そんなある日のことでした。 いつもの通り、朝の挨拶をするために塔の5階にある氷河王子の部屋に赴いた瞬王子は、そこに氷河王子の姿がないことに気付いたのです。 いつもなら瞬王子が行くまで部屋を出ずに待ってくれている氷河王子が、部屋にいません。 それどころか、氷河王子のベッドには 昨夜彼がそこで からっぽの氷河王子の部屋を見て、瞬王子が最初に考えたことは、自由に焦がれるあまり、氷河王子は窓から塔の外に飛び降りてしまったのではないかということでした。 氷河王子の部屋は塔の5階にあります。 氷河王子は大層身軽で 優れた運動神経の持ち主でしたが、そんなことをしたら、いくら氷河王子でも軽い怪我だけでは済まないでしょう。 瞬王子は、すぐに氷河王子の部屋の窓に飛びつきました。 そして、恐る恐る窓の下の地面に視線を落としました。 幸い、瞬王子の目に恐ろしい光景が映ることはなく、そこには、いつもと同じ光景があるだけでした。 塔の下では、終夜の見張りの任務を終えた兵が昼の見張りの兵に 交代の引継ぎをしているだけ。 最悪のことは起こっていない――何はともあれ その事実に安堵して、瞬王子はすぐに踵をかえしました。 最悪のことが起きていなくても、氷河王子の無事な姿を見るまでは、瞬王子の心は完全に安んじることができそうになかったのです。 瞬王子は 最上階の展望室から地下の食料貯蔵室まで、塔のすべての部屋を見てまわりました。 自分の部屋も、体育室も音楽室も図書室も、氷河王子の衣装箪笥の中まで すべて覗いてみたのです。 深夜から早朝までの時間、この塔には瞬王子と氷河王子しかいないことになっていました。 瞬王子と氷河王子の二人はいるはずの塔。 けれど、今は この塔の中には瞬王子しかいませんでした。 氷河王子の姿は、彼に与えられた世界のすべてである塔のどこにもなかったのです。 誰も入れない塔の中から、人がひとり、まるで煙のように消えてしまうなんて、尋常では考えられないことです。 そんなことができるのは、人智を超えた神の力だけ。 もしかしたら、世界の王になる前に、氷河王子は神に奪われてしまったのではないかと、瞬王子はそんなことさえ考えたのです。 「どうしよう……どうして……? 氷河はどこにいってしまったの」 氷河王子に与えられた世界が この塔の中だけであるように、今では 瞬王子にとっての世界は 氷河王子のいる場所だけになっていました。 その“世界”が突然消えてしまったのです。 瞬王子は途方に暮れ、目に涙すら浮かべて、氷河王子の部屋に戻りました。 春の訪れと共に、いつのまにか消えてしまう白い冬。 そんな白い冬のように消えてしまった氷河王子が、いつのまにか地上を緑の大地に変えてしまう春のように、もう一度 自分の前に現われてくれることを期待して。 まさか氷河王子が春の精だったわけではないでしょうが、泣きながら瞬王子が戻った氷河王子の部屋には、瞬王子の世界が戻ってきていました。 氷河王子がそこにいたのです。 「ど……どうして……。いったいどこに……僕は塔の隅から隅まで捜したのに――」 「瞬……」 瞬王子の呟きと、その頬を濡らしている涙で、氷河王子はすぐに事情を察したようでした。 俗世の悪徳に触れてはならない王子の姿が この塔の中から消えていたことを瞬王子に気付かれ、瞬王子は消えてしまった王子を泣きながら捜しまわっていたのだということを。 「あー……」 氷河王子が困ったような顔をして、瞳を涙で潤ませたまま部屋の入口に呆然と立っている瞬王子を見詰めます。 何が起こったのかがわからず、言葉も失ってしまっているような瞬王子を見て、氷河王子は観念したようでした――何かを諦めたようでした。 氷河王子は、そんなふうな溜め息を一つついて――諦観と覚悟が入り混じったような溜め息を一つついて――瞬王子に その手を差しのべてきました。 「すまない。心配させてしまったか」 「氷河……どこに……。僕、氷河が世界の果てに消えてしまったのかと――」 「残念ながら、俺にはそんな器用な芸当はできない」 氷河王子は そう言って、瞳を涙で濡らしている瞬王子の手を取り、彼を椅子に腰掛けさせました。 為されるがまま、簡素な木の椅子の上に身を置いた瞬王子の頬の涙を手で拭い、そうして氷河王子は驚くべき告白を始めたのです。 「あのな。驚かずに――怒らずに聞いてくれ。実はこの塔には抜け穴があるんだ」 「ぬ……抜け穴?」 「そうだ。地下室の隅に――出入口はいつも樽でふさいでいるんだが」 「誰がそんな穴を――誰が何のために 抜け穴なんてものを作ったの……」 この塔には、北の国の王の許可を得た者以外、入ることは許されていません。 何者かが――たとえば、北の国の王子に世界の王になってほしくない他国の者が――氷河王子から 世界の王になる資格を奪うことを企んだのだとしても、だとしたら、その者は北の国の王宮の外から この塔の下まで長いトンネルを掘ったというのでしょうか。 そんなことは到底無理な話です。 北の国の王宮の敷地は小さな村のように広く、しかも その周囲は水をたたえた堀で囲まれているのですから。 実際、そんな無謀を企んだ他国の者はいなかったようです。 二度目の溜め息をついてから、氷河王子は、その抜け穴を作った者の正体を 瞬王子に教えてくれました。 「抜け穴を作ったのは俺だ。誰にも見付からぬようこっそりと――11の時に掘り始めて、完成するまで3年かかった。出口は城の庭の端の潅木の茂みの中にある」 「氷河……」 何ということでしょう。 氷河王子から世界の王になる資格を奪う可能性のある危険を冒したのが、他ならぬ氷河王子その人だったなんて。 氷河王子の告白を聞いて、瞬王子は息を呑みました。 というより、瞬王子は その告白に、息が止まるほど驚いてしまったのです。 氷河王子が 世界の王になることを――この世界を我がものにすることを――本当に望んでいなかったことに。 「それで、夜中に その抜け穴を通って 城の外に脱け出して、好き放題していたんだ。おまえが来てからは夜遊びは控えていたんだが、おまえがくれたあの花が枯れかけていたから、おまえに気付かれる前に新しい花と入れ替えようと思って、同じ花を探すために、夕べ この塔を出た。代わりの花を手に入れたら すぐに戻るつもりだったんだが、外に出たら、そのまま塔の中に戻るのが惜しくなって、つい――」 「あ……」 瞬王子には、氷河王子を責めることはできませんでした。 瞬王子は、自由の価値を知っていましたから。 自分が愛する人の側にいられる自由、自分を愛してくれる人の側にいられる自由。 瞬王子は、その価値を誰よりも――もしかしたら氷河王子よりも――よく知っていましたから。 けれど、瞬王子は、同様に、平和の価値も知っていました。 争いの絶えない世界で生きている者たちが、自分に害を為す“敵”を打ち倒す その瞬間にさえ、平和を望んでいることを、瞬王子は知っていたのです。 氷河王子も、それはわかっているようでした。 わかった上で、氷河王子はこの危険を犯したのだったようでした。 自分の為した冒険を反省するというより、自分に その冒険を強いた世界のあり方に憤りを覚えているような口振りで、氷河王子は瞬王子に訴えてきたのです。 「人間が――まして、俺のように五体満足で健康な男子が こんな狭いところに閉じ込められて、まともな人格が育つと思うか? 聞くところによると、俺はいずれこの国の王になるのだそうだ。まあ、もっと広い国の支配者になることを期待されているようだが、それはさておくとして。いずれにしても、王になる人間が、自分の治める国の民を知らずにいるなんて馬鹿げている。人の心を――人の良心も邪心も、民が何を考え、何を望んでいるのかも知らない人間が 良い治世者になれるはずがない」 「それは……」 それは その通りです。 氷河王子が 何不自由なく贅沢な王宮に暮らし、王宮の外の世界を見ようとしない王子より、民の心と姿とを知りたいと考える王子の方が優れた治世者になれるだろうことは、改めて考えるまでもない自明の理というものです。 「おまえの期待に応えられないことは心苦しい。だが、俺は世界の王になることなど望んでいない。本音を言えば、この国の王になることも辞退したいくらいなんだ」 「氷河、でも……」 けれど、氷河王子は、世のいかなる悪徳も知らない世界の王になることを望まれている、世界でただ一人の特別な王子。 この地上に生きる多くの人々が、氷河王子の力によって、互いに争い合っている国々が統一され、争いのない平和な世界が実現することを望んでいるのです。 この地上に生きる多くの人々が、すべての国々を治める世界の王が立たない限り、平和の実現は不可能と信じているのです。 その不可能を可能にできる王の出現を、世界中の人々が 「人の 「……」 氷河王子が知りたい人の心と、世界の王の出現を望む人々の心は、違うものなのでしょうか。 違うものであるはずがありません。 違うものであるはずがないと思うのに――瞬王子は氷河王子に反駁することができませんでした。 それは、瞬王子自身がたった今、自分の心を明瞭に把握できていなかったから。 たった今 瞬王子の中には、氷河王子を自由にしてあげたいと思う心と、氷河王子に世界の統一と平和を実現してほしいと願う心の二つが,同時に並存していたのです。 氷河王子の言う通り、人の心を知らない人間が人を治めることはできません。 少なくとも まして、自分が世界の王になることを氷河王子が輝かしい栄誉と思っておらず、むしろ負担と感じているのであれば、神ならぬ身の瞬王子には その負担を氷河王子に強いることは到底できるものではなかったのです。 「俺は、知りたかった。色々な人の心、生き方、考え方、実際の暮らし、醜さも美しさも強さも弱さも、自分の目で実際に見て、それがどういうものなのか、直接俺の身体と心で触れてみたかった。それはいけないことか」 「……」 氷河王子の訴えの意味を考えて――考えるほどに、瞬は首を横に振らないわけにはいきませんでした。 瞬王子は神ではありませんでしたから、氷河王子に、氷河王子の望まぬ生き方を命じることはできませんでした。 神なら命じることもできたでしょう。 けれど、神でも――氷河王子を その命令に従えることはできないのです。 氷河王子は、氷河王子の心と意思を持っているのですから。 「……いいえ。いけないことだとは思いません」 いけないことだとは思わない。 けれど、それは、世界の統一と平和という、瞬王子とすべての人々が願う願いが叶わないかもしれないということ。 氷河王子に『いけないことだとは思わない』と答える瞬王子の胸は、切ない痛みに苛まれていました。 瞬王子がそう答えるのは氷河王子のためだということが――瞬王子自身のためではないということが――氷河王子にはわかっているようでした。 瞬王子より切なげな目をして、氷河王子が瞬王子を見詰めます。 「おまえは綺麗で優しい。その心根も清らかだ。俺のように醜悪なものから遠ざけられて育てられたわけではないのに」 「そ……そんなことは……僕なんか――」 「それは、おまえが多くの人に接し、美しいもの、優しいもの、清らかなものに接してきたからだ。もちろん、おまえは、醜いもの、冷酷なもの、汚れたものにも多く出合っただろう。だが、おまえはそれを自分のものとはしなかった。醜いものより美しいもの、冷酷さよりも優しさ、汚れたものよりも清らかなものを選び、自分のものとした。俺は、人間の清らかさとはそういうものだと思う。そうあるべきだと思う。知らないことは清廉と同義ではない。それはただの無知だ」 「……」 瞬王子は平和を望んでいました。 心から望んでいました。 そして、その平和を実現する人に――その平和を実現する権利と義務を負った人の力になりたいと考えて、遠い北の国までやってきたのです。 氷河王子の為したことは、その権利と義務を放棄すること。 瞬王子の願いを打ち砕こうとする行為です。 けれど、瞬王子は、氷河王子の考えを否定することはできませんでした。 それはおそらく正しい――少なくとも、瞬王子の考えと、実はほとんど合致するものだったので。 「そういう意味では、俺は既に汚れているのかもしれない。俺は、叔父たちの目を盗み、叔父たちを騙して、塔を脱け出した。俺は虚偽の悪徳を備えている。そうして、人の醜さも貧しさも汚れも弱さも見てきた。賭け事をしたこともあるし、酒を飲んだことも、ものを食いすぎたことも、女を――いや、まあ、とにかく、清廉潔白とは言い難いものを多く見聞きし、自分でも経験してきた。おまえの期待に添えなくて悪いが 俺は多分、世界の王になる権利を既に失っていると思う」 「あ……」 それは瞬王子のみならず、この地上に生きている多くの人々の期待を裏切ることです。 瞬王子は、一瞬 ただ一つだけの大切な夢が絶たれたような絶望感に襲われました。 けれど――。 |