寝ずの番をしてやると自信満々で宣言しておきながら、睡魔に負けて眠ってしまったら、格好のつかないことになる――。 そんな心配をしながら、その夜、氷河は瞬の部屋に赴いたのである。 城戸邸に起居する青銅聖闘士たちは、どこぞの味気ないホテルのように、同じ広さ同じ間取りの部屋を与えられていて、当然のことながら、瞬の部屋の様子は氷河の部屋のそれと同じものだった。 同じメーカーの同じセミダブルベッド、機能性が重視された、あまり大きくはないライティングデスクと椅子。 一人掛けの肘掛け椅子が2つとティー・テーブルによる簡易の応接セット。 壁紙もカーテンも全く同じものだった。 すべてが同じだというのに、やはり部屋というものは、そこに暮らす住人によって個性を持つものであるらしい。 余計なものが何もなく 素っ気ない印象の強い氷河の部屋と違って、瞬の部屋は、人を迎え入れる空気のようなもので満ちていた。 2つの部屋の何が違うのかといえば、それは、そこに瞬がいるかいないかということだけ。 氷河は、そう感じた。 2つの部屋の違いを、氷河はそう解した。 そんな瞬の部屋で、パステル調の水色のパジャマを身につけた瞬に、遠慮がちに、 「あの……じゃあ、お言葉に甘えます。氷河、おやすみなさい」 と言われた時には、氷河は 正直、軽い目眩いを覚えたのである。 ベッドに入った瞬に、 「あの夢が恐いからじゃなく――なんだか、別の意味でどきどきする」 と言われた時には、意味もなく大きな声をあげて、飢えた狼のように咆哮したくなった。 まさか本当に雄叫びをあげるわけにはいかず、氷河はなんとか そんな自分を抑えきったのだが。 小さなセーフティライトだけをつけて、やがて瞬が眠りに就く。 ベッドの脇の応接セットの肘掛け椅子に 少々砕けた姿勢で身を沈めた氷河は、まもなく、『寝ずの番をしてやると自信満々で宣言しておきながら、睡魔に負けて眠ってしまったら、格好のつかないことになる』という心配が、実に意味のない心配だったことに気付いたのだった。 あるいは、それは、間違った心配だった。 氷河はむしろ、自分の目が冴えて眠れないことの心配をすべきだったのである。 人は、恋に落ちたから恋人を抱きしめたいと思うのか、それとも、その人を抱きしめたいと思うから、それは恋なのか。 恋の実態が そのいずれであったとしても、そんなことは この際 問題ではない。 問題は、瞬が綺麗になりすぎたこと。それも、あまりにも氷河好みに綺麗になりすぎたことだった。 仲間の厚意に遠慮を感じてはいても、仲間によって我が身に害が及ぼされる可能性など考えてもいないらしい瞬のために、氷河は懸命に己れの理性を稼働させなければならない事態に陥ってしまったのである。 仲間の内に そんな獣心があることになど気付いた様子もなく、瞬は 健やかな寝息を立てている。 それが、 仲間を信じきっているからこそ、瞬は 久し振りに安らかな気持ちで我が身を眠りの中に投じているのだと思うと、下半身が熱くなることにさえ罪悪感を感じる。 頭と身体を冷やすためにバルコニーに出ようかとも思ったのだが、そのために 掛けているソファから立ち上がり、瞬の寝顔をまともに見てしまうことも恐ろしく、だから 氷河は、椅子に腰掛けたままの姿勢で身体を強張らせていることしかできなかったのである。 時間が飴のように長く伸びているように感じられ、氷河の苛立ち――それは苛立ちと呼ぶしかないものだった――は強く大きくなっていった。 理性が恋情に負けて 自分が暴挙に及ぶ前に、いっそ何事かが起きてくれないかと、氷河は、神にすがる気持ちで願いさえしたのである。 それがまずかったのかもしれない。 氷河が限界を感じて瞬の部屋から逃げ出そうとした時、 「いや……いやだっ!」 それまで健やかな寝息で氷河を誘惑し続けていた瞬の唇が 急に苦しげな声をあげ、その呼吸が乱れ始めた――。 「瞬……!」 さすがに浅ましい獣欲を忘れて、氷河は瞬の枕元に駆け寄った。 瞬はまだ眠りの中にいるようだった。 というより、瞬は夢の中――あの夢の中にいるらしい。 「いやっ。僕は僕のものだっ!」 目を閉じたまま、唇と眉以外の身体は全く動かさずに、瞬が必死に あの声の主に抗っている――おそらく。 「瞬!」 つい先程まで 触れることはおろか、視界に入れることさえ恐れていた瞬の名を呼び、左右の二の腕を掴んで、氷河は瞬の上体をベッドの上に引き起こした。 さすがに眠り続けていられなくなった瞬が、聖闘士らしく素早い反応で ぱっとその目を開く。 やがて、自分が夢の途中に 夢の世界の外に引っ張り出されたことに気付き、瞬は氷河に礼を言おうとしたようだった。 夢の恐ろしさの余韻のためか、あるいは、仲間がすぐ側にいても あの夢は自分に襲いかかってくるのだという事実に思い至ったためか――結局 瞬は仲間に『ありがとう』と言うことができなかったらしい。 言葉の代わりに、瞬は、氷河の胸にしがみついてきた。 幼い頃に比べ、格段に戦闘力を増し、現実の世界では瞬より強い人間は数えるほどしかいなくなったというのに、氷河の胸の中で肩を震わせる瞬は 幼い頃のまま――むしろ、幼い頃より頼りなげだった。 どうにかして この瞬の心を安んじさせてやらなければならない――と、氷河の気持ちが急く。 今は、うまい言葉が見付からないなどと、悠長なことを言っていられる状況ではないのだ。 おそらく その焦慮が、氷河に、到底 深慮が作ったものとは思えない言葉を、瞬に囁かせた――囁かせてしまったのだった。 「あれは……あれは きっと神なんかじゃない。悪魔でもない。夢が おまえに害を為す力を持っているはずがない。あれはきっと――きっと、俺の心があの化け物を作ってしまったんだ。あれは、おまえを好きな俺の心が作ったものだ。きっとそうだ。すまん。許してくれ」 「え……」 「俺はガキの頃からずっと おまえが好きだったんだ。聖闘士になるための修行をしている間も、妄執のように、おまえに会いたいと そればかりを願っていた。そして、実際におまえに会ってしまったら、今度は別の望みが湧いてきた。おまえと特別に仲良くなりたいとか、おまえを独り占めしたいとか、他にも とてもおまえに言えないような望みまで――。俺は変なんだ。だから、あんな変なものを作ってしまった。あんなものは無視してくれ。きっとそのうちに消える。消えるんだ。だから、恐がらないでくれ。恐がる必要はない……!」 「……消えるの?」 瞬が仲間の言葉を信じたのか信じなかったのか、それは氷河にも わからなかった。 ただ つい先程まで氷河の胸の中で震えていた瞬の肩は、今は震えていなかった。 恐れや怯えとは違う切なさをたたえた瞬の瞳に見詰められ、小さな声で尋ねられ――次に震えを帯びることになったのは、氷河の声の方だった。 「もっと強く大きくなるかもしれない……」 「僕は……恐いんだ。氷河は恐くないのに、あの夢は恐いの」 瞬のその言葉は、氷河の心臓に、鋭く長い針を突き立てられるような痛みを運んできた。 俺が作ってしまったものでも恐いのかと、声にはせずに瞬に問いかける。 氷河が声にはしなかった 「ずっと恐かった……。でも、もし本当にあれが氷河の作ったものなら、僕は恐くないよ。もし 本当に氷河が作ったものなら」 「瞬……」 氷河の声は掠れ上擦っているというのに、瞬の声は滑らかで、そして甘い色を帯びていた。 「氷河が作ったものなら――だから、あの人、あんなに綺麗なのかな?」 「なに?」 絶対にそうではないことを氷河は知っていたのだが、瞬がどういうつもりでそんなことを言うのか――を考え出した途端、氷河の心臓が どきどきと高鳴り始める。 それに呼応するように、これまで凍りついているようだった瞬の心臓が、とくとくと少しずつ その速度を速めていくのを、氷河は じかに自分の胸――自分の心臓で感じることができたのである。 「僕だって、氷河と離れてアンドロメダ島にいる間、ずっとずっと 氷河に会いたいって思ってた よ。必ず生きて帰って、氷河に会って、氷河にマーマのロザリオを返さなきゃ――って。その時、氷河はどんな嬉しそうな顔をするんだろう、どんなふうに喜んでくれるんだろうって考えると、どんなに つらい時でも、どんなに寂しい時でも、僕は元気が出てきた」 「俺は……喜んだぞ。自分でも驚くくらい喜んだ。おまえが生きて帰ってきてくれたことが嬉しかった。ロザリオが戻ったことより、おまえにまた会えたことが嬉しかった」 「ほんと?」 氷河の胸の中で、瞬が軽く首をかしげる。 氷河は、瞬を抱きしめる腕に力を込めた。 「俺を変だと思うか。俺はずっとおまえが好きだったんだ。おまえに生きていてほしかった。そのためになら、何だってできると、何だってしたいと思った」 「氷河……」 瞬の声、瞬の吐息、瞬の仕草――は、なぜこんなに甘いのだろう。 まるで、瞬自身が人を惑わす悪魔の囁きそのものであるかのように。 瞬は純白の悪魔だった。 氷河には、そう思えた。 瞬のすべてを“甘い”と感じるのも、それを誘惑そのものと感じているのも、それは自分の主観が感じているだけなのだということを、もちろん氷河は知っていた――自覚していた。 勝手に自分が そう感じているだけのことなのだと、わかっていた。 純白の悪魔とは、下界に堕とされる前の悪魔――つまりは天使のことなのだから。 「あの影が、前に俺に洩らしたことがあった。あいつは、おまえの命だけでなく、清らかさも守っているのだと。奴は、おまえが清らかだから、おまえに執着するし、おまえが必要なのだと言っていた。もし おまえが俺の浅ましい獣欲を許して清らかでなくなったなら、もしかしたら おまえは――」 『あの悪夢から解放されるのではないか』と言いかけ、かろうじて言わずに済ませ、悪魔はむしろ自分の方だと、氷河は思ったのである。 氷河は、あの闇の声が 瞬に求め守ろうとしている“清らかさ”がそういうものではないことを知っていた。 知っているのに、そんなことを瞬に言おうとする自分は清らかな人間なのではないのだろうと、氷河は思わないわけにはいかなかった。 だが、氷河の心の片隅から、恋の姿をした悪魔が囁くのだ。 『瞬が身体だけでも他の男のものになったら、あの闇の声の主は、瞬への執着を失せさせるかもしれないぞ』と。 声の調子を聞いているだけでも、神を自称する あの闇のプライドが異様に高いことは 容易に察せられた。 「そんなことできないよ!」 それまで ひたすら甘いばかりだった瞬の声が、鋭いものに豹変する。 その鋭さで、氷河は はっと我にかえった。 そんなことができるわけがないことを、もちろん氷河は知っていた。 自分の卑怯と醜悪を認めて、強く奥歯を噛みしめる。 氷河の自責と悔恨は、だが、無用のものだった。 より正確に言えば、今 この場に限って言えば、無用のものだった。 氷河の企みを鋭く否定した瞬の声と言葉は、すぐにまた蜜のように甘いものに変わってしまったから。 「もし、僕が、あの……氷河とそういうことをするとしたら、それは僕が氷河を大好きだからで、僕が清らかでなくなるためなんかじゃないの……」 切なげな目で自分を見上げ 訴えてくる瞬は、本当に悪魔ではないのかと、氷河は激しく混乱したのである。 それは好きな相手とだからすることで、清らかでなくなるためにすることではないという瞬の訴えは 正論としか言いようのないもので、卑劣な企てを言葉にした男の醜悪を消し去ってくれるものでもあった。 その、全く正しい主張を 悪魔の誘惑ではないのかと氷河が疑うことになったのは、それがあまりにも 瞬に恋している男にとって都合のよすぎるものだったから――だったろう。 瞬がそう言ってくれるということは、瞬もまた、瞬を恋する男を憎からず思ってくれていたということである。 それは氷河にとって都合がよすぎる展開で、真実ならば嬉しすぎることで、だから氷河は 戸惑い混乱しないわけにはいかなかったのだ。 人間の判断力が 最も正則にのっとった判断ができなくなるのは、不運と不幸のために自暴自棄になっている時と、幸福の絶頂にある時であるに違いなかった。 瞬が悪魔でも天使でも――氷河は、彼の目の前に瞬が差し示してみせる幸運に抗うことができなかったのである。 抱きしめていた瞬の首筋に唇を押し当てる。 「あ……」 その唇を、氷河はすぐに、小さな声を洩らした瞬の唇の上に移動させた。 瞬は、氷河のキスに積極的に応えてはくれなかったが、氷河の唇から逃げようともしなかった。 積極的でもなければ、消極的というわけでもなく――ただ無抵抗なだけの瞬に、氷河は一抹の不安を覚えたのだが、氷河のその不安はすぐに消し飛んだ。 瞬は積極的に応える術を知らない――キスの仕方を知らないだけなのだということに気付いたせいで。 あの闇の声の主が必要とし、失うまいとしていたものは瞬の命と清らかな心であって、決して瞬の肉体の純潔ではない。 瞬の身体に、清らかとは言い難い人間の身体が入り込むことは、あの声の主を追い払うことにはつながらない。 それは わかっていたのだが、氷河は もはや 瞬を求める自分の心と身体を止めることはできなかった。 瞬の口中に舌を差し込み犯しながら、自分の体重をかけて 瞬の身体をベッドの上に押し倒す。 「もちろん、これは、俺がおまえを大好きだからすることだ」 無抵抗ではあるが積極的ではない瞬は、氷河に そう囁かれると、安堵したように瞳で微笑し、その身体を氷河の手に委ねてきた。 そして、“瞬を大好きだから”、氷河は、瞬の身体を貪り尽くしたのである。 |