「わあ、明るい!」
実際のところ、氷河は、人に自慢できるほど重症の引きこもりというわけではなかった。
目的がなければ外出する気になれないだけで、日に一度は屋外に出ていた。
だが、氷河は、瞬のその歓声を聞くまで、全く気付いていなかったのである。
外の世界には陽光があふれていることにも、季節がいつのまにか晩春から初夏に移っていたことにも、街路樹の緑が深みを増し、夏の濃い色の花が そこここで咲き始めていたことにも。

かろうじて都内と言える場所にある高級住宅街。
そこに高層マンションが建つことに 昔からの住人たちは大反対で、当初は50階建てになるはずだったマンションは建築計画の規模縮小を余儀なくされ、長い話し合いの結果、30階建てに落ち着いたのだ――と、氷河は聞いていた。
そういう地域だったので、マンションを出ると、周辺にあるのは 手入れの行き届いた広い庭を抱える古い邸宅ばかり。
へたな緑化公園の中を歩くより、散策人は多くの木々や花々を観賞することができた。

確たる目的がなければ外に出ることをしない氷河は、外に出ても目的物以外のものを意識して視界に入れることがなく、生きている人間の住む世界が どういう様相を呈しているのかということを、これまでほとんど気にとめたことがなかった。
さしたる目的もなく外を歩きまわる“お散歩”という行為に どんな益があるのかを理解できないまま瞬と“お散歩”に出た氷河は、一見 無益に思える“お散歩”なる行為にも、実はそれなりの目的と益があるのかもしれないと、生まれて初めて思うことになったのである。

その目的とは、おそらく『世界を見ること』――少なくとも、瞬のお散歩の目的はそれだったらしい。
初夏の陽光の中で、瞬はひどく嬉しそうだった。
初めて走ることを覚えた子犬のように、その足取りが弾んでいる。
「冥界は、装った状態でも、装っていない状態でも、光がないんです。完全な闇というわけではないんですけど、捉えどころのない薄闇があるだけで……。あんなところにいたら、生きている人間だって、自分が本当に生きているのかどうか疑いたくなってしまいます」
では、瞬は今、人の世界の光の中で自分の生を実感している――ということなのだろう。
瞬の声、表情、足取りが弾んでいるのは無理からぬことなのかもしれないと、氷河は思ったのである。
瞬自身の申告によれば、瞬は“生きている普通の人間”なのだから。

「光の中にいる方が似合うのに」
「え……?」
瞬は、氷河の呟きの意味が すぐには理解できなかったようだった。
というより、誰が“光の中にいる方が似合う”のかがわからなかったらしい。
それが自分のことだと理解すると、瞬は、一度 大きく瞳を見開き、そして 頬を 僅かに上気させた。
もっとも瞬は、自分が冥界の住人だという事実を忘れきることはできなかったらしく、すぐに寂しげに その瞼を伏せてしまったのだが。

瞬のその様子を見て、氷河は、『可憐』という言葉は『憐れむべき』と書くのだと、思うともなく思ったのである。
そして、そう思っているのが自分だけでないことに、まもなく彼は気付いた。
本来は閑静な住宅街で あまり人通りはないのだが、駅周辺の再開発が盛んなせいか、最近は付近の上品な住人だけが使う道ではなくなってきている遊歩道。
そこですれ違う者たちが――特に若い男たちが――やたらと自分たちの方に視線を飛ばしてきていることに、氷河は気付いたのである。

その視線は、最初は氷河に向けられるが、すぐに瞬の上に移動していく。
目を逸らそうとして逸らせずにいる彼等の心境が、あまりに明白に窺えて、氷河は少々複雑な気持ちになってしまったのだった。
彼等は、どう考えても、瞬を可憐な・・・美少女と見間違えている。
中には、足を止めて氷河の連れを凝視する者もいて、それは、他人と目を合わせることを無作法と考える日本人としては、異例かつ異様かつ珍奇な現象だった。
瞬の容姿を考えれば、同じ男として、彼等の反応も無理からぬことと思うことはできたのだが、氷河は、だからといって、瞬が他の男たちの注目を集めることを諸手をあげて歓迎する気にもなれなかったのである。

「おまえ、俺以外の人間の目にも ちゃんと見えているんだな。俺にだけ見える幽霊ではなかったんだ」
そんな男たちを見ていても苛立ちが募るだけだと思い直し、氷河自身も その視線を瞬の上に移動させる。
氷河が今更なことほぼやくと、瞬は、自分の言を信じてもらえていなかったのかと言いたげな口調で、
「最初にそう言ったでしょう。僕は普通の人間だって。ハーデスの力のせいで、眠らなくても食事をとらなくても平気ですけど、僕は眠ることも ものを食べることもできます」
と言ってきた。
「そうか」
どうやら自分は瞬の機嫌を損ねてしまったらしい――。
そう思ってから、氷河は、他人の機嫌などいうものを気にしている自分に驚いてしまったのだった。

何はともあれ、瞬は、これから1ヶ月の間、生活を共にする相手である。
そして、機嫌の悪い人間といるよりは 機嫌のいい人間といる方が、時間は快いものになるだろう。
氷河は、瞬の機嫌を上方修正するために、近所の有閑マダムご用達のオープンテラスのあるカフェに入ることを瞬に提案してみたのである。
瞬は、光があふれている世界で “普通の人間”がするようなことができるのが嬉しいらしく、氷河の提案に元気に頷いてきた。
テーブルに着き、何を頼んでもいいと言われた瞬が、少しばかりの遠慮を見せながらメニューの中から選んだものは、いかにも子供が喜びそうな姿をしたストロベリーパフェ。

クリームの白色とイチゴの赤色で構成された その食べ物を前にして、小さな子供のように瞳をきらきら輝かせる瞬を見て、いったい今の瞬は何歳で、何歳の時に冥界の住人にさせられたのかと、氷河は訝ることになったのだった。
とはいえ、パフェの前で、本当に この素晴らしい食べ物を自分が食べていいのかと ためらう素振りを見せるところを見ると、瞬は 7、8歳の子供よりは遠慮や礼儀作法を心得ているように思われる。
瞬の態度は、一言で言うと、躾の行き届きすぎた子供のそれだった。

「あの……僕、ほんとに これ食べてもいいの?」
「どうぞ」
氷河の許しを得ても、まだ ためらいを感じているようだった瞬は、だが、あくまでも遠慮がちにクリームを一口食べた途端、遠慮を忘れてしまったようだった。
「甘い! おいしい! 冷たい! 素敵!」
氷河を世界の王にすることもできると壮語した瞬の唇が、全人類を支配できる権力などには このパフェほどの価値もないと言わんばかりの勢いで、パフェへの素朴な賞讃の声をあげる。
瞬の その歓声によって、氷河は、貴重な情報を一つ、手に入れることができたのだった。
『どうやら、冥界にカフェはないらしい』という、貴重な情報を。

「そんなに気に入ったのなら、明日から毎日 お散歩・・・に出て、ここのメニューを完全制覇するか?」
「い……いいのっ !? 」
あまりに嬉しそうな瞬を からかうつもりで告げた冗談に、瞬が真剣な目をして確認を入れてくる。
まさか本気にするとはと驚きつつ、それでも、氷河は瞬に頷いてやったのである。
氷河の首肯に、瞬の瞳は 更に輝きを増すことになった。

こんなことで これほど喜ぶことができるのなら、『人間は簡単に希望を抱くことができる存在である』という瞬の考えは至極自然なことだと、氷河は思ったのである。
自己申告によれば“普通の人間”であるところの瞬自身がそう・・ なのだ。
そして、“普通の人間”は、自分の価値観や感性を世界の標準と信じているものだろう。
当然、瞬は、“普通の人間”は、“普通の人間”である自分と同じように 簡単に希望を抱くことができると信じることになる。

そうでない人間は――たとえば、瞬が最期の願いを叶えようとしている男のような人間は――瞬にとって“普通の人間”ではないのだ。
普通の人間でありたいと望んだことはなかったが、瞬にとって自分は“普通の人間”ではない――瞬と同じ“普通の人間”ではない(のかもしれない)――と思わざるを得ないことは、氷河の心を あまり楽しませるものではなかった。

ともかく、瞬は、ストロベリーパフェとふんだんな陽光で、希望と幸福を手に入れたようだった。
そして、瞬の笑顔を見ていることは、氷河にとっても快いことだった――自身の心は楽しんでいないという事実を忘れてしまうほど 快いことだった。
いわゆるピークエンドの法則で、氷河は気分よく その日の“お散歩”を終えたのである。
そうして、その日から、カフェに寄り道する“お散歩”は二人の日課になったのだった。






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