僕が誰かに恋をする






瞬が目覚めて最初に見たものは、見知らぬ青い瞳に映る自分自身の顔だった。
とはいえ、それが自分の顔だということに、瞬はすぐには 気付けなかったのであるが。

「瞬!」
「しゅん……?」
瞬の姿を映している青い瞳の持ち主の脇から、やたらと元気な声が響いてくる。
小柄で、人を恐れない小犬のように素直で明るい瞳、声以上に元気に撥ねている濃い色の髪。
瞬は、彼を、気安い印象の強い、誰とでもすぐに友だちになることのできそうな少年だと思った。
彼が口にした『しゅん』というのが人の名らしいことは わかったのだが、瞬は、その時にはまだ、それが自分の名だということには気付いていなかった。

『しゅん』が自分の名だということに瞬が気付いたのは、その場にいた3人目の人物が、ベッドに横になったまま、大きく一度 瞬きをした自分を見詰めて、
「瞬。気がついたか。よかった」
と、労わるような口調で言ってきたからだった。
落ち着いて優しげな眼差しと微笑。
男性にしては長すぎる黒髪。
男性の長髪は、一般的には、常識や普通であることへの反抗心を象徴するものである。
そして(あるいは、にもかかわらず)、彼の長髪は、男性のそれに ありがちな手入れの行き届かなさを感じさせるものではなく、その印象は、落ち着いた生活を好む几帳面な反骨の士といったところだった。

そして、最初に瞬が出会った青い瞳の持ち主。
その瞳は、冷たいのか熱いのかの判断が難しく、燃えあがる氷というものが もし この世に存在するのなら、それは彼の瞳と同じ風情をしているに違いないと、瞬に思わせるものだった。
伸びるに任せ、鬱陶しくなったら ざくざくと切っているのではないかと思えるような髪は、しかし、王者の象徴たる黄金の光を放っている。
理解し難いほどの彼の無表情は その造作があまりに端正すぎるせいで、ぞっとするほど強い力を瞬に感じさせた。

それぞれに個性的な人たちだと、瞬は嘆息したのである。
彼等が何者なのかは わからなかったが、成人する前の三銃士が こんなふうだったのではないかと、瞬は、とても楽しい気持ちで思った。
小犬のように元気な少年は、ポルトスというよりダルタニアンのような気もしたが。
だが、この場合、問題なのは、彼がポルトスかダルタニアンかということではなかった。
問題は、作者の名前さえ知っている『三銃士』を、自分がいつ どこで読んだのか、その記憶を瞬が有していないことだった。
瞬は、自分が何者なのかということさえ、全く憶えていなかったのである。

「あの……あなた方はどなたですか。ここはどこで、僕は誰なんでしょう?」
丁寧語で言ったからといって、陳腐なセリフが陳腐でなくなるものでもない。
「おまえ、なにアホなこと言ってんだよ。アタマでも打ったのか?」
ポルトス改めダルタニアンが、呆れたような笑顔で瞬に尋ねてくる。
「打ったんだ」
アトスに静かな指摘を受けて、ダルタニアンは素早く両肩をすくめた。
「そーだった。おまえ、庭で仰向けにコケて、アタマを園路の敷石に――てことは」
過去に起こった事実を言葉にすることで、彼は、現在の状況を悟ることになったらしい。
アトスは親切な男らしく、彼は、絶句したダルタニアンが導き出した“現在の事実”をダルタニアンの代わりに言葉にする作業を代行した。
てことは・・・・、これはジョークでも戯れ言でもないということだ。瞬は俺たちのことを忘れている。どうやら、自分のことも忘れているようだな」

長髪のアトスの親切は、元気なダルタニアンの手間を省くにとどまらず、瞬に現状を把握させてくれるものでもあった。
そうだったのかと、瞬は、彼の言葉に頷くことになったのである。
自分は記憶を失っている。
ならば、自分が『三銃士』をいつ読んだのかを憶えていないのも当然のこと。
その事実を自覚することによって、瞬は一応の落ち着きを取り戻すことができたのである。
否、実は、瞬は、最初から さほどの不安を感じてはいなかった。
それは、多分、彼の目の前にいる三人の少年と青年たちのせいだった。
三銃士なら悪い人たちではないだろうと、瞬は勝手に彼等を正義の味方と決めつけていたのである。

そんなふうに、瞬は落ち着いていたのだが、三銃士の方はそうはいかなかったらしい。
瞬を落ち着かせてくれた事実は、彼等を慌てさせる事実でもあったようだった。
「ちょ……ちょっと、俺、沙織さん 呼んでくる!」
三人の中で最もフットワークが軽いのは、やはり いちばん年下のダルタニアンであるらしい。
そう言い終える前に、彼の姿は、部屋の中から消えてしまっていた。

そうして、その僅か2分後、瞬のいる部屋に やってきたのは長い髪の美しい女性で、瞬は、この人はアンヌ王妃か、それともボナシュー夫人かと悩むことになったのである。
少女と言っていい年齢なのだろうが、歳に似合わぬ不思議な落ち着きと威厳を感じさせる その様子は、やはりコンスタンス・ボナシューというよりは王妃という身分がふさわしいような気がした。
その場にいる三人から経緯を聞いた王妃が、どちらかと言えば この事態を楽しんでいないように見える三人とは対照的に、現状を楽しみきっているような笑みを浮かべた。

「いいことを思いついたわ!」
弾けるような声をあげて、瞬の方を振り返った彼女の瞳は、生きていることが楽しくてならない人間のそれのように明るく輝いていた。
「あなたの名前は瞬というの。それでね、あなたには大切な人がいたのよ」
「大切な人?」
「そう。つまり、コ・イ・ビ・ト!」
音楽ならスタッカート記号つき、散文なら中黒か圏点つき、書簡文ならハートマークつき。
そういう調子で彼女は、その言葉を口にした。

「えっ」
瞬が驚いたのは至極当然のことである。
瞬は、なにしろ記憶を失っていたのだ。
『君には母親というものがいて、君は彼女によって この世界に生み出されたのだ』と言われても、瞬は十中八九 驚いていたに違いなかった。

「ど……どこに……?」
言って、辺りをきょろきょろと見回す。
アンヌ王妃は、そんな瞬の様子を見て、室内に愉快そうな笑い声を響かせた。
「面白い質問をしてくれるわね。ここによ。もちろん」
「あ……もしかしたら、あなたが?」
「そうだったら、面白いことになりそうだけど」
答えになっていない答えを口にしながら、彼女は身を乗り出し、寝台の上に上体を起こしている瞬の顔を至近距離から覗き込んできた。

「だけど、残念なことに、最近、あなたとその人の間では別れ話が出ていたところだったの」
「わ……別れ話? それはどうして……?」
自分のことを他人に尋ねなければならない事態の奇妙を、奇妙と感じる余裕は、今の瞬には持ち得ないものだった。
わからないこと、知らないことは、どうしても、わかっている人、知っている人に尋ねるしかない。
「あなたは、自分がその人を本当に好きなのかどうかわからないと言っていたわ」
「好きかどうかわからない?」
そんなことがあるのかと、瞬は訝ることになった。
そして、すぐに、そんなこともあるのかもしれないと思う。
たとえば、恋に恋をしている状態は、誰かに恋している状態とは言えないだろう。
尊敬を恋と混同すること、深い友情を恋と混同することも、人にはあるかもしれない。

「そうよ。でも、こういうことになったら、当然 別れ話は立ち消えということになるわね。何と言ったって、今のあなたは自分が誰と別れ話をすればいいのかということさえ わからないんですもの」
「そうですね……」
それは彼女の言う通りである。
自分に恋人がいたという事実(?)をすら、瞬は いまだに信じられずにいた。

「私は、これは、天があなたに与えた絶好の機会だと思うのよ。あなたが その人を本当に好きなのかどうかを確かめるため、その人との別れ話を進めることが あなたにとってよいことかよくないことなのかを判断するために。幸い、身体には何の支障もないようだし、あなたは無理に失われた記憶を思い出そうとしないで、ゆっくり自然にしていればいいわ。そして、すべての記憶を失った あなたが、誰に恋をすることになるのか、様子をみてみましょう」
「あ……でも……」
「もし あなたが その人に好意を持ったら、あなたはやっぱりその人が好きだったことになる。別の人に好意を持つようになったり、そもそも誰にも恋しなかったら、あなたは その人を本当に好きではなかったということになるの。そういうことになるでしょう?」

『そういうことになるでしょう?』と自信満々で言われた瞬は、胸中で『そういうことになるのだろうか?』と、思い切り疑っていた。
何といっても、瞬は、どうすれば 人は人に恋をすることができるのか、そのあたりの理屈からして よくわかっていなかったのだ。
しかし、アンヌ王妃は、そんな瞬の不安になど気付いてもいない様子で、どんどん話を進めていく。

「じゃ、そういうことにしましょう。それでいいわね」
「あの、でも、僕は――」
「ああ、そう、瞬ったら、すべてを忘れてしまっていたのだったわね。何から説明しましょうか。ここは、グラード財団の前総帥だった私の祖父が建てた家で、現在の所有者はこの私。ちなみに、私は城戸沙織というの」
「城戸……沙織さん」
アンヌ王妃 改め城戸沙織嬢が、瞬に頷く。
彼女は、確かに 王妃の気品を備えていたが、それ以上に、有能な実務家の機動性に恵まれているらしい。
口調が、高い地位にある女性のおっとりしたそれではなかった。

「この家の住人は、私と、ここにいる3人。右から、金髪が氷河、長髪が紫龍、乱髪が星矢よ。私たちは血の繋がっていない家族のようなものと思ってくれればいいわ。家族で、同じ目的を持つ同志で、親しい友人同士でもあるわね」
ポルトス改めダルタニアン改め星矢――は彼女の『乱髪』という説明に不満げだったが、彼女は実にてきぱきと(?)冷徹に彼の不満顔を無視した。
「他に、住み込みのメイドが8人と男性の使用人が5人いるわ。その中で、あなたが好きになるのは いったい誰なのか、試してみましょう」
「だ……男性も頭数に入れるんですか」
「入れなきゃ、不公平でしょ」
「はあ……」
「では、たった今から、楽しいゲームの始まりよ!」

そう宣言する彼女は、本当に楽しそうだった。
彼女が語る“ゲーム”が、自分の人生を大きく左右する(ことになるかもしれない)事柄に関わるものでさえなかったなら、瞬自身も、彼女の明るさに引きずられて軽快に笑ってしまっていたかもしれないほど。
彼女は特別な影響力を有する女性なのか、それとも、女性とは皆こうなのか。
その謎の答えも わからないまま、彼女の迫力に押されて、瞬は彼女の言う“ゲーム”の開始に同意してしまっていたのだった。






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