「え…… !? 」
沙織の答えに、瞬は しばし ぽかんと呆けることになった。
驚くことさえできなかった。
驚く以前に――瞬は、沙織が告げた答えの意味を理解するのに、相当の時間を要したのである。
なんとか その意味を理解してから、そんな答えがあっていいものかと、当然のことながら 瞬は憤りを覚えることになった。

沙織は、瞬を 恋人捜しの迷路に送り込む時、それを“楽しいゲーム”だと言った。
にもかかわらず、沙織は、今になって、その迷路に正しい出口はなかったと言ってくれたのだ。
つまり、瞬は、ありもしない出口を探して思い悩まされていたのだ――と。
それは、ゲームをゲームとして成り立たせない重大なルール違反である。
もちろん、瞬は、沙織の重大なルール違反を責めようとした。
だが、瞬は、沙織が続けて告げた言葉で、彼女の反則を責めるタイミングを逸することになってしまったのである。

なにしろ、沙織は、無意味な苦悩を苦悩させられていたことに憤っている瞬に、全く深刻さのない声で軽快に言い放ってくれたのだ。
「実はね。あなたの記憶喪失は、氷河に恋の告白をされて驚いたせいなのよ」
――と。
「は?」
「びっくりして、あなたは氷河の前から逃げようとして――後ずさって、あなたにしては馬鹿な転び方をしたものね。仰向けに倒れ、後頭部を庭の敷石にぶつけて、見事に気を失って、目覚めたら記憶を失っていたの。――といっても、私はそれを実際に見ていたわけではなくて、氷河の愛の告白の首尾を、2階のベランダから はらはらしながら盗み見ていた星矢たちから聞いただけなのだけど」
「あ……」

沙織に そう言われて、瞬は、星矢たちもまた、沙織が言い出したゲームのルール違反を承知していたのだという事実に思い至ったのである。
氷河も、もちろん知っていたのだろう。
だが、氷河がもし“瞬”に好意を抱いてくれていたのであれば、彼はなぜそんなゲームを黙って受け入れたのか。
それは、“瞬”に恋を告白した人間以外の者を“瞬の恋人”の選択肢に加える行為である。
彼にとって不利なゲームを 彼が甘んじて受け入れた訳が、瞬にはわからなかった。
沙織が、瞬の疑念を察したのか、瞬にその訳を教えてくれる。

「氷河は、あなたの記憶喪失を、心因性のものだと考えたの。あなたは憶えていないでしょうけど、あなたは記憶を失う以前、日常茶飯の事のように、頭をぶつけ、顔を打ちつけ、全身を強打し――言ってみれば、生きているのが不思議なくらい暴力的で荒っぽい毎日を送っていたのよ。それでも、あなたは、仲間のこと、戦いのことを忘れることはなかった。なのに、そのあなたが、弾みで倒れたくらいのことで記憶を失ってしまった。氷河は、それはきっと あなたが自分の告白を忘れてしまいたかったからに違いないと思い込んで、責任を感じて、沈んでしまっていたの。だから、私たちは、氷河に提案したわけ。すべてを忘れたあなたに、記憶を失った事情を知らせず、答えを探させてみようって」

「それでどうなると――」
「それで、あなたが誰を選んでも、それは氷河の告白のせいではないでしょう? 氷河が選ばれても選ばれなくても、それは あなたの意思だけで決められたこと。氷河には何の責任もないことになるわ。氷河は、あなたに記憶を失わせてしまった責任を取りたがっていたけど、恋に狂っている氷河は どういう責任の取り方をするか わかったものじゃなかったし、氷河には 不利なゲームに身を投じることで、その責任を取ってもらおうと思ったのよ」
「責任なんて……僕が、氷河の告白を忘れたかったなんて、そんなことは絶対に……!」

『そんなことは絶対にない』と断言しようとした瞬の声と言葉は、だが、声にも言葉にもならず、空中に霧散することになってしまった。
向きになった瞬を楽しそうに見詰める沙織の笑顔のせいで。
声や言葉にしなくても、沙織はすべてわかっていまっているようだった。

「世の中には、シャワーのお湯が熱かったショックで記憶喪失になる人もいるくらいなんだから、ちょっと頭の打ちどころが悪かっただけだと、私は何度も氷河に言ったのよ。だけど、なにしろタイミングがよすぎた――悪すぎたから、氷河は一向に説得されてくれなくて」
「俺だって、忘れたくて忘れたのなら、忘れたい奴のことだけを忘れてたはずだって、氷河には言ってやったんだぜ。でも、氷河の奴、『瞬はエガリタリアンだから』とか何とか 訳のわからないこと言って、すっかり拗ねちまってさぁ」
「おまえの記憶喪失が心因性のものだとしたら、おまえが全てを忘れたのは、むしろ、自分が男子だということを忘れたかったからなのではないかという可能性も示唆してやったんだ。だとしたら、それは、おまえが氷河を好きだからこそのことだと言ってやったんだが、恋する男というものは、どうも 楽観か悲観のどちらか極端に走るものらしくて」

“互いのために、逡巡することなく命をかけられるほどの信頼で結ばれた仲間同士”で“家族のようなもの”。
そういう間柄の者たちの間では、盗み聞きや盗み見は 罪にならないことになっているらしい。
ふいに薔薇の木の向こうから姿を現わした星矢と紫龍が、悪びれた様子も見せずに、瞬の知らなかったことを瞬に知らせてくる。
沙織には、盗み聞きはマナー違反という意識が(一応)あるらしく、彼女はそんな二人に僅かに顔をしかめてみせた。
それでも、彼女が そのマナー違反を“家族のようなもの”たちの間では許されるレベルのことと考えているのは明白で、沙織の表情は基本的に笑顔のままだったが。

「そんなふうに、氷河があんまり落胆しているものだから、氷河の告白をなかったことにして、あなたが誰に恋するのかを試してみようと、私は氷河に提案したのよ。先入観なしで、答えを急かされたなら、いちばん とっつきやすい星矢にいってしまうのじゃないかと、少し心配もしていたのだけど、どうこういっても、やっぱり氷河にいくのね。よかったわ」
「……」
では、これは、ルール違反のゲームなのではなく、そもそも最初からゲームではなかったのだ。
沙織や星矢たちは、瞬の心が氷河に向かうことを半ば確信し、期待しながら、瞬の動向を見守っていた――というのが、このゲームもどきの実際の姿だったらしい。
彼等が そんな確信と期待を抱いていられたのは、記憶を失う前の“瞬”が氷河に好意を持っていたことを、彼等がよく知っていたからなのだろう。
そして、瞬は、おそらく彼等の期待に応えることができた――彼等の期待に応えてしまった――のだ。

彼等の期待通りに辿り着いてしまった この結末を、自分は素直に喜ぶべきなのだろうかと、瞬は迷うことになったのである。
その迷いの答えに至るためのヒントを仲間たちの目の中に求めようと顔をあげた瞬は、その途端に、星矢たちが姿を現わした薔薇の木の向こう側に 氷河の影があることに気付いて、尋常でなく慌てることになった。
全身の血が 頬と心臓に集まってくるのが、瞬には わかった。

「あ……」
『氷河』というゴールに辿り着いてしまったことを、氷河に知られてしまった――。
それは、今の瞬には、冷静な気持ちで受けとめられる事態ではなかった。
今の瞬にとって、氷河は、つい数日前に知り合ったばかりの人。
しかも、つい2日ほど前までは、『絶対に彼は違う』と確信してさえいた人なのである。
そんな人に、これほど短い時間で恋に落ちてしまったことを知られてしまったのだ。
恥ずかしさと気まずさが極まって、瞬の心は、頬と心臓に全身の血を集めたまま、その場で凍りついてしまった。

瞬は、今こそ すべてを忘れたいと思ったのである。
自分が行き着いた恋と、その恋の相手、それを他でもない氷河当人に知られてしまったこと。
早く―― 一刻も早く忘れてしまいたい、忘れさせてくれと、瞬は誰にともなく願い、祈った。
だが、世の中というものは、実に皮肉なもの。
忘れたいと思った瞬間に、瞬は、逆にすべてを思い出してしまったのだ。
氷河と視線が合った瞬間に、すべてを思い出してしまったことを彼に気付かれた――と、瞬は直感した。
「あ……あ……」

『瞬。俺はおまえが好きなんだ』
『え……?』
『おまえは?』
『ぼ……僕……?』
『おまえは、俺を好きか嫌いか。それとも、そのどちらでもないのか』
『僕は――』
『おまえは――?』

すっかり忘れていた あの時のやりとりが、不思議なほどの明瞭さをもって、瞬の脳裏に蘇ってくる。
それだけではない。
瞬は、あの時、自分がなぜ氷河の前から逃げようとしたのかということまで、はっきりと思い出してしまったのだ。
「僕……僕は……」
すべてを思い出した瞬は、まず最初に、あの時と同じように、氷河の前から逃げ出すことを考えた。
もっとも、今 瞬が彼の前から逃げ出したいと思う理由は、その9割までが羞恥によって構成されていて、あの時とは“理由”の内容が違っていたのだが。

「おい、瞬、どうしたんだ?」
氷河と視線を合わせたまま、ぎこちない所作で後ずさり始めた瞬の様子を訝って、星矢が瞬に尋ねてくる。
「あ……なんでも……」
ふいに脇から響いてきた星矢のその声のせいで、瞬は自身の重心を見失った。
視界に青空が広がり、瞬の身体が仰向けに倒れそうになる。
そうしようと思えば そうすることは容易だったのに、瞬があえて自分の態勢を立て直そうとしなかったのは、いっそ このまま もう一度 地に倒れ、そうして 自分の中にある羞恥を忘れられたなら――と、心のどこかで瞬が期待してしまったせいだった。
そして、瞬の そのささやかな希望が叶えられなかったのは、電光石火の早業で、氷河が地面に倒れる直前の瞬の身体を受けとめてしまったからだった。
「瞬、大丈夫かっ !? 」

瞬は、本当は氷河の手を振り払って逃げてしまいたかったのである。
だが、瞬にはそうすることはできなかった。
間近で、どこか不安そうに揺れている氷河の瞳を見て、瞬は気付いてしまったのだ。
この数日間、本当に不安だったのは、記憶を失ってしまった自分ではなく、好きだと告げた途端、好きだと告げた相手にすべてを忘れられてしまった氷河の方だったのだということに。
逃げるのは卑怯だと、瞬は覚悟を決めたのである。
氷河を その不安の中から連れ出すためになら、自分の無意味な羞恥や気まずさなど どれほどのものかと、瞬は思った。






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