瞬は、ハーデスの力によって 眠らなくても食事をとらなくても平気だと言ったが、氷河は、瞬に、できるだけ生きている人間と同じように振舞うことを要求した。 「食事をとらない者の前で自分だけが食事をとったり、眠らない者のいる家の中で自分だけが眠りを貪ったりするのは気まずいし、不愉快だ」 と氷河が言うと、瞬は、普通の生きている人間と同じように振舞っていいのかと、逆に氷河に尋ねてきた。 瞬は、食べることや眠ることが嫌いなわけではなく、食事や眠る場所のことで氷河を煩わせたくないと遠慮していただけだったらしい。 普通にしていろと、氷河が重ねて言うと、瞬は嬉しそうに頷いてきた。 氷河の部屋の掃除は瞬がするようになり、配達されてくる食事を二人で食べるのも味気ないので、氷河は外食の機会を増やすことになった。 引きこもりで厭世主義の男を世界の王にすることはできるらしい瞬も、決して万能な人間というわけではなく、料理はできなかったのだ。 あちこちのレストランに連れていかれるたび、 「やっぱり料理くらいはできるようになった方が経済的な気がする……」 と普通の人間のようなことを繰り返し呟いていた瞬は、まもなく、どこからか『基本の家庭料理・超簡単レシピ』なる本を手に入れてきて、慣れない手つきで本当に目玉焼きを焼き始めた。 そして、翌日には、朝の食卓にトースト、サラダ、スープ、ベーコンエッグを並べて、氷河を驚かせてくれたのである。 氷河が驚いたのは、食卓に並んだサラダやスープではなく、瞬の前向きさだった。 あと1ヶ月を待たないうちに人類は滅びてしまう(かもしれない)というのに、新しい事を学習し、実際に習得してしまう瞬のポジティブな姿勢にこそ、氷河は驚きを禁じ得なかったのである。 「そんな本、どこから手に入れてきたんだ」 褒めてやっていいことだと思うのに、どうしても素直に褒められない。 代わりに、それこそ“どうでもいいこと”を尋ねた氷河に、瞬は非常に不愉快な答えを返してきた。 「『こんなものが欲しい』って言えば、ハーデスがくれるんです。本だけじゃなく、たとえば服とかもハーデスがくれるの」 「……仮にも神を名乗る者が家庭料理のレシピ本とはな」 冥府の王の行き届いたフォローに、氷河は思い切り呆れてしまったのである。 そして、行き届きすぎたハーデスのフォロー体制、その周到さに、氷河はなぜか苛立ちを覚えた。 人類の粛清を考え、氷河を世界の王にすることもできると豪語する神なのである。 そんなことはできて当然なのだろうが、氷河はそれが気に入らなかった。 その日のうちに、氷河が、ほぼ2ヶ月振りに駐車場から車を出して、瞬を都心のファッションビルに連れていったのは、ハーデスへの対抗心のせいだったかもしれない。 瞬に、最低でも20アイテム以上の衣類の購入を命じたのも、瞬に遠慮させないためというより、おそらくは、ハーデスに負けたくないという意地のせいだった。 そんな氷河の気持ちも知らず――知らなくて当然なのだが――いかにも尻込みしたように瞬が選ぶ洋服はどれもこれもが、至って質素で飾り気のないベーシックなものばかりで、氷河のパトロン意識を一向に満たしてくれなかったのだが。 「おまえはどうして そんな素っ気なくて詰まらないものばかり選ぶんだ。せっかく そんなに可愛い顔をしているんだ。もっと愛想のある服を選んだらどうだ!」 瞬のチョイスの詰まらなさに 派手に文句を言いながら、氷河はその場にいたハウスマヌカンに同意を求めさえしたのである。 引きこもりで面倒くさがりで、人類の未来も世界の行く末もどうでもいいと思っていた自分は いったいどこに行ってしまったのかと、氷河が我にかえることになったのは、大量に買い込んだ瞬の服を車の後部座席に積み込み終わった時。 我にかえっても、氷河にできることは何もなかったのではあるが。 ともあれ、そんなこんなで、氷河の生活ペースは これまでとは全く変わってしまった。 しかし、瞬と過ごす時間が楽しいのは事実で、その時間を楽しいと感じる自分の心を止めることは、氷河自身にもできなかったのである。 洋服選びはともかく、確たる目的もなく続ける“お散歩”、カフェへの寄り道、光の中で楽しそうに はしゃぐ瞬を見詰めていること――そんな無益なことを 自分はなぜ面倒と感じないのか。 それが、氷河は不思議でならなかった。 氷河がパソコンに向かっている時には 借りてきた猫のように大人しい瞬を見て、瞬が勘に障らない、分をわきまえている子だからなのだと考えて、自身の心を納得させるのが、氷河にできる唯一のことだった。 |