グラード財団本部ビルに勤務している独身男性社員のほとんどが、一度は瞬の護身術講座を受講し終え、瞬の仕事が一段落した頃だった。 いつもなら この時刻、財団本部ビルで忙しく立ち働いているはずの沙織が、彼女の聖闘士たちの前に颯爽と その姿を現わしたのは。 いったい今度は何が起こったのか、あるいはどんな騒動を起こそうとしているのかと身構えた青銅聖闘士たちの顔を見ると、沙織は開口一番、 「春ね!」 と、異様に明るい声で、今更教えてもらわなくても皆が知っている事実を口にした。 そうしてから、改めて きょろきょろと室内を見まわす。 「あら。瞬がいないようだけど」 「瞬は、雪柳の花が満開だからって、さっき庭に出てったよ。また瞬に何か用なのか?」 沙織が彼女の聖闘士たちの許に運んでくるのは災いばかりと確信している口調で、星矢が彼の女神に尋ねる。 「瞬に用というわけではないのだけど、誰より瞬に報告したいことだから」 「報告?」 沙織の“用”が、聖闘士に何かを“命じる”ことではなく、何かを“報告”することだというのなら、話を聞いてやってもいい――そういう態度で、災厄の女神に反問した星矢に、沙織は満面の笑みを返してきた。 「ええ。先週の土曜日、財団主催のコンベンションを開催したの。その成果の報告」 「コンベンション? それって、財団主催の、いわゆる合コンてやつ?」 「合コンのコンはカンパニーに由来しているんじゃなかったかしら。まあ、でもそう。今回は、その両者は ほぼ同じものといっていいわね。それでね、私の内偵によると、そのコンベンションで十数組のカップルが誕生したようなのよ。もう、私、嬉しくて嬉しくて! ほんと、苦労の甲斐があったというものだわ!」 沙織が 彼女の“報告”を心底嬉しそうに、瞳を輝かせて語るのを、星矢たちは少々複雑な気持ちで聞き、また見詰めることになったのである。 他人の恋をこれほど素直に喜べる第三者というものは、考えようによっては極めて善良な篤厚の人と言えるのかもしれない――と、青銅聖闘士たちは思わないでもなかった。 だが、今回の件で沙織がどんな苦労をしたというのか、苦労したのは瞬だけなのではないか――という思いが、沙織の喜びを、彼女の聖闘士たちに素直に受け入れ難いものにしているのは紛う方なき事実だったのである。 「それって、瞬の婚活講座の成果なのかよ?」 「でしょうね。あの講座を受講した男性陣は、瞬に比べたら どんな女性でも隙だらけなんだということがわかるようになったでしょうし」 瞬の隙の有無に関する沙織の見解は、氷河のそれより世間一般のそれに近いものであるらしい。 ここ半月ほど 考えても考えても正答と思える答えに行き着けずにいた氷河は、沙織の報告の腰を折ることを承知で、つい彼女に尋ねてしまったのである。 「瞬の講義を受けた男共の心や目が、なぜ瞬ではない女に向くことになるんだ? その女たちが瞬より可愛いとか、瞬より綺麗だとか、瞬より優しくて気配りができるとか、そんなことがあり得るのか? その女共を見なくても、俺には瞬の方がずっと可愛くて綺麗で優しいってことがわかるぞ。しかも、瞬は何というか――隙だらけで、対峙する人間に緊張感を抱かせないタイプの大人しい子だ。見た目も事実もそうだ。普通なら、独身男共の心は、瞬をものにしようという方に動くものじゃないか? それとも、俺が特殊なのか? 俺にだけ、瞬が魅力的に見えているのか? おかしいのは俺の目の方か?」 「そんなことはないでしょ」 いったい氷河は急に何を言い出したのかと疑うような顔になった沙織が、だが、氷河の質問への答えだけは迷いなく あっさり返してくる。 おかげで、氷河の混乱は ますます大きなものになった。 「なら、なぜ、グラードの独身男共は、瞬にちょっかいを出そうとしないんだ!」 氷河には、それがわからなかったのである。 瞬は誰よりも可愛いし、誰よりも優しい。 誰よりも大人しく見えるし、誰よりも隙がある。 なのになぜ、瞬に出会った男たちは、瞬より数段劣るに違いない女の方に その目を向けるのか。 それが、氷河にはどうしても理解し難い謎だったのである。 沙織には、だが、そんな氷河の疑念や態度こそが理解し難い謎だったらしい。 氷河の興奮の原因を 彼の仲間たちは知っているのかと尋ねるように、彼女はその視線を氷河ではなく 氷河の仲間たちの方に投じることになった。 星矢が肩をすくめて首を横に振る様を見て、溜め息を一つ洩らす。 そうしてから彼女は、ゆったりした口調で、氷河には謎であるらしい事実の解説に取りかかった。 「我が財団の幹部候補たちはね、そこいらへんを歩いている洞察力皆無の軽薄な輩とは わけが違うのよ。幹部候補でなくても、我が財団は優秀な人物しか採用していない。ある程度の洞察力と判断力がある人間になら、瞬に つけいる隙がないことは一目でわかるわよ」 「瞬なんて隙だらけじゃないか」 「そんなことはないわ」 沙織は実に気軽に『そんなことはない』と言うが、現に瞬は隙だらけの人間である。 しかも、一見したところでは、人に反抗する術も知らないような印象の勝った大人しい美少女。 その大人しそうな美少女が、見るからに『声をかけてくれ』『手を出してくれ』という雰囲気を、その身にまとわりつかせているのである。 となれば、この際、瞬に対峙する人間に洞察力や分別があるかないかは、大した問題ではないだろう。 洞察力や分別を有する者は、瞬が隙だらけの人間だということを洞察判断して行動に出るだろうし、洞察力や分別を持たない者は、洞察判断をせずに行動に出るだけなのだ。 たとえば、それが痴漢でも婦女暴行でも、多くの性犯罪者が獲物として選ぶ相手は、群を抜いた美女でもなければ、優れたプロポーションの持ち主でもない。 彼等が彼等の獲物に選ぶのは、隙があって、ろくな抵抗ができそうにない、大人しい印象の人間なのである。 たとえば、瞬のような。 そして、瞬は、隙だらけで大人しそうなだけでなく、その容姿も人後に劣るものではない。 分別があろうがなかろうが、男が手を出したくなるタイプの人間なのだ。 事実、氷河はいつもその誘惑にかられ、いつも その誘惑と懸命に戦ってきた。 だというのに、他の男たちは氷河の考えとは全く違う反応ばかりを示す。 氷河には、心底から、本気で、完全に、訳がわからなかったのである。 まるで、自分だけが 他の人間とは違う世界を見ているような――見せられているような――そんな混乱に、氷河は囚われていた。 その段になって、沙織は、氷河の混乱と困惑の原因に気付いたらしい。 腑に落ちたような顔になりながら呆れてみせるという、常人には なかなかできない芸当を、彼女は彼女の聖闘士の前で披露してくれた。 「ああ、そういうこと。氷河、それはね、あなた、瞬の術中に落ちているのよ」 「瞬の術中に落ちている? それはどういうことだ。瞬が あの馬鹿兄貴のように幻魔拳でも操って、俺にだけ わざわざ隙を作って見せているとでもいうのか」 「瞬は、意識してそんなことができるタイプじゃないでしょ。そもそも、隙というものは、作るものじゃなくて、できてしまうものだし」 「なに?」 「つまり――隙というものは――どう言えばいいのかしらね。つまり、 『わかっていない』と言われれば、それは確かにその通りだった。 まさかグラード財団総帥ともあろうものが、プロの婚活アドバイザーや護身術指導員に支払う数万数十万の指導料や謝礼金を惜しんで、完全にアマチュアの瞬に その役を押しつけたのだとは思えない。 世の中には、婚活講座でも護身術講座でも、瞬より はるかに その作業に慣れたプロがいくらでもいるのだ。 グラード財団本部ビル30階の大会議室30Aで行なわれる婚活講座の講師が瞬である必要は どこにもなかったはずなのである。 そう、氷河は思っていた。 が、沙織がグラード財団内の独身男向けの婚活講座の講師に瞬を抜擢したのは、彼女なりの深慮によるものだったらしい。 「もちろん、あの講座の直截的な目的は、受講者に 我が身を己が力で守ることのできる技術を身につけてもらうことよ。そうすることによって、自分に自信を持つ男性を作る。女性というものは、実力に見合った自信を備えている男性に好意を抱くようにできているから、出会いさえあれば、やがて彼の前には 彼に好意を持つ女性が現われることになるわ。もちろん、その女性は、意識しなくても 好きな人の前では隙を見せるようになる。その隙に気付けば、男性の方も声をかけやすくなる。あの護身術講座は、そういう男性を育成するための講座だったのよ。他の女性がいかに隙だらけなのかという事実に気付くことのできる目を養うには、瞬は適役でしょ。瞬は、あなた以外の人には全く隙を見せないもの。瞬は鉄壁の防御力を誇るアンドロメダ座の聖闘士なんだもの」 「……」 それは氷河には寝耳に水のことだった。 氷河の前で、瞬はいつも隙だらけで、氷河はそういう瞬をしか見たことがなかった。 もちろん、氷河は氷河以外の人間にはなれないのだから、氷河は“氷河”以外の人間の目に瞬がどんなふうに映っているのかを知ることはできない。 だが、人間というものは、自分に見えている世界と同じ世界を、自分以外の人間も見ていると信じているものである。 「そ……その理屈でいくと、俺の目に隙だらけに見える瞬は、俺に好意を持っている――ということになる」 確信に至ることができず、ゆえに当然 自信を持つこともできずにいる氷河に、沙織は実に軽快に頷いてみせた。 「そうよ。何をされてもいいと思うほど好きな人の前でなかったら、あの瞬が隙なんか見せるわけがないでしょう。瞬は、鉄壁の防御を誇るアンドロメダ座の聖闘士なのよ。日常生活でも、それは大して変わらないわ。あなたが気付いていないだけ。そして、瞬がそんなに隙だらけに見えているっていうのに、一向に瞬に強気で迫ろうとしないあなたに度胸がないのよ。ほんと、情けないったら」 それは、氷河には にわかには信じ難いことだった。 瞬が、自分にだけ隙を見せている――などということは。 世の中が、そんなふうに一人の男にだけ都合よくできているはずがないではないか。 いつまで経っても女神の言葉を信じようとせず、喜ぶ素振りも見せようとしない氷河に、沙織が呆れ焦れたような視線を投げてくる。 「嘘だと思うのなら、試してごらんなさい」 沙織は、ラウンジの窓の側に歩み寄り、そこから瞬の姿が庭にあるのを確かめると、再度 白鳥座の聖闘士の方に向き直った。 「婚活講座は当分ないと言われて、瞬は肩の荷をおろしたばかり。でも、どう。ここから見える瞬には隙がないでしょ。あの瞬が、あなたの前に出ると どう変わるか、自分の目で確かめてみるといいわ」 アテナに挑発するように だが、本当にその命令に従ってしまっていいのかどうかの判断に迷った氷河は、アテナに比べれば多少は常識の持ち合わせが多いであろう仲間たちの意見を求めて、星矢たちの上に視線を巡らせた。 瞬の“隙”の意味に氷河が気付いていなかったことに気付いていなかったらしく、彼等は、氷河の視線の先で、仲間の鈍感に呆れているような顔を浮かべていた。 「おまえ、実は本気で ただの鈍感だったんだな。俺はてっきり、おまえは 少子化問題に真っ向から逆らう恋の是非に迷って 煮え切らないでいるのだとばかり思ってたぜ」 「今すぐ瞬のところに行かないと、それこそ勇気と度胸のない男の烙印を押されるぞ」 「……」 瞬の“隙”がどういうものであるかに気付いていなかったのは、どうやら某白鳥座の聖闘士だけだったらしい。 かくして氷河は、女神と仲間たちに背中を押される形で、瞬のいる庭に追いやられてしまったのだった。 |