紫龍の招聘しょうへいを受けたらしい沙織が、瞬の前に再び姿を現わしたのは、翌日の昼下がり。
“互いのために、逡巡することなく命をかけられるほどの信頼で結ばれた仲間”たちを避けて、その時 瞬は、城戸邸の庭の片隅にあるベンチに腰掛け、ひとり ぼんやりと庭を眺めていたのである。
前方10メートルほどのところに薔薇だけが植えられた区画があり、そのベンチはどうやら 薔薇を鑑賞する人間のために置かれたもののようだった。

赤やピンクの薔薇たちは まだ三分咲きといったところで、蕾が少しだけ開きかけた状態のものが ほとんど。
花の赤よりも葉の緑の勝った薔薇園は 爽やかな初夏の風情をたたえている。
自分は、薔薇は、ちょうど今頃の、見頃を迎える前の様子が好きなようだと、瞬は思うともなく思っていた。

「あなたの答えが出たのではないかと、紫龍たちに言われてやってきたのだけど……。あなたの恋人は誰か、わかったの?」
僅かに花の色を見せ始めた薔薇園と瞬の間に、ふいに沙織の姿が割り込んでくる。
彼女は、自分だけ一足先に花を開かせた 濃い紅色の薔薇の花のような様子をしていた。

「……星矢や紫龍が僕の大切な仲間だったんだろうってことは わかりました」
彼女の華やかさに 少しく気圧けおされながら、瞬が小さな声で答える。
「氷河は?」
声までが薔薇の花のような沙織は、瞬が口にしなかった もう一人の“仲間”の名を、薔薇の名前を語るように瞬に投げかけてきた。

「氷河は……」
その名を聞いただけで胸が高鳴るのに、瞬を支配する思いは、悲しみといっていいような感情だった。
実際、瞬は、その名を聞かされた途端に、泣きたい気持ちになってしまったのである。
「僕の大切な人は、星矢か紫龍だったんだろうと思うんです。僕に好きな人がいたんだとしたら、彼等以外には考えられない。なのに僕は……今の僕は、氷河が好きみたいなんです……」
「氷河?」
意外に感じているのが明瞭にわかる沙織の声音に、瞬の胸は鋭い痛みを覚え、その痛みを抑えるように、瞬は その顔を伏せることになった。
「違いますよね、やっぱり……。僕が誰かの恋人だったんだとしたら、僕は不誠実な恋人だ」

自分の態度が 哀れな恋人を落胆させてしまったことに気付いたらしく、沙織が、瞬の気を引き立たせるように軽快な声と微笑を瞬に投げてくる。
「記憶を失わなくても、人の心は変わるものだし、まして、記憶を失ったら、それは別の人間に生まれ変わったようなものでしょう。星矢か紫龍があなたの恋人だったのだとしても、星矢も紫龍もあなたの心変わりを責めることはしないと思うわよ」
「でも、きっと氷河は僕を軽蔑する……。僕は、氷河の仲間を裏切った不実な恋人なんだから……」
「そんなこともないでしょ。あなたが記憶を失うことになった、そもそもの原因は氷河だったのだし」
「え……?」

自分が氷河のせいで記憶を失うことになった――とは、いったいどういうことなのか。
戸惑いながら顔をあげ、沙織を見詰めた瞬に、だが、沙織は 彼女の発言の意味を説明してはくれなかった。
何よりもまず、瞬が辿り着いた答えを確認することが大事というような目をして、瞬に念を押してくる。
「では、あなたの最終的な結論は氷河ということでいいわね」
「あ……あの……」
彼女に頷き返していいのかどうかが、瞬には わからなかったのである。
瞬が辿り着いた答えは、『僕の恋人は氷河だった』ではなく『僕の恋人は氷河ではなかっただろう』だったのだから。
頷くことも、首を横に振ることもできず、瞬は力なく 顔を伏せた。

その仕草を肯定と捉えたのか否定と捉えたのか――いずれにしても、彼女は、瞬が何らかの答えに行き着いたことだけは認めたらしく、
「じゃあ、正解を教えてあげるわ」
と、弾んだ声で宣言した。
正答を知ることを恐れる気持ちと、一刻も早く正答を知って、漠然とした不安や罪悪感から解放され、贖罪に取りかかりたい気持ち。
二つの相反する思いの間で、瞬は身体を縮こまらせることになったのである。
沙織から知らされる正解が どんなものであれ、それが嬉しい答えでないことだけは、瞬には わかっていたので。

しかし、瞬の予想は外れた。
とはいっても、沙織が告げた正答が、瞬にとって嬉しいものだったわけではない。
それは、嬉しい答えでもなければ、つらい答えでもなく―― 一言で言い表わすならば、沙織が瞬に告げた答えは“卑怯千万な答え”だった。
不安に支配され、沙織の答えに怯えさえしていた瞬に、沙織は 至極楽しそうに、
「実は、あなたは、本当は誰とも付き合っていなかったの。あなたは誰の恋人でもなかったのよね」
と言ってくれたのだ。






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