そんなある日の午後のことでした。
二人が、歴史の教科書そっちのけで、昨夜出会った 悪気はないのに想像力に欠けているせいで周囲の人々に疎んじられている人物について語っていた時、氷河王子がふいにその話をやめ、
「やはり抜け穴を作ったのは正解だったな。外の世界とそこに生きる人間を知っているから、俺には、おまえが綺麗で優しくて清らかな人間だということがわかるんだ。俺が無知な王子のままでいたら、俺は そんなことにも気付かずにいたかもしれない。そう思うとぞっとする」
と言い出したのは。

「え?」
部屋に飾られている花は、浅春の雛菊から、少し咲き急いだ鈴蘭の花に変わっていました。
「瞬、俺はおまえが好きだ」
それは、瞬王子には唐突に感じられる告白だったのですが、氷河王子にはそうではなかったようでした。
それが氷河王子のやり方なのだということを、今では瞬王子も よく承知していました。
心の底で静かに ずっと育み温め続けてきたものを、氷河王子はある日突然言葉にし、そして行動に移すのだということを。
ですから、瞬王子は、氷河王子のその言葉を軽率なものだと思うことはしませんでした。
軽率なものとは思わなかったのですが。

「あ……」
「おまえは」
「あの……もちろん好き――です。僕は氷河を尊敬していて、いつまでも氷河にお仕えしたいと――」
「……俺がそういう意味で言っているんじゃないことはわかっているんだろう。俺を好きでないのなら、そう言えばいい。おまえは、俺が失恋くらいのことで 世を儚むとでも思っているのか」
おそらくは瞬王子のために わざと軽い調子でそう言ってから、氷河王子はきつく唇を噛みしめました。
「世を儚みはしないが――これはかなりきついな……」
苦しげに低い声で呻く氷河王子を見て、瞬王子は泣きたくなってしまったのです。
氷河王子に、『いつまでも あなたにお仕えしたい』としか答えられない自分が あまりに悲しくて。

そうではないのです。
瞬王子は、氷河王子が好きでした。
あらゆる意味で大好きでした。
けれど、瞬王子には、その思いを氷河王子に知らせることはできなかったのです。
「そうじゃない……そうじゃないの。ごめんなさい、僕には氷河に好きになってもらう資格なんてないの」
氷河王子の視線を受けとめていることに耐えられなくなって、瞬王子は掛けていた椅子から立ち上がり、そのまま氷河王子の前から逃げ出そうとしました。

「瞬、待て!」
ですが、氷河王子の前から逃げ出そうとする瞬王子より、瞬王子をこの場に留めておきたい氷河王子の心と手の方が 一瞬早かった。
氷河王子は彼に背を向けかけていた瞬王子の手を掴まえて、瞬王子に逃げることを許しませんでした、
もう一方の手で瞬王子の腕を掴み、氷河王子は瞬王子を自分の方に向き直らせました。
「なぜだ。俺を嫌いだというのなら納得もするが、好きになってもらう資格がないなどという馬鹿げた理由をつけて逃げるのは――」

それは残酷で卑怯な行為だ――と瞬を責めることは、氷河王子にはできませんでした。
なにしろ、氷河王子が無理に捕まえ振り向かせた瞬王子の瞳は涙でいっぱいだったのです。
「瞬、何を泣いて――」
「ご……ごめんなさいっ!」
残酷で卑怯どころか――氷河王子の前から逃げることは、今の瞬王子が氷河王に示すことのできる精一杯の誠意でした。
氷河王子が好きで、氷河王子に嫌われたくなくて、彼の側を離れたくなくて――そのために瞬王子にできる精一杯のことだったのです。

瞬王子は、けれどもう 氷河王子から逃げることはできそうにありませんでした。
氷河王子は、瞬王子の涙の訳を聞くまでは瞬王子を離さないつもりでいるようでした。
すべてを氷河王子に告白しなければならない――そう悟った途端、瞬王子の膝からは力が抜けていってしまいました。
立っていることもできなくなり崩れ落ちかけた瞬王子の身体を、氷河王子が抱きとめます。
ぐったりしている瞬王子を元の椅子に座らせると、氷河王子は、俯き項垂れ涙を流している瞬王子の顔を覗き込むために、瞬王子の前に膝をつきました。

「泣かないでくれ。おまえに泣かれたら、俺はどうしたらいいのか わからなくなる。せめて、その涙の訳を話してくれ。そうしたら俺はおまえを慰めることもできるだろう」
世界のすべてを統べる王になるかもしれない人に跪かれ、なだめるように優しく諭されて、瞬王子の瞳からは、また新しい涙が零れ落ちることになったのです。






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