「世界の統一と平和は、俺の手では実現しない。すまん」 けれど、そう言って頭を下げる氷河王子を――自分の希望を打ち砕いた人を――瞬王子は、全く憎むことができなかったのです。 氷河王子には、氷河王子の人生をどんなものにするのかを自分で決定する権利があります。 誰にでも、その権利はあります。 氷河王子は、その権利を行使しただけ。 だというのに、瞬王子に謝罪してくる氷河王子の瞳には罪悪感のようなものがたたえられていました。 氷河王子は、彼に与えられた当然の権利を行使し、勝手に氷河王子に大きな期待を寄せていた者たちの思惑通りに動かなかっただけなのに、彼が瞬王子を見詰める眼差しは ひどくつらそうなものでした。 ですが、そのつらさは、氷河王子が感じる必要のないつらさです。 そして、瞬王子 「氷河は軽率でそんなことをしたのではないと信じていいですか」 瞬王子が 氷河王子にそう尋ねた時、瞬王子は既に氷河王子を信じていました。 氷河王子は、勝手に彼に期待して 彼から自由を奪った者たちへの反抗心や復讐心といった愚かな思いに衝き動かされて そんなことをしたのではない――と。 氷河王子からも その信頼を肯定する答えが返ってくるものと、瞬王子は思っていました。 けれど、氷河王子の返答は、 「それは、俺自身にも判断できないんだ」 という、とてもあやふやなものでした。 「え?」 微かに首を傾けた瞬王子に、氷河王子が、少しつらそうな、微笑んでいない笑みを向けてきます。 その笑みのように力のない声で、氷河王子は瞬王子に語り始めました。 「俺は――俺が11になった時、母が死んだ。俺と俺の母は縁の薄い母子で――我が子を愛する母親の愛も、万人を平等に統べるべき世界の王にはよい影響を及ぼすものとは限らないと、俺は母から遠ざけられて育った。知っているか」 「はい……」 もちろん、瞬王子は、氷河王子とその母君に課せられた悲しい運命を知っていました。 悲しい母親と悲しい子供。 瞬王子は、唇を噛みしめて、俯くように氷河王子に頷きました。 母親から引き離された子供より苦しんでいるような瞬王子の様子を、氷河王子が切なげに見詰めます。 「母は時折 この塔の下に来て、この部屋の窓を見上げていた。言葉を交わすことも触れ合うこともできず――俺たちは、見詰め合うばかりの母子だった。だが、だからこそ、俺は母を愛していたし、母の愛も信じている」 「氷河……」 「俺が11になって 間もない頃、その母が死んだ。だが、死は厭世や憂鬱の悪徳を生みかねないものだからという理由で、俺は母に最期の別れさえさせてもらえなかった。もっとも、俺が母の死を知らされたのは 既に葬儀も埋葬も済んだあとだったがな。俺は、母の死を知らされた その日、衝動的に抜け穴を掘り始めたんだ。そんなことをしても、もう母に会えないことはわかっていた。だが、そうせずにはいられなかった。俺は、母を悲しませるだけの息子だった。俺は母を幸福にしてやることができなかった。この塔の中にいる限り、俺は自分を無価値な人間でしかないと――いや、人間ですらないと思った。だから――俺は俺が人間であるために、この塔を出なければならないと思ったんだ」 そんなふうに衝動的に実行に移した脱出計画だったから、氷河王子はそれを『軽率で始めたことではない』と確言することはできないと言うのでしょう。 けれど、瞬王子には、氷河王子が為したことを軽率と思うことはできませんでした。 氷河王子は、本当はずっと長い間 自由に焦がれていたのでしょう。 自由を手に入れるための具体的な計画も立てていた。 その計画を実行に移さずにいたのは おろらく、事が露見した時に 母君にまで責めや罰が及ぶことを恐れていたからだったに違いありません。 でなければ、“衝動的に”抜け穴を掘り始めるなどということは不可能なことですから。 触れ合うことはおろか、言葉を交わすこともできない母子。 その母と子が、どれほど互いを愛し思い遣っていたことか――。 二人の心に思いを馳せただけで、瞬王子の瞳からはぽろぽろと涙が零れ落ちてきてしまったのです。 互いに互いを思い遣る母と子の心が美しすぎ悲しすぎて。 氷河王子は、突然あふれ出した瞬王子の涙に驚き、戸惑ってしまったのでしょう。 彼は、瞬王子のために慌てて明るい笑顔を作ってくれました。 「泣くな。おまえに会うまで、俺は自分を誰の役にも立たない無価値な人間だと思っていた。だが、おまえに会って、おまえがそんな目に合わなくてよかったと思えた。俺の勝手な思い込みだが、俺がいることが もしかしたら少しはおまえの役に立ったのではないかと思ったんだ。おまえは、尾が太陽に向かって流れる彗星が天に現われた日の翌日に生まれたと言っていたろう? 野心を抱く王家なら、そして俺がいなかったら、南の国の王家は、『王子は彗星が天にあるうちに生まれた』と嘘を言って、おまえを世界の王に仕立て上げようとしていたかもしれないぞ。実際、過去にはそういうことをしようとした王家が幾つもあったらしいしな」 「それは僕も……聞いたことがあります……」 「俺は、おまえに会って、本当に人が清らかであるということが どういうことなのかがわかった。人の弱さや醜さを知っても、それに染まらぬこと。むしろ、汚れを包み込んで清らかなものに変えようとすることだと。俺は、外の世界を見て知った。人は一度 汚れても、再び清らかになることは可能だし、欲を持つことが悪い結果を生むとは限らないことを。人が清廉でいるということは、無知でいることではない。汚れを知らぬことではない」 自分の為した行為を『軽率なものではなかった』と断言しない氷河王子は、けれど、その行為によって得た“答え”には自信を抱いているようでした。 確信をもって そう言い切る氷河王子を、瞬王子は とても好きだと思ったのです。 手の甲で涙を拭って、瞬王子は氷河王子に頷きました。 「わかります。人の愛を知らない人の清らかさなんて、ただの冷酷と同じだと思う。氷河はそんな冷たい石みたいな王様にはならない。僕は、僕の仕える人が氷河だということが とても嬉しいし、心から誇りに思います」 「瞬……。言ったろう。俺は世界の王にはならないんだ。おまえが俺に仕える必要はもう――」 「氷河にはそうなる価値と資格があります」 「神は俺たちの考えを認めないだろう。俺は おまえの期待と民の期待を裏切った男だ」 「氷河、でも、僕は氷河の側にいたいの。氷河だけが、僕の仕えるただ一人の王です……!」 「瞬……」 もともと瞬王子は、北の国に来て氷河王子を知るほどに、未来の世界の王ではなく 氷河王子個人に仕えたいと願う気持ちを強くしていました。 ですから、そう告げることに、瞬王子はさほどの迷いは感じなかったのです。 瞬王子はむしろ、自分が 未来の世界の王ではなく現在の氷河王子に仕える決意ができたことに安堵にも似た思いを味わっていました。 そう決意することで、とても すっきりした気分になれたのです。 そして、瞬王子の迷いのなさは、氷河王子の心をも安んじさせることになったようでした。 「よかった。俺が世界の王にならないことを知ったら、おまえは俺の側にいてくれなくなるだろうと思って、それが恐くて、俺はおまえがここに来てからずっと夜歩きを自重していたんだ。俺はおまえと離れてしまいたくなかったから」 触れ合うことも言葉を交わすこともできなかった大切な母君を失い、氷河王子は この塔の中でいつも寂しい思いを感じていたのでしょう。 その心を慰め癒すことができるのなら、瞬王子は、氷河王子のためにどんなことでもしたいと思いました。 「氷河が僕に遠くに行けと言わない限り、僕は ずっと氷河の側を離れません」 「ほ……本当か…… !? 」 瞬王子の決意を聞いた時の氷河王子の明るく嬉しそうな顔をいったら! この人のためにならどんなことでもできると、瞬王子は、本当に心の底から思ったのです。 |