城戸光政は日本でも指折りの富豪――と、氷河は聞いていた。 金がないはずがないのに、遠い国に送り出す子供に空路ではなく海路を採らせたのには何か訳があるのだろうかと、東シベリアに直行するという貨物船の中で、氷河は思ったのである。 同じ船なら豪華客船に乗りたい――などという贅沢を言うつもりはなかったが、乗り物をいくつ乗り換えることになっても、船よりは飛行機の方が早く目的地に着くはずである。 これは嫌がらせの一種なのかと、大人なら窮屈で仕方がないだろう狭く硬い簡易ベッドの中で、氷河は舌打ちをしたのだった。 だが、氷河にとって本当に不愉快なことは、狭く硬い寝台で長い旅の夜を強いられることではなかった。 そうではなかったことを、氷河は、貨物船の船室で過ごす最初の夜に知ることになったのである。 その夜、氷河は、シベリアに向かう船の硬いベッドの中で奇妙な夢を見た。 それは、夢とわかる夢だった。 現実ではないということが はっきりわかるのに、妙に現実的な空気で包まれた夢。 非現実的でありながら、ひどく現実的な――いってみれば、超現実的な―― その夢は、不思議な薄闇でできていた。 自然が作るものとは思われない、神秘的といっていいような薄闇。 その神秘的な闇の中から、氷河が現実の世界で為した企てにクレームをつける声が響いてきたのである。 「なんということをしてくれたのだ。これでは余は、瞬の側で瞬を守ることができなくなるではないか」 「おまえ……何だ?」 『誰だ』と訊かずに『何だ』と尋ねたのは、その声が姿を持っていなかったからだった。 しかも、その声は、氷河が初めて聞く声で――つまり、氷河がこれまでに出会ったことのある“人間”の声ではなかった。 男の声か女の声かと問われれば、確実に男の声。 子供の声か大人の声かと問われれば、明白に大人の声。 だが、その声が 普通のまともな人間の声かと問われれば、氷河は『わからない』と答えるしかなかった。 その声には、氷河の声が聞こえているらしい。 声が、不機嫌な苛立ちめいた響きをのせて、氷河の 「余は、瞬を守っていたものだ。瞬は、余に――神に選ばれた者であったのに、そなたが いらぬことを企てたせいで、その証を他人の手に渡してしまった。余の方がずっと強い力で瞬を守ってやることができるのに、所詮は人間が作った装飾品にすぎないものと、神に授けられたものを交換してしまうとは、正気の沙汰のこととは思えぬ。瞬も瞬なら、そなたもそなただ。そなたの母の形見に どれほどの力があるというのだ……!」 母の形見を無力なものと断じられた氷河が、その評価を喜べるわけがない。 氷河は、即座に、その声を“ろくでもないもの”と決めつけた。 「神? そんなものより、マーマの方がずっと瞬を守ってくれるに決まってるだろ。神なんてものは、人間に試練を与える力しか持ってないんだから。人を守って、人を幸せにするのは、人間だけだ」 そんなことも知らない神など、頼りにはならないし、そもそも信ずるに足りない。 非現実的でありながら、妙に現実的な夢の中で、氷河は、馬鹿げたことを言う その声にそっぽを向き、寝返りを打った。 身に馴染んでいない船とベッドのせいで 変な夢を見てしまっただけだと、翌朝 氷河は自分に言いきかせたのである。 実際、氷河は、翌日の朝が終わる頃には、そんな夢を見たことなど綺麗さっぱり忘れてしまっていた。 そのまま思い出すことはなかっただろう。 その日以降、彼が同じ声の登場する夢を繰り返し見ることになりさえしなかったら。 氷河は、その夢のことを完全に忘れ去ってしまうことはできなかったのである。 シベリアの地で聖闘士になるための修行が始まってからも、その声は たびたび氷河の夢を訪れてきたから。 その上、その声は、氷河の夢の世界に立ち現れるたび、恨み言を繰り返した。 「子供の浅知恵で、よくも余を瞬から引き離してくれたな。瞬の命と清らかな心を守りたかったなら、そなたは余を瞬から引き離すべきではなかったのだ」 「俺は、おまえを瞬から引き離したつもりはない。そんなことできるわけないだろ。俺は、おまえみたいなのが瞬に憑いてることさえ知らなかったんだから。知ってたら、もっと早くに引き離していたさ。だいたい、おまえ何なんだよ。おまえ、あのペンダントに憑いてる妖怪か何かなのか!」 「余は神だと言ったろう。ああ、神である余が、こんなペンダントに頼らなければ 地上に思いを飛ばすことができないのも、みなアテナのせい。神である余が、そなたのような子供の思いつきで瞬から引き離されるなど、あってはならぬことだ。余は、何としても瞬の命と清らかな心を守らなければならなかったのに――」 「カミだのヨだのって、おまえ、ほんとにうるさいな! 俺が瞬からペンダントを預からなかったら、おまえ、こんなふうにして、毎晩 瞬の安眠を妨害するつもりだったのかよ!」 瞬から引き離されたのは“余”だけではない。 氷河とて、瞬と離れたくて離れたわけではない。 離れたくなどなかったのに、無理矢理 この北の地に送られてしまったのだ。 己れの不幸不運だけを繰り返し言い募る“神”に苛立って、氷河は“余”を怒鳴りつけた。 怒鳴りつけてから、あることに気付く。 “あること”とは、つまり、氷河が瞬から預かるまで、“余”がおまけでついてくる あのペンダントはずっと瞬と共にあったのだ――ということだった。 そして、このやかましい神が、瞬の側でだけ静かにしていたはずがない――ということ。 「するつもりじゃなく、してたんだな! これまでも こんなふうに瞬を脅してたんだ! それで、瞬はいつもおどおどして――!」 「なぜ余のせいで、瞬がおどおどすることがあるのだ。余は瞬を守っていたのだ」 「なにが『瞬を守っていた』だ! 瞬はデリケートなんだぞ。おまえみたいに不気味で真っ黒な奴、瞬は恐がってたに決まってるだろ!」 そんな、考えるまでもないことがわからない“神”など、ただの馬鹿――確実に人間以下の馬鹿である。 そう決めつけて、氷河は、馬鹿な神を睨みつけた。 とはいっても、夢の中で氷河の視線の先にあるものは、その声の他には奇妙な薄闇だけだったのだが。 その薄闇が、ごく短い時間、氷河の前で沈黙する。 その短い沈黙のあとで、“余”は、元気な子供に うんざりしている大人のような声と言葉を吐き出してきた。 「瞬は素直で可愛かったのに、そなたは全く可愛くない」 確かに瞬なら、 しかし、今の氷河は、“瞬の死”“瞬に二度と会えないこと”以上に恐いものなどなかった。 「おまえに何て言われても どうってことない」 素直な子供であろうとなかろうと、可愛い子供であろうとなかろうと、子供が恐れる者は、自分を愛してほしいと願っている人間だけである。 その人と引き離されることだけ、その人に嫌われることだけ。 氷河にとって、“余”は、全く恐ろしいものではなかった。 脅しにも呪詛にも怨言にもひるまない子供に閉口し、また苛立ったように、闇の声は またしても氷河の軽挙を責めてきた。 「瞬がいるから、余の意思は この地上に存在することができているのだ。瞬の身に もしものことがあったら、瞬の心が汚れに侵されるようなことになったなら、余は また暗い闇の中に帰らなければならなくなる。そしてまた長い眠りを余儀なくされる。みな、そなたの軽率のせいで」 「へえ、おまえ、疫病神なんだと思ってたら、たまには いいこと教えてくれるじゃないか」 彼の言はつまり、心ならずも疫病神を引き受けてしまった子供がこの悪夢を見ている限り、瞬は生きているということである。 瞬が その心の清らかさを保ったまま生きているということだった。 そう思えば、このうんざりする夢を見せられ、恨み言を聞かされ続けることも、少しは喜ばしいことと思えなくもない。 氷河は、そう考えて、繰り返される闇からの恨み言を我慢することにしたのである。 瞬のいるアンドロメダ島から遠く離れたシベリアの地で、薄闇の悪夢は それから数年間続いた。 影は、氷河が白鳥座の聖衣を手に入れた時にも、相変わらずの繰り言で氷河の修行の成就を祝って(?)くれたのだった。 |