城戸邸は、一般人の住居とは思えない規模を有する大きな洋館だった。 瞬が目覚めた部屋は、その家の所有者であるところの城戸沙織の“家族のようなもの”である瞬が、以前から使っていた部屋だったらしい。 洋館の2階にある部屋には、南に向いて大きな強化ガラスのドアがあり、そのドアが庭を見おろすことのできるベランダに続いている。 この部屋のある棟には、同じ造りの部屋が幾つか並んでいて、瞬の部屋の右隣りは星矢の部屋、左隣りは氷河の部屋。紫龍の部屋は、星矢の部屋の更に右にあるということだった。 以前から使っていた部屋と知らされてから改めて眺めてみると、確かにベランダから一望できる庭の様子には見覚えがあるような気がする。 小さな林さえ抱えた この広い庭の いったいどこで、そして なぜ、自分は頭を打つなどという馬鹿なことをしたのかと、瞬は悩まないわけにはいかなかった。 もっとも そんな悩みはすぐに瞬の中から消え、瞬の悩みの中心は 専ら 城戸沙織が始めたゲームの内容とゴールの場所に移動することになったのだが。 幸か不幸か、瞬は、自分が男子だということは忘れていなかった。 その事実に鑑みれば、“瞬”が別れ話をしていた恋人は、城戸沙織か、邸内に8人いるというメイドの中の誰か――ということになる。 だが、“楽しいゲーム”の対象に、あえて男性を入れることは、普通に考えれば ありえないことで、ありえないことだからこそ、沙織がそうしたことには何らかの意味があるような気がしないでもない。 沙織の価値観や性格を知らない(忘れてしまった)瞬には、彼女の意図を推し量る行為は容易なことではなかったのである。 いずれにしても、瞬が“瞬の恋人”候補の中から最初に除外したのは、このゲームを始めた城戸沙織だった。 彼女は若く美しく聡明そうで、10代の少年が恋する対象としては申し分のない少女だったが、瞬には、恋をゲームに見立てるような行為を 恋する少女がするとは思えなかったのである。 それは、恋をしていない人間だから、あるいは恋をしたことのない人間だからこそできることであるような気がした。 では、昨日から今日にかけて出会った城戸邸のメイドたちはそうではないのかと問われると、その答えも『否』なのである。 瞬が見た限りでは、彼女たちは、彼女たちの主人である城戸沙織と同種の少女・女性たちであるように思われた。 メイドといえど――むしろ、家人のプライベートに接することの多いメイドだからこそ――この邸宅に雇い入れられるには、相当の資格と素養が求められているに違いない。 彼女たちは皆、それぞれに美しかったが、同時に 彼女たちは ただ一人の例外もなく、驚くほどメイドとしての分というものを わきまえており、しかも すべてに渡って そつがなかった。 完璧な微笑や物腰は、意図して行なった学習によって身につけたものであり、自然のものではない。 この邸宅は彼女等の職場であり、彼女たちが自分を律することを忘れて、職場で恋に走るようなことは まずないだろう――と、瞬は思わないわけにはいかなかった。 男性の使用人たち――執事、庭師、邸内のセキュリティシステム管理者たちも、それはメイドたち同様、あるいは彼女たち以上で、彼等が この邸内で もし誰かに恋をすることがあったなら、それは彼等の責務以外にはないだろう――と、瞬は思った。 となると、残る候補は、瞬が目覚めた時、瞬の部屋にいた3人のみ――ということになる。 実際のところ、城戸邸で、職務とは関係なく 瞬に親しく(一個の人間として)接してくれるのは、城戸沙織を除けば その3人だけだったのだ。 この広い家で、為すべき仕事も与えられず手持ち無沙汰にしている瞬を、ラウンジに、庭に、トレーニングルームにと誘ってくれるのも、彼等だけだった。 正確には、3人の中の星矢と紫龍だけだった。 元気な小犬のような星矢は、瞬とは同い年で、瞬が第一印象で感じた通り、非常に親しみやすい少年だった。 長髪の紫龍と金髪の氷河は瞬より年上で、こちらの二人に関しても、一日二日程度の時間では、瞬の第一印象が覆ることはなかった。 紫龍は、普段は落ち着いて穏やか。 氷河は、冷たく熱い――つまり、本質を捉えにくい。 覆らない第一印象が、本当に“印象”にすぎないのか、それとも、それは失われたはずの記憶の囁きなのか。 それは瞬自身にもわからないことだったのだが、ともかく彼等は その印象を裏切らない者たちだった。 そして、彼等は、城戸沙織が言っていた通り、彼女を中心とした“家族のようなもの”であり、この家でのスタンスを、使用人たちとは異にしていた。 彼等は、この家の“ご主人様”を、家族(のようなもの)にだけ許された気安さで忌憚なく批判することもあった。 「まったく、沙織さんは何を考えてるんだか……。沙織さんの、何でも面白がる癖って、どーにかできないもんなのかな」 それは、“ご主人様”に忠誠を誓っているメイドたちならば絶対に口にしないだろう不平不満のぼやきだった。 星矢のぼやきに、紫龍が遠慮なく同意して頷く。 「瞬。おまえが誰も好きにならなかったとしても、それはそれで何の問題もないことなんだから、気楽に構えていていいんだぞ。無理に誰かを好きにならなければならない などということは考えなくていい。そういうことは、いつのまにか、自然に、なるようになるものだ。無理にどうにかするようなことではないんだからな」 星矢たちにそう言われても――むしろ、そう言ってもらえるから なおさら――瞬は自分の恋人が誰だったのかということが気になって仕方がなかったのである。 この家で、瞬に課せられた仕事がそれだけだったせいもあったかもしれない。 暇を持て余しているというわけでもなかったのだが、 「おまえは、この庭を歩くのがすごく好きだったんだぜー」 と言われ、花に囲まれた庭を散策することで潰せる時間には限界というものがあるのだ。 何より瞬は、“瞬”が好きだったという庭の散策に付き合ってくれる3人に――特に、氷河に――心苦しさを覚えていた。 星矢や紫龍は、彼等自身もそれなりに自然を愛でる心を有しているようなのだが、氷河だけは、そういうことに全く興味がなさそうで、彼はいつも花ではなく瞬を睨んでいるばかりだったのだ。 とはいえ、それは庭の散策時に限ったことではなかったので、氷河は 基本的に自分の都合やペースを他人のために乱されることが嫌いな人間なのだろうという気もしたが。 一度、星矢に、 「あの人はどうして、いつも何かに怒ってるような顔をしているの?」 と訊いてみたことがあったのだが、星矢は、記憶を失った“家族のようなもの”に、彼が嫌々ながらに付き合っているとは考えていないようだった。 星矢は、瞬の懸念を打ち消すことすらせず、逆に興味深げに瞬に問い返してきた。 「氷河が気になるのか?」 「そ……そういうわけじゃないけど、ちょっと恐いから……」 「あいつは仏頂面が癖なんだ。おまえにだけじゃないから」 「僕にだけじゃないんですか」 “仲間”なのだから 呼び捨てにしろと言われて、瞬は(瞬にとって)初対面の人たちを懸命に呼び捨てにしていたのだが、丁寧語だけは瞬自身にも どうすることもできなかった。 星矢は、瞬の丁寧語を他人行儀と感じているらしく、瞬と言葉を交わしている間に不満そうに眉をしかめることが幾度もあった。 「見てりゃ わかるだろ。あいつは誰にでもああなの」 「そう……」 星矢のその答えを聞いた時、実は瞬は少しばかり落胆したのである。 あの愛想のない態度や表情が自分にだけ向けられたものであったなら、自分は彼にとって特別な存在だったのかもしれないと思うことができていたかもしれない。 彼の無表情が自分にだけ向けられたものであったなら、彼は 恋人と別れる前に恋人を忘れるなどという失礼千万なことをしでかした恋人に腹を立てているのかもしれないと考えることもできたのだ。そうして、瞬は、ゲームの答えに辿り着くことができた――かもしれなかった。 だが、そうではないらしい。 見ていると、確かに氷河は誰にでも愛想があるとは言い難い態度で接する人間だった。 そんなふうな あれこれを、瞬が最も気安く尋ねることができる相手は星矢だった。 年齢が同じせいもあったのかもしれないが、瞬の丁寧語も、星矢と話している時に最も砕けることが多かった。 尋ねたことに最も適切な答えを返してくれるのは紫龍の方だということは わかっていたし、彼が親切な青年だということも瞬は承知していたのだが、“親しみやすさ”という星矢の持つ美徳の力は、“賢明”“円転滑脱”という才能を凌駕するものであるらしい。 してみると、人間というものは、自分が傷付いたり拒絶されたりすることを何よりも恐れる生き物であるのだろう。 そう、瞬は思った。 そして、その点で、氷と炎の壁のような感触を持つ氷河は、気楽な会話の相手として選ぶには、難がありすぎる存在。 沙織は多忙な女性らしく、ゲーム開始以後、瞬の前に姿を見せることは滅多になかった。 ――それが、瞬の“家族のようなもの”たち。 そんな彼等との城戸邸での生活が心地良いものではないということはなかったのだが、自分にクリアが義務づけられた“ゲーム”が一向に進展しないことに、日が経つにつれ、瞬は焦りを覚えるようになっていった。 沙織は、特に城戸邸の住人たちに口止めをしているようでもなかったので、瞬はいっそ邸内のメイドの誰かに、自分の恋人は誰だったのかと、訊いてみようと考えたこともあったのである。 だが、万々が一、自分が尋ねた相手が“瞬の恋人”であったなら、その質問はその人を傷付けることになるだろう。 自分の恋人だった人に『僕の恋人は誰ですか』と訊くことになる事態だけは、瞬は絶対に避けなければならなかった。 もし、その質問を発するなら、それは絶対に“瞬の恋人”ではなかった人に対して発するようにしなければならない。 『絶対に“瞬の恋人”ではなかった人』は、では誰なのかと考えると、それはやはり、他人と自分自身との間に いつも氷と炎の壁を張り巡らせている氷河をおいて他にはないだろう――と、瞬は考えた。 |