一方、神の采配で氷河王子の許にやってきた(のかもしれない)瞬王子は、氷河王子の思いがけない親しみやすさに、実は少々面食らっていました。 なにしろ、俗世から隔絶されて育った北の国の王子様は、おそらく近寄り難いほどの品格を備えた孤高の人なのだろうと、瞬王子は想像していましたから。 氷河王子は 冷徹とまではいかなくても冷静沈着な哲学者のような王子様なのに違いないと、瞬王子は思っていたのです。 氷河王子には、確かにそういう雰囲気が皆無というわけではありませんでした。 氷河王子の輝くような金髪や端正な面立ち、均整のとれた肢体。 人として完璧といっていいような氷河王子の姿形には、瞬王子も全く気後れを感じずにいられるわけではなかったのです。 氷河王子は、黙って立っていたら、それこそ青年の姿をした神とも思えるような容貌の持ち主でした。 けれど、その端正な面差しの持ち主は驚くほど表情豊かで、氷河王子は 確かに彼が心と感情を持つ一人の人間だということを、日々 瞬王子に示してくれました。 未来の世界の王は、超然とした神の心ではなく、温かい血の通った人間の心の持ち主だと感じられることは、瞬王子には非常な驚きで、そして、大変な喜びでもあったのです。 世の中のどんな悪徳も知らない氷河王子は、瞬王子にとても優しく親切に接してくれました。 瞬王子がこの国にきた経緯を知ると、氷河王子は、瞬王子に、 「そうか。おまえが こんな窮屈な暮らしを強いられなくてよかった」 と言ってくれたのです。 超然とした神ならば決して口にしないだろう言葉で、氷河王子は瞬王子を思い遣ってくれたのです。 「氷河……」 氷河王子は 嫉妬という悪徳を知らないのですから、彼が瞬王子の幸運(と、瞬王子は思っていました)を羨やんだりしないのは当然のことだったかもしれません。 けれど、氷河王子の思い遣りの言葉に、瞬王子の胸は大きく熱く揺さぶられたのです。 同時に、氷河王子が自由に外に出られない この塔での暮らしを窮屈と感じているらしいことを知って、瞬王子の胸は切なく痛みました。 生まれた時から俗世俗人から遮断され、この塔の外の世界を知らない氷河王子。 その状況が生まれたときから 当たりまえのことだったなら、人は自分に与えられた境遇を窮屈と感じることもなく、自分が自由でないことを憤ることもないのかもしれないと瞬王子は思っていたのですが、どうやらそうではなかったようです。 考えてみれば、それも当然のこと。 氷河王子が閉じ込められている塔には、数は多くありませんでしたが、外の世界を一望できる窓がありました。 未来の世界の王が無知無教養であってはならないと、身分にふさわしい教育も受けていました。 氷河王子は、自分の手でじかに触れることはできなくても、世界の広さを知っているのです。 若く健康な王子が、広い世界に胸が疼くような冒険心や好奇心を抱かずにいられるわけがありません。 けれど、どんなに焦がれても、氷河王子は自分の手で“世界”に触れることはできないのです。 氷河王子が優しければ優しいだけ、瞬王子の胸は切なく痛みました。 どうにかして 氷河王子の望みを叶えてやることはできないだろうかとも思いました。 「せめて何か、外の空気を感じられるものをお持ちしたいのですが、ここに持ち込むものはすべて厳しいチェックを受けるので……」 瞬王子は、広い世界と自由に憧れる氷河王子の心を少しでも癒すことができるなら、どんなことでもしたかったのです。 けれど、それは許されないことでした。 皮肉なことに、氷河王子が焦がれる“世界”のために。 世界の統一と平和のために。 世界が真の王を戴くために。 そのために、氷河王子個人の望みは、決して叶えられてはならないのです。 そのことは、氷河王子自身も承知しているようでした。 「ああ、わかっている。面白い書物も、美味しすぎる食べ物も、華美に過ぎる衣類も、高価な宝石も、贅沢な家具も ここには持ち込めない。俺自身が この塔の外に出て、それを手に入れようとすることは なおさら許されない」 自分の望みを叶えるために他人を犠牲にする身勝手や我儘を、氷河王子は知りません。 というより、むしろ氷河王子は 自分にそんな身勝手が許されないことを知っている――と言った方が より正確なのかもしれません。 それは 素晴らしいこと、美しいことのはずなのに、氷河王子が そういう感情は 氷河王子の前であからさまにしてはいけないものだと知っている瞬王子は、氷河王子の前で 静かにその顔を伏せることしかできませんでしたけれど。 そんな瞬王子に、氷河王子が、瞬王子にとっては意想外に明るい笑顔を向けてきます。 そして、やはり明るい声で、氷河王子は瞬王子に言いました。 「だから、叔父上がおまえを俺のところに連れてきた時はびっくりしたぞ。命を保つのに最低限必要のものしか与えてはならないことになっている俺に、こんなに綺麗で贅沢なものを与えてくれるなんて、俺はついに世界の王になるという義務から解放されたのかと思った」 「義務……」 氷河王子にとって、『世界の王になる』ということは、神に与えられた嬉しい恩寵ではなく、特別な権利でもないようでした。 価値観というものは、本当に人それぞれです。 氷河王子以外の人間が『おまえを世界の王にしてやる』と言われたら、自分に与えられる権力と栄光に狂喜する人がほとんどでしょうに。 「いや、やはり、俺が生きるのにどうしても必要なものだから、おまえは俺の許に来てくれたんだろうな」 「僕は……」 与えられたら誰もが喜び押し頂くだろう運命を 実際にその手にしている氷河王子が、ちっぽけな一人の従者を“自分に必要なもの”と感じるのは、その小さな従者が、彼には触れることが許されていない世界の一部だから。氷河王子には触れることが許されていない世界のかけらのようなものだからに違いありません。 瞬王子は、そう思いました。 氷河王子は、自由に焦がれている。 何より自由に焦がれている。 そう考えないわけにはいかないことが、瞬王子を切なく苦しめたのです。 瞬王子は、運命に縛られない自由というものを知っていましたから。 瞬王子はこれまで、氷河王子には許されなかった自由の中で、その自由を当たりまえのこととして生きてきた――生きていることができてしまっていた“王子”でしたから。 「氷河……」 氷河王子の心を慰める最良の方法は もちろん、氷河王子を塔の外に連れていくことでしょう。 そして、思う存分 世界の広さを味わってもらうこと。 けれど、それは無理な話です。 それは、世界の運命を変えてしまうかもしれないという危険をはらんだ冒険。 とても瞬王子の一存で為し得ることではありません。 瞬王子にできたのは せいぜい、自分以外の 外の世界のかけらを氷河王子の許に運んでくるくらいのことでした。 「あの……これはお持ちしてもいいと言われました」 翌日、瞬王子が そう言って氷河王子に差し出したのは、北の国のお城の庭に咲いていた小さな白い花でした。 庭師がお城の庭を飾るために植えた大きく豪華な花ではなく――人の手が咲かせた花ではなく――自然の陽射しや雨が育んだ小さな白い雛菊の花を、氷のように透き通ったグラスに数本だけ。 「少しでも氷河の心が安らげばと……」 瞬王子が塔の中に持ち込んだものを見た氷河王子が 一瞬 言葉を失ったように その瞳を見開く様に、瞬王子はしばし戸惑い、身体を縮こまらせることになりました。 氷河王子の心を慰めるつもりで、自分はもしかしたら ひどく心無いことをしてしまったのではないかと、瞬王子は不安になったのです。 簡単に人の手に手折られる小さな花でさえ、外の世界を知っている。 広い世界を通り過ぎる風に吹かれたこともある――。 けれど、氷河王子は、そんな小さな花ほどにも――そんな小さな花よりも、世界を知らないのです。 塔の中に閉じ込められた我が身を顧みて、逆に氷河王子の心が傷付くようなことがあったなら――。 氷河王子の前に花を差し出してから そんなことに思い至り、瞬王子は自分の無思慮を後悔してしまったのでした。 幸い、それは瞬王子の杞憂にすぎませんでしたけれども。 氷河王子は、瞬王子が手にしているものを見て僅かに目を細め、それから瞬王子に優しく微笑みかけてくれたのです。 「なかなか思いつかないものだったのでびっくりした。ありがとう。おまえのように清楚で綺麗な花だな」 「え……」 氷河王子が、彼自身よりも外の世界を知っている小さな花を、本当に羨まなかったのかどうかは わかりません。 けれど、氷河王子が瞬王子の思いを優しさと解し、その花と瞬王子の心を受け取ってくれたのは事実でした。 安堵というより驚きで その顔をあげた瞬王子の目に最初に飛び込んできたのは、氷河王子が焦がれているのであろう外の世界の上に必ず広がっている空と同じ色の青い瞳。 その瞳の中に自分がいることに気付いた途端、瞬王子の胸は大きく跳ね上がってしまいました。 そして、瞬王子の心臓はどきどきと高鳴り始めました。 それは奇妙なことでした。 そして、あってはならないことでした。 瞬王子は、自分が、この青い瞳の持ち主に対して、未来の世界の王への忠誠心ではなく、非常に個人的な好意と親近感を感じていることに気付いてしまったのです。 気付いて、瞬王子は全身の血が凍りついてしまったように冷ややかな恐れに支配されました。 未来の世界の王に仕えるために この塔に入ることを許された自分が、王への忠誠心ではなく氷河王子個人に向かう好意を抱くことは、もしかしたらとても危険なことかもしれない――と、瞬王子は思ったのです。 氷河王子個人に そんな感情を抱いていることが、もし他人に知れたら、瞬王子は氷河王子の側にいることが許されなくなってしまうかもしれませんでしたから。 なにしろ、未来の世界の王であることを求められ、一人の息子であることさえ許されなかった氷河王子からは、母の愛さえ遠ざけられたのです。 氷河王子個人に向けられる親愛の情は、瞬王子を氷河王子から遠ざける立派な理由になり得るものでした。 それはとても危険なもの。 それがとても危険なものだということは瞬王子にもわかっていましたが、一度 気付いてしまった その気持ちは、意思の力で消し去ることも、なかったものにすることもできません。 それが良いことなのか悪いことなのかは瞬王子にもわかりませんでしたが、ともかく、瞬王子は、氷河王子を、未来の世界の王としてではなく、一人の孤独な青年として見てしまう自分を止めることができなくなってしまったのです。 もちろん、広い世界を知らず、自由を奪われてしまっている氷河王子に、心から、そして 命をかけて仕えようという瞬王子の決意は変わることはありませんでしたけど。 氷河王子を知る前から固く胸中に誓っていた その思いは、日を追うにつれ、瞬王子の中で強く深いものになっていくばかりでした。 |