

「ところで、君の母君はなぜそんな遺言を遺したのだ?」
カミュ国王に問われると、瞬王子は 澄んだ その瞳に一瞬 切なげな影を落としました。
「僕は――氷河王子様が生まれた3年後に、やはり尾を太陽に向けて飛ぶ彗星が天に現われた日の翌日に生まれたのです。一日早く生まれていたら、僕は氷河王子様と同じような期待を人々に抱かれ、氷河王子様と似たような境遇を耐えることになっていたかもしれません。僕の母は、僕の誕生日が一日遅かったから、僕たち親子は一緒にいられるのだといつも言っていました。氷河王子様は人々の期待を背負い、父君母君ともあまり会えず、その清廉を守るために厳しく孤独な日々に耐えていると聞きました。僕の母は、そんな氷河王子様と王子様の母君の気高く美しい犠牲心をとても尊敬していました。それで、先月 病で亡くなった時、僕に遺言したのです。北の国に行って、氷河王子様に仕えなさいと」

「おお、それは……」
では、瞬王子は母を失って早々に 故国と身分を捨て、母の願いを叶えるために遠い北の国まで たった一人でやってきたことになります。
それもまた気高く美しい志だと、カミュ国王は瞬王子の決意に 大層感動したのです。

「こんな言い方は氷河王子に対して失礼かもしれませんが、僕は、一国の王子とはいえ、氷河王子に比べれば、ごく普通の子供として自由を謳歌してきました。家族の愛に包まれ、幸福な子供として生きてきました。僕の母は、僕と一緒にいられることを喜ぶと同時に、世界の人々の幸福のために、実子との別離を耐えている氷河王子の母君の強さを ことのほか尊敬し、そのつらさを、同じ母親の一人として 気の毒にも思っていたようなのです」
「そういう理由で……」

カミュ国王は、その立場上 決して言葉にして言うことはできませんでしたが、子に会えない母、母に会えない子に、身内として とても同情していたのです。
氷河王子の父君が亡くなり、かりそめのものとはいえ北の国の王位に就いた時には、母子を自由に会えるようにしてやろうかと考えたことさえありました。
カミュ国王は、そんなふうに大変 情に篤い人でした。
ですが、彼はまた、少々堅苦しい考えの持ち主でもありまして、これまできつく守られてきたルールを曲げることに躊躇を覚えないわけにもいかなかったのです。
どうしたものかと迷っているうちに、氷河王子の母君は亡くなってしまいしまいました。
カミュ国王は、生きているうちに母子を会わせてやれなかったことを、深く悔やむことになったのです。

遠い南の国で、自分と同じことで胸を痛めていた もう一人の母親がいた――。
その事実に、カミュ国王は感動しました。
そして、ずっと心の中で消えずにいた後悔の念が、疼いてきたのです。
南の国からやってきた瞬王子は、澄んだ瞳に涙さえ浮かべて、悲しい母子への思いを語っています。
この瞬王子が氷河王子に悪い影響を与えることがあろうとは、カミュには到底 思えませんでした。

「よかろう。ちょうど氷河には同じ年頃の友人がいた方がいいのかもしれないと思っていたところだ。あの子のよい友人になってやってくれ」
「友人だなんて畏れ多いことです。僕は、氷河王子様の雑役でも下働きでも――」
遠慮深い様子で健気な決意を告げる瞬王子に、カミュ国王はますます感じ入り、それから困ったように苦笑しました。
「そうはいくまい。君のように美しい様子をして 優しく気高い心を持った少年に雑役などさせたら、氷河は憤怒の悪徳を覚えてしまいかねない」
この少年ならきっと大丈夫。
そう確信して、カミュ国王は 瞬王子に、氷河王子が暮らす塔に入る許可と氷河王子に仕える許可を与えたのでした。






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