「瞬……」
瞬の作る沈黙は、取るに足りない敵に その指を切り落とされた時よりも――自分の身体の一部を失った時よりも――大きな負担を氷河の心臓にもたらした。
瞬の作る沈黙の長さ――それは、単に驚愕のみによって作られたレベルの長さではなかった。
氷河は、それを、仲間の言葉を聞かなかったことにするための方策を 瞬が懸命に考えているからできる沈黙なのだと思うしかなかったのである。
それ以外に解しようがなかった。
瞬は、頬からも指先からも血の気を失せさせている。
瞬は、仲間に告げられた言葉を喜んではいない。
むしろ、苦痛に感じている。
――そう解するしか。
そして、そうなのであれば、今の氷河にできることは、瞬をその苦痛から解放してやることだけだった。

「恋の告白としては、かなり気の利いたやり方だと思ったんだが……。迷惑ならいいんだ。書かなくても」
デスクの脇に立っていた氷河が、無理に笑って 瞬の手からペンを取り除こうとする。
氷河の手が瞬の手に触れる前に、瞬は手にしていたペンをデスクの上に取り落としていた。
そうして、ペンがデスクに落ちた音に弾かれたように 掛けていた椅子から立ち上がり、ほとんど よろめくようにして1歩2歩あとずさる。

瞬をそれほど怯えさせ恐がらせるようなことを自分はしてしまったのかと、氷河が、己れの言動を顧み、瞬の心をおもんぱかる作業に取り掛かり始めた時だった。
「ごめんなさい……!」
小さな悲鳴のような声で瞬が そう叫び、その瞳からぽろぽろと大粒の涙を零しだしたのは。
「瞬……?」

瞬はもしかしたら 仲間の告白に怯えているのではなく、その心に応えられない自分を悲しく思っているのかもしれない──そう、氷河は思ったのである。
もし そうなのであれば、それは実に瞬らしい考え方・感じ方だとも、氷河は思った。
実に瞬らしい反応だと思いはしたのだが、同時に、それは氷河の望む反応ではなかったのである。
悲しむ瞬も怯える瞬も、氷河の望む瞬ではなかった。
だから、氷河は、この事態は涙を流して悲しまなければならないほど深刻な事態ではないと瞬に思わせるため、できる限り軽い口調と軽い表情で、
「こういう場合、泣くのはおまえではなく、振られた俺の方だと思うが」
と、瞬に告げたのである。
瞬が、そんな氷河に幾度も首を横に振ってくる。

「そうじゃない……そうじゃないの。僕は氷河にそんなふうに言ってもらえる人間じゃないの。氷河にそんなふうに言ってもらう資格は僕にはないの……」
「資格? 資格もなにも、俺は勝手におまえを――」
「ごめんなさい。氷河の指がそんなことになったのは僕のせいなの……!」
「何を言い出したんだ。俺の指を切り落としてくれたのは、おまえとは似ても似つかない不細工な――」

瞬に涙を流させることになった原因を、氷河はもちろん、自分の唐突にすぎた恋の告白だと思っていた。
瞬が その瞳に涙を生むことになったタイミングからして、他に考えようがなかったから。
だが、瞬に涙を流させることになった原因は、『俺の大好きな瞬』という言葉ではなかったらしい――少なくとも、それだけのせいではなかったらしい。
が、あいにく氷河には、それ以外の“何か”が何なのかが、皆目わからなかったのである。
そして、白鳥座の聖闘士の指の切断と再接合が自分のせいで起きたことだという瞬の主張は、氷河には理解し難いものだった。
瞬が、まるで氷河に責めてもらえないことに焦れ苦しんでいるような声で、自身の主張の根拠を氷河に知らせてくる。

「ごめんなさい……。シベリアで――氷河が指を切られた時、氷河が取りに戻ったロザリオは、氷河のマーマのロザリオじゃなかったの……!」
「……」
氷河は、瞬のその言葉に瞳を見開くことになった。
瞬が仲間のその様子を見て、つらそうに顔を歪める。
つい先ほどまで 沈黙で氷河を苦しめていた瞬は、自分の沈黙が仲間を苦しめていることを自覚してはいなかったらしい。
自覚していたなら、そして、いつもの瞬なら、自分だけは沈黙で苦しむまいとするかのように、氷河の前に自分から言葉を並べ立てるようなことはしなかったはずだった。
瞬が、弱々しい声で、だが、沈黙ではない声で、自分の犯した罪の懺悔を始める。

「殺生谷で死んだと思ってた兄さんが生きて戻ってきてくれた時、兄さんは、氷河が兄さんの墓標に掛けてくれたロザリオを持ち帰った。そして、そのロザリオを 僕から氷河に返してくれって、僕に言ったの。兄さんが直接返すと、恩を着せられそうで嫌だからって。も……もちろん、それは兄さんの本心じゃないよ。兄さんはむしろ、兄さんに恩を着せたみたいになったことで、氷河が気まずい思いをすることになるかもしれないって考えて、それでそんなこと言ったんだと思う」
「まあ……それは確かに。俺も、死んだ一輝相手ならともかく、生きている一輝に恩を売ろうとは思わないな。思いきり嫌がられそうだ」

瞬が普通の人間が気付かぬことに気付き、細やかな気配りができる人間だということは、氷河は幼い頃から知っていた。
それに比べて瞬の兄はガサツで大雑把――と彼は思っていたのだが、案外 この兄弟は、気配りの方向性が180度違うだけで、人に気配りができるという点では似た二人なのかもしれないと、氷河は思ったのである。
『ロザリオをありがとう』などと言って瞬の兄に熱い謝意を示されていたら、氷河は吐き気すら覚えて、自らの振舞いを後悔していたに違いなかった。
その眼差しに感謝の思いをこめた瞬に、『兄さんのためにありがとう』という言葉と共にロザリオを手渡されたからこそ、氷河は自分の行動を後悔せずに済み、それどころか『してよかった』と自分の行動を肯定的に受けとめることができたのである。

氷河が兄の気遣いが気遣いであることを理解している様子を認めることのできた瞬は、ほっと安堵したような表情を浮かべた。
が、すぐに その口許を引き締める。
「兄さんらしい気の遣い方だと思って、僕はその役目を引き受けたの。でも、氷河のロザリオは――きっと兄さんの拳を受けたせいで傷だらけで――お母さんの形見の品がこんなふうに傷だらけになったのを見たら、氷河が悲しむだろうって思って、僕、そっくり同じな偽物を作ったんだ。沙織さんにオーダーメイドでアクセサリーやオーナメントを作ってくれるお店を紹介してもらって。そして、傷のない新しいロザリオを氷河に返した。だから、あれは、氷河のマーマのロザリオじゃなかった。氷河が自分の命や身体を危険にさらしてまで取りに戻らなければならないようなものじゃなかった。なのに……」
「……」
「ごめんなさい! 氷河がこんなことになったのは、みんな僕の浅はかのせいなの……!」

瞬の告白で、氷河はやっとすべてがわかったのである。
たった今 瞬の瞳を覆っている涙の訳だけではなく、昨日までの瞬の行きすぎた仲間への献身の訳、瞬がドジな仲間の“世話”をしたがっていた訳、その世話をもう不要と言われて 少しも嬉しそうではなかった訳が。
瞬を、氷河の“世話”に駆り立てていたものは、傷付いた仲間への好意ではなく、罪悪感だったのだ。
それだけの価値を有していないもののために仲間の身を危険にさらしてしまったことへの罪悪感。
そして、自分の罪を償いきれていないと思っていたから、瞬は、氷河に『もう一人で大丈夫』と言われたことを――仲間の完治を――素直に喜ぶことができなかった ということなのだろう。

瞬の涙ながらの告白を聞いて、氷河は――氷河こそが、罪悪感に囚われることになったのである。
瞬は、そんな罪悪感を感じる必要はなかった――なかったことを、氷河は知っていたから。
その事実を瞬に知らせるべきか否かを、一瞬間だけ氷河は迷ったのである。
事実を知らせずにいた方が――瞬の中の罪悪感を消し去ってしまわない方が――自分の恋の益になるかもしれない。そう考えて。
瞬の涙の前でそんな卑劣は許されないと、氷河はすぐに思い直したが。
そして、氷河は、殊更ゆっくりした口調で、瞬が知らずにいた事実を、瞬に知らせたのだった。






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