「い……いったい何が起きたのだっ !? 」 この非常時に硬いことは言っていられないと 幾人かの供の者を従えて、カミュ国王が氷河王子を閉じ込めていた塔の氷河王子の部屋に飛び込んだ時、室内にいた氷河王子と瞬王子の頭の上に広がっていたのは、春真只中の青い空でした。 つまり、氷河王子を世界の王にするために建てられた塔の上半分が、見事なまでにすっぱりと どこかに消えてしまっていたのです。 そして、北の国の王の許可を得ていない人物が入ることが許されない氷河王子の部屋の一画には、カミュ国王が氷河王子との対面の許しを与えた覚えのない一人の人物が立っていました。 けれど、カミュ国王は、その不審人物に文句を言うことはできませんでした。 彼が人間でないことが察せらせたからです。 瞬を庇うように立っている氷河王子を睥睨している その黒衣の不審人物は、足が床に着いていませんでした。 僅かにではありましたが、彼は宙に浮いていたのです。 「氷河。こちらの方は――」 「神だそうだ。俺には到底 信じ難いがな」 言葉を吐き捨てるような氷河王子の物言いは到底 礼儀に適ったものではありませんでしたが、未来の世界の王に対峙している黒衣の人物も あまり礼儀をわきまえた神(?)ではないようでした。 その人物は、仮にも一国の王がやってきたというのに、カミュ国王に対して『こんにちは』の一言も口にしなかったのです。 彼は、カミュ国王には一瞥もくれず、ひたすら 彼と瞬王子の間に立つ氷河王子を憎々しげに睨みつけていました。 「醜悪な人間共の貪欲に呆れつつ、美しく清らかな王子の出現を、余は待っていた。そして、900年期のあとの1世紀が過ぎるたび、失望することを繰り返してきたのだ。これ以上 余の出番をあとまわしにされてたまるか。瞬を余に渡せ。そなたごとき俗物に瞬を汚すことは許さぬ」 「何を言っているんだ、この野暮天! いちばん大事なところを邪魔しやがって!」 謎の人物は相当機嫌が悪いようでしたが、氷河王子の不機嫌は彼以上でした。 もう少しで 瞬王子と熱烈なキスを交わせるはずだったのに、本当に あと1秒で瞬王子にキスをすることができていたところだったのに、その感動の瞬間を、ムードもへったくれもない騒音と第三者の闖入で邪魔されてしまったのです。 氷河王子が怒り心頭に発することになったのは当然のことだったでしょう。 そんな氷河王子を見て、黒衣の人物(神?)が嘆かわしげに頭を左右に振ります。 「なんと下品な……。これが余の依り代候補の一人だったとは……」 「下品で悪かったな! 貴様、どうして俺の邪魔をする!」 「瞬。余のものになれ。そして、この世界の王となるのだ」 「瞬が世界の王? それは氷河の間違いでは?」 神というものは元々 氷河はカミュ国王に状況説明もせずに 自分の怒りだけを口にし、カミュ国王もまた、まず最初に自分の混乱を解消するための説明を黒衣の神に求めました。 「何を寝とぼけたことを言っている。こんな俗っぽい王子に用はない。余が欲しているのは、余の魂と力を その身に受け入れることのできる 真に清らかで美しい王子だけだ。さあ、瞬、余の許に来るのだ」 黒衣の神が、懇切丁寧とは言えないにしても、カミュ国王にある程度の事情説明をすることになったのは、彼が親切な神だからではなく、カミュ国王の疑念が 彼のプライドに関わるものであったからに違いありません。 傲慢な神と、怒り心頭に発していた人間と、混乱しまくっている人間。 彼等はそれぞれに彼等の欲することだけを訴え語る者たちでしたが、『自らの要求だけを突きつける』という点で、恋する者に勝てる人間(と神)はいないでしょう。 つまり、その場で最も強く 自身の欲するものを訴えたのは、黒衣の神でも氷河王子でもカミュ国王でもなく、瞬王子その人だったのです。 「僕は世界の王になんかなりたくない。僕は、氷河を支えて、氷河を守って、いつも氷河と一緒にいたい。それが僕のたった一つの望みです……!」 神と名乗る者に対して、瞬王子はきっぱりと言い切りました。 瞬王子の その断固毅然とした言葉と態度に、神と名乗る者は、あろうことか(神のくせに)少々たじろぐ様子を見せました。 「せ……世界の王になれるのだぞ !? 余を受け入れれば、そなたは世界のすべてを支配できるのだ!」 神と名乗った黒衣の人物の その言葉を聞いて、瞬王子が彼に不審の目を向けます。 そして、瞬王子は、神ならぬ人の身でありながら、神を問い質すという大胆不敵なことをしてのけたのでした。 「あなたは本当に神なの? すべてを支配できる……って、それこそ我欲――それは支配欲というものではないの? 神は、そんな欲など持たない清廉潔白な王子こそが この世界の王になると予言したと聞いています」 「そなたが この男と共にいたいというのも欲だ。もっともそれはすぐに捨てられる欲だがな。捨ててしまえ」 「僕が氷河と一緒にいたいと願うことが神の意に染まぬ欲だというのなら――だとしたら、僕はあなたの望むような清らかな王子ではないのだから、放っておいてください。僕に構わないで。僕が氷河と一緒にいたいと望んで、何がいけないの。自分の欲を持っていないということは自分を持っていないということと同じでしょう。あなたの言う“清らか”な王子は、あなたに支配されるのに都合がいいように、自分を持っていない王子ということなの? あなたは本当に神なの? そんな勝手な考え方をするのが神というものなの?」 「なんだと !? 」 恋する者は恐れを知りません。 問答無用で神に平伏してしかるべき人間の 思いがけない反抗に、黒衣の神がぴくりと こめかみを引きつらせます。 そして、おそらく彼は、彼の神としての力を人間たちに見せつけようとしたのでしょう。 彼はゆっくりと その右腕をあげ、瞬王子のいる方にその手を向けることをしました。 恋に 命と自分のすべてをかける覚悟ができている瞬王子は、それでも臆する様子を見せません。 黒衣の神の所作に慌て恐れたのは、むしろ氷河王子の方でした。 咄嗟に氷河王子は瞬王子の盾になるために瞬王子の身体を抱きしめたのですが、けれどそれは徒労に終わりました。 氷河王子が動いたのとほぼ同じタイミングで、屋根のない塔の部屋に響いてきた、 「ほほほほほ。その疑念は尤もなものだけど、彼はこれでも本当に神の一人なのよ」 という声が、黒衣の神が瞬王子に対して神の力を発する機会を、黒衣の神から奪ってしまったのです。 北の国の王の許可を得なければ立ち入りの許されない場所に、今日は千客万来です。 「諦めなさい。人間の世界はもう神には支配できないわ」 その女性――おそらく女神でしょう――は、黒衣の神に忠告――おそらく忠告でしょう――を垂れました。 そうして彼女は、黒衣の神の返事を待たずに、瞬王子と瞬王子の肩を抱きしめている氷河王子の方に向き直り、二人に にっこりと優しい笑みを投げてきました。 「ごめんなさいね。人間たちが神のいないところで勝手に力を増していくものだから、ハーデスはすっかり拗ねてしまったの。それで、彼は、神の意思を戴く王が現われない限り、人の世は救われないと思わせる予言を 人間に与えることで、人心を支配しようとしたのよ。でももう――」 「あなたも神なのですか?」 黒衣の神に比べれば比較的 低姿勢な女神に、恋する瞬王子の口調も少し穏やかなものに変わります。 女神はゆっくりと頷きました。 「ええ。私も神の一人よ。でも、あなた方人間は 神の予言に囚われるのはそろそろやめた方がいいわね。あなたたちは神の力や予言などに囚われず、あなたたちが望む よりよい世界の実現のための努力をした方がいいわ。私たち神は、これからは、あなた方を信じて見守ることだけをしましょう」 「しかし、アテナ。そんなことを人間共に許したら、この世は罪と汚辱で満ち溢れてしまうだろう!」 すっかり主賓の座(?)を女神に奪われてしまった 女神は、そんな黒衣の神に、 「その時にこそ、私たちは、私たちの持つ力で この地上を滅ぼしてしまえばいいのよ」 と あっさり言って、彼を黙らせてしまいました。 さすがは神、この女性こそ神――と、氷河王子と瞬王子は彼女の威厳に感じ入りつつ、彼女の言葉に戦慄することになったのです。 全身に緊張をみなぎらせた二人の王子に、女神は余裕に満ちた笑みを向けてきました。 「でも、その時はこない。そう信じていていいわね?」 「はい! もちろんです」 「そんなことにならないよう努めることを約束する」 二人の王子の素直で前向きな返事を聞いて、彼女は満足したように頷きました。 そして、彼女は、屋根のない部屋の扉の前に呆然と突っ立っているカミュ国王に、威厳に満ちた声で命じたのです。 「人は汚れに出合わなければ清らかでいられるというものではありません。あなたの気の毒な王子を自由にしてあげなさい。自分の進むべき正しい道を自分の意思で選ぶことができるように導いてやるのが、先達の義務。その義務を放棄してはなりません」 「は、申し訳ありません」 どうやら、神にも、尊敬できる神と尊敬できない神がいるようです。 カミュ国王が女神の言葉を神妙な態度で受け入れたのは、彼女が前者――尊敬できる神――であるからだったでしょう。 カミュ国王の答えを確認すると、美しく威厳に満ちた女神は、 「楽しみにしているわ。あなたたちの作る未来」 と言って、もう一度 氷河王子と瞬王子に笑いかけ、そして、何やら不思議な力で黒衣の神の自由を奪った――ようでした。 「さあ、ハーデス。私たちの居場所に帰りましょう。瞬がどれだけあなたのタイプだったのかは知りませんけど、こういうことは引き際が肝心よ。残念ながら、あの子には 世界の王になることより大切なものがあるのよ」 「しかし、やっと見付けた理想の王子なのだ! これほどの者に再び巡り会えるのは、1万年後か2万年後か……」 「なら、1万年、昼寝をしていなさい」 身内のみっともない振舞いを、それ以上 人間たちの目にさらすことを恐れたのか、黒衣の神を引っ張りあげた女神は、瞬王子が、 「あなたのご期待に沿えるよう頑張ります」 と言い終える前に、人間たちの前から その姿を消し去っていました。 「余は決して諦めぬからなーっ!」 という、黒衣の神の雄叫びが聞こえたような気もしたのですが、それはおそらく空耳だったのでしょう。 台風一過とはこういうことを言うのかもしれません。 賑やかな二柱の神の姿が消えた人間たちの世界には、そうして 再び 春の青い空と ヒバリの鳴き声以外の音のない静寂が戻ってきたのでした。 その日のうちに、カミュ国王は女神の忠告に従い、氷河王子に“自由”を許してくれました。 瞬王子の生い立ちを聞き、その境遇に深く同情し、氷河王子の側で平和な世界の実現に尽力したいという瞬王子の願いも、カミュ国王は快く聞き入れてくれたのです。 |