「おまえは何でもできるのか」
「僕は無力ですが、冥府の王は神ですから、大抵のことはできます。あなたが提示した条件を、世界の存続ののりに反しないと 僕が判断したら、ハーデスは 速やかにあなたの望みを叶えるでしょう」
ハーデスというのが、冥府の王の名であるらしい。
黄泉津大神よもつおおかみではないのかと、このファンタジーの世界観に、氷河は苦笑したのである。
宗教・神話ごとに冥府が幾つも存在するはずはないのだから、その2つの神の名は同じ神を指しているのかもしれなかったが。

非天使が口にしている言葉は完全に現代日本語である。
その姿も、日本人離れしてはいたが(というより、人間離れしていたが)、日本人の範疇に含むことは絶対不可能というようなものではなかった。
そんな日本人の(?)非天使を氷河の許に遣わした者の名が、どう考えても西洋文明圏に属する名であるところの『ハーデス』。
ファンタジーにしても、それは無理のありすぎる設定だった。
だから、どこかで このファンタジーを破綻させることはできないかという いたずら心で、氷河は彼に尋ねてみたのである。
「たとえば、マ……俺の母が死んだ時に時間を戻して、母と冥府の王とやらが交わした約束がなかったことにできるか」
――と。

尋ねられた非天使は、あまり迷ったふうもなく、首を横に振った。
「それは無理です。それは世界ののりに反することで、そんなことをしたら世界に矛盾が生じてしまいますから。氷河のお母様がハーデスと約束を交わさなかったら、氷河は十数年も前に死んでいて、僕がここに来る必要もなかったことになる。では、時間を過去に戻すよう僕に求め、その求めに応じた者は誰なのかということに――」

「それはそうだ」
最後まで聞かなくても、氷河にも その矛盾は理解できた。
つまり、このファンタジー世界では、時の流れを逆流させ、捩じれさせることはできない――のだ。
「時間は未来に向かってしか、進まないのです」
日本人離れした非天使が、申し訳なさそうに、だが はっきりと断言する。
それは、世界を存続させるために決して曲げられないのりである――ということらしい。
そんな規則にこだわるところを見ると、ハーデスの望みは、あくまでも醜悪な人類の粛清であって、世界そのものを消してしまうことではないようだった。

「俺を説得できないと おまえが冥府の王とやらに責められるのか」
「……そんなことは、氷河は心配しなくてもいいんです」
非天使は氷河の質問を はぐらかしてしまったが、与えられた任務を遂行できなかった者を、ハーデスとやらが褒めることはないだろう。
そう考えて、氷河は腹をくくったのだった。

「俺のせいで おまえが叱られることもないだろう。俺は今すぐ死んでやってもいいぞ。人智を超えた力を借りてまで叶えたい望みも、俺には特にない。1ヶ月も待つ必要はないし、待つことで、俺が得られるものは苦痛だけだろう」
「そんなわけにはいきません。何か氷河の望みを叶えて、氷河の命は、あくまで その代償として……」
「ファウスト博士のように、『時よ、止まれ、おまえは美しい』と俺に言わせなければ、おまえは俺の命を奪えないというわけか。おまえはメフィストフェレスか」
「いいえ。瞬といいます」
「瞬」

その段になって、やっと非天使が自身の名を名乗る。
ここまでくるのに、随分長い前振りだったと、氷河は内心で苦笑した。
そして、そんなことに苦笑していられる自分は、強がりなどではなく本当に 死を恐れていない――生に執着していないのだという事実を強く自覚することになった。
氷河の中では、今は、生への執着より、むしろ瞬への興味の方が勝っていた。
1ヶ月後に死んでもらいたいと、生きている人間に 平気で(?)依頼することのできる者。
死ぬ決意をしてくれたら その代償を与えようと 平気で(?)言ってしまえる者は、いったいどういう価値観と思考回路と感情を持っているのか。
氷河は、それを知りたかった――興味があった。

「俺はすべてを持っている。欲しいものはない」
「すべてを持っている人間なんていません」
「そうなのか」
「そうです」
「俺は食うに困ることはない。住む家もある。社会的にもそれなりに成功している。今の俺の収入は、大企業に就職した普通の院卒新入社員の20倍だ。係累もコネもない孤児にしては、上出来の部類だろう。美貌でもあるらしい。大抵の人間は俺を羨む。他に、俺に何が足りない?」
「他に何が……って、たとえば、温かい家庭とか、優しく美しい恋人とか、信頼できる友人とか――」
瞬は、そんなことを尋ねられるなどということは考えてもいなかったらしい。
いわく言い難い表情と声で、彼は彼なりの答えを示してきた。

そして、氷河は、瞬のその答えに、苦笑を内心に隠しておくことができなかったのである。
瞬の答えを、氷河は、今度は表情に出して笑った。
「死の国の者は、そういうものが人間に必要だと考えるのか。なかなか古典的な価値観だな」
「古典的なのではなく、恒久的で普遍的なのです。人間が幸福になるためには、愛する人が必要です」
「だが、俺が今、アタタカイ家庭だのヤサシク ウツクシイ恋人だのを手に入れても、それは1ヶ月後には消えてしまうんだろう?」
「はい……」

氷河の指摘を受けて、瞬が項垂れる。
瞬は、項垂れないわけにはいかなかったのだろう。
瞬は、氷河に、恒久的にして普遍的な幸福を、たった1ヶ月の間しか与えられないのだから。
「人間は、そういう古典的――いや、恒久的で普遍的な幸福を手に入れなくても生きていける。幸福であることは、人間が生きることの必要条件ではないし、それは 生きることの目的にもなり得ない」
だから自分に欠けているものはない――という氷河の主張に、瞬は必死に反論してきた。
「で……でも、氷河のお母様は、氷河に幸せを知ってほしいと考えたから、自分の命を断ち切ることまでして、氷河が生きることを望んだんです!」
「……おまえは、俺のマ――俺の母を知っているのか」
まるで見てきたことを語るような瞬の口調に、氷河は、まさかと思いつつ尋ねたのである。
瞬は、至極 当然というように、あっさりと頷いた。

「氷河のお母様はハーデスにとても気に入られているんです。ハーデスは、美しいものが大好きだから。ハーデスは美しい魂をこよなく愛している。氷河のお母様は強くて、意思的で、愛に満ちていて、とても綺麗です。美しい光そのもの。僕も大好きです」
「……」
母は自分にとってだけ特別な人なのだと思っていただけに、瞬のその言葉は、氷河には非常に意外に思われるものだった。
瞬が母を好いてくれているのなら、それはとても喜ばしく嬉しいことだとは思ったが、それでもそれが意外な事実であることに変わりはない。

「死の国には、これまでに死んだ人間がみな行くんだろう? その数は億単位で数えられるものではないはずだ。聖母でも何でもない たった一人の女に、おまえや冥府の王が心を留めるようなことがあるのか?」
「ハーデスは美しいものに敏感なのです。詩聖ダンテに天界を案内したベアトリーチェも、生きている時は、聖母でも何でもない たった一人の女性でした。あれは創作ですけれど――死んで冥界にきた人間が面食らうことのないように、ハーデスは冥界を 人間が抱くイメージに似せ、装わせています」
「冥界は、その真の姿を人間に見せないのか」
「冥界は――冥界の本当の姿は退屈なものですから」
事もなげにそう言ってから、そんなことはどうでもいいことだと言うように、瞬は氷河に強い口調で訴えてきた。

「僕が氷河の命を返上させるための使いに立つことになった時、氷河のお母様は僕を責めることもせず、僕に言いました。『私は、氷河が長生きをすることを望んだのではなく、氷河が幸福になることを望んで、自分の命をハーデスに差し出したのよ』って。その母の心を酌んで、務めを果たしてくれ――って。だから、僕はどうしても氷河を幸せにしなければならないんです……!」
「1ヶ月だけ?」
氷河は決して 瞬を責めることを意図して そう尋ねたのではなかった。
皮肉や嫌味を言うためでもない。
だが、瞬は、言い逃れのできない罪を犯した罪人のように、氷河の前で項垂れた。
「1ヶ月だけです……。も……もちろん、他のすべての人間が死に絶えても、氷河ひとりだけ生き延びることはできるのですが――何十年も孤独でいるのはつらいし、結局死を望むことになるのではないかと……」

「おまえ、1ヶ月間、俺の側にいろ」
瞬の声を遮って、氷河がそう言ったのは、瞬の言う恒久的普遍的幸福の実現に、自分以外の人間が必要だというのなら、それが瞬であってもいいだろうと思ったからだった。
むしろ、その人間になり得る者は、“1ヶ月”という期限を知っている瞬しかいないだろうと、氷河は思った。

「そんなことを望む必要はありません!」
思いがけず険しい口調で、瞬が氷河の望みを否定してくる。
その声には苛立ちが混じっているようで、氷河は、瞬のその反応に少なからず驚くことになったのである。
「瞬……?」
「氷河が嫌でも、氷河の望みを叶えるまで、僕は氷河と一緒にいますから……」
瞬は自身の険しい声音で我にかえったように、その声を小さく力のないものに変えた。

それで、氷河はわかったのである。
そんなふうに強く否定する必要のないことを、まるで向きになったように、瞬が否定する訳が。
瞬は、“どんな願いも叶えてもらえる権利を持った唯一人の人間”に、そんなことを望んでほしくないのだ。
瞬は、氷河に、他のことを望んでほしいと思っている。
その望みは、おそらく、『地上に生きる人間たちを滅ぼさないこと』。
氷河は、そう察した。

しかし、氷河は、瞬の望みを叶えてやる気にはなれなかったのである。
氷河は、ハーデス同様、自分を含めた人間を醜悪で価値のないものと思っていた。
そこが、慕い続け求め続けた母のいる場所、そして、妙に綺麗な非天使と一緒にいられる場所だというのなら、死者の国に赴くのも悪くはないと、彼は考え始めていたのである。
むしろ、死者の国の住人になることこそが、今の氷河の唯一の望みだった。
その願いを叶えるために 何らかの条件が必要だというのなら、適当に手軽な条件を提示して、さっさとハーデスとの新しい契約を成立させてしまった方が面倒がなくていい。
そう考えて、氷河は、その思いつきを瞬に告げてみたのだった。

「たとえば、おまえを人間にしてもらうというのはどうだ? それで、1ヶ月だけ、俺と束の間の友だちごっこをして過ごすというのは。それなら、おまえの好みにも合うだろう」
温かい家庭や優しく美しい恋人ではないが、信頼できる友人を。
それなら、人間の幸福には“人間”が不可欠という瞬の主張に合致する条件であり、瞬も納得するだろう。
そういう考えで氷河が提示した条件は、だが、またしても あっさり却下されてしまったのだった。

「そんな願いを願わなくても――僕、本当はただの人間なんです。兄がハーデスに命を奪われそうになったことがあって、その時、兄の命を永らえる代わりに、僕が生きながら冥界でハーデスのしもべになるという約束をしたんです」
「……」
では、瞬は、氷河の母と同じことをした“人間”だということになる。
瞬は 兄の命を永らえるために、氷河の母は 我が子の命を永らえるために、自身を犠牲にした。
そして、ハーデスは、世界ののりを曲げて、二人の願いを聞き入れたのだ。

冥府の王のやり様を聞いて、氷河は、冥府の王という男(?)は随分 自分勝手な神だと、思い切り呆れることになったのである。
「そのハーデスとやらは、どうやら 綺麗なものの偏執狂的なコレクターらしいが……。コレクターは おまえを手に入れることで自分のコレクションが充実し 大いに満足したんだろうが、おまえを失った おまえの兄が幸福でいるとは、俺には思えない」
「氷河……」

弟を犠牲にして命を永らえた兄は、決して幸福な人間ではいられないだろう。
氷河がほとんど確信して そう言ったのは、つまり、母を犠牲にして命を永らえた自分を、彼自身が幸福な存在だと思うことができていないからだった。
瞬や 氷河の母のしたことは、弟や母の不在を、自分を愛してくれた者が欠如した人生を、兄や息子に強いることである。
そんな命と人生が、どうして幸福なものであり得るだろう――というのが氷河の考え――むしろ、実感――だったのだ。

だが、愛する者のために我が身を犠牲にした者たちには、愛する者のために我が身を犠牲にした者たちの理屈があるらしい。
瞬は、強い口調ではなかったが、ためらいのない口調で、氷河に反論してきた。
「生きていれば、人間には幸福になる可能性があります」
その可能性を信じて、自分は――そして、氷河の母も――、ハーデスに交換条件を持ち出したのだと、瞬が氷河に訴える。
氷河は、そんな瞬に、犠牲によって生き永らえることを強いられた者の立場で問い質した。
少々 皮肉のこもった声で。

「可能性だけか?」
「そうです。可能性だけ――希望だけ。でも、それは、人が幸福になるのに必要な条件のすべてだと言っても間違いではないと思います。希望を持てることが人間のいちばんの幸福です」
「希望がすべてだと?」
では、幸福は実現しなくてもいいのかと、言外に問う。
氷河の問いかけに、瞬はゆっくりと、そして力強く頷いた。

「希望は、神にも与えられないもの、神にも作れないものです。神は、人間を絶望に追い込むことはできるけど、人間の希望に干渉することはできない。希望は、人間が自分で作るしかないもので、でも、人間は、神にも作れない希望を いとも簡単に作ってしまう。僕は、それは本当に素晴らしいことだと思うんです。人間って、なんて強く たくましいのだろうって、心から思う。人間が その力を有している限り、人間をすべて滅ぼしてしまおうとする神の考えは間違っている、と」
瞬の穏やかな声音には、だが、隠しようのない熱が混じっていた。
氷河は、瞬の熱弁に少しばかり――否、かなり――驚いたのである。
それが、ハーデスのしもべを称する者にふさわしくない意見だからというのではなく、兄のために自分の人生を諦めてしまった者が、人間の力を信じ、その存続を諦めていないということに。

半ば以上が驚きでできている氷河の眼差しに出会って、瞬は、ハーデスの使いである自分が言うべきではないことを言ってしまったことに気付いたらしい。
はっと我にかえったような表情を浮かべ、それから、瞬は 気まずげな様子で その瞼を伏せてしまった。
「だ……だから、氷河は そんなことは願わず、氷河自身が心から こうなってほしいと望むことを望んでください」
『人間を滅ぼさないでくれ』と願ってくれと、言葉にはせず、瞬は氷河に訴えていた。
ハーデスが人類の粛清を決意してしまった今、人類を救える力を持つ者は、ハーデスに自分の願いを叶えさせる権利を持つ ただ一人の人間しかいないのだと、言葉にはせず、瞬は氷河にすがっていた。

「……」
瞬は、人間が幸福になるためには“愛する人”が必要だと言っていた。
その“愛する人”がいないから、氷河は、人類が――自分を含めたすべての人間が――どうなってもいいと思っていた。
『どうなってもいい』というのは、滅んでも滅びなくても構わないということである。
滅んでも滅びなくても、どちらでもいいということ。
瞬がそこまで人類の存続を望むのなら、瞬のために、瞬が望む望みをハーデスに要求してやってもいいと、氷河は思ったのである。
そして、そんなことを考えている自分を、実に奇妙だと氷河は感じていた。

「考える時間をくれ」
どうでもいいことのはずなのに、氷河が その場で瞬の望みを叶えることをせず――拒むこともせず――瞬にそう言ったのは、奇妙な自分の心を考察し整理する時間が欲しいと思ったからだった。
瞬が、少しく落胆したような様子で、氷河に僅かに頷く。

「それは構いませんが、時間はあまりありません」
「そう焦ることもないだろう。わざわざ望まなくても、友だちごっこはできるようだしな。それに――特に これという望みが思いつかなくても、俺は自分の生にも死にも後悔や未練を覚えることはないだろう」
自分が“心から望む望み”に辿り着けないまま期限の1ヶ月が過ぎてしまっても構わないと告げた氷河に、瞬はひどく悲しげな目を向けてきた。

「未練がないということは不幸なことです」
「そうか?」
「そうです。幸福だということは、悲しみや苦しみがないということとは違う。苦しくても悲しくても幸福な人はいます」
「それが、希望を持っている人間というわけか?」
「僕はそう思っています」
「おまえはどうなんだ? おまえは――おまえも簡単に希望を抱くことのできる人間の一人なんだろう?」

氷河が瞬にそう尋ねたことには、特に他意はなかった。
氷河のその問いかけを どう受け取ったのかは 氷河にはわからなかったが、瞬は氷河に問われたことに答えるのに、短いためらいを見せた。
そして、まるで独り言を呟くような声で、
「……僕にも希望はあります……」
と答え、その希望を叶える力を持った男を 切なげに見詰めてくる。
ハーデスの使者という立場上、その希望を、瞬は氷河に告げることはできないのだろう。
瞬はなぜ そこまで人間というものに希望を持てるのか、氷河はそれが不思議でならなかった。






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