それでなくても、人はいつかは その生を終えるのに、今は その終焉の時が確実に見えている。
懸命に生を生きることも、死を思い煩うことも無意味だというのに、氷河は、瞬と共に経験する ごく普通の生活が楽しかった。
自分は生きているのだと実感できることが、氷河は楽しく感じられてならなかったのである。
この楽しい時が終わることを“死”というのなら、人間が死を恐れるのは至極自然なことだと、氷河は思った。
そしてまた、『人が幸福になるには愛する人が必要である』という瞬の主張は事実なのかもしれないと、氷河は考えを改めかけていた。

そんな ある夜――氷河が瞬と共に普通の人間の生活を始めてから、ちょうど15日目の夜。
深夜といっていい時刻、氷河は、弱った小猫が鳴いているような声で目を覚ますことになったのである。
普通の人間のように眠れと言って、氷河は、瞬にリビングルームにあるソファベッドを使わせていた。
声は、そのリビングルームの内側から聞こえてくる。
小さな灯りが一つだけついている部屋に入っていった氷河は、そこで、そのベッドにうつ伏せになって すすり泣いている瞬の姿を見ることになったのだった。

「どうしたんだ……!」
氷河は、慌てて瞬の枕元に駆け寄った。
彼には、瞬の涙の訳がわからなかったのである。
今日も、氷河は 瞬のおかげで楽しい一日を過ごすことができていた。
夏の熱を含み始めた風、強さと暑さを増していく陽光、カフェで瞬が食したのはチョコバナナパフェ、いつもより遠くまで足を延ばして行ってみた公園では、散歩にやってきていた犬たちの元気な姿を見て、瞬は楽しそうに笑っていた。
悲しいことなど、二人の上には 今日も何ひとつ起こらなかったのである。
瞬が涙で肩を震わせなければならないような出来事は何もなかったはずだった。

「氷河……」
眠ることはできるが眠らずにいることもできる瞬に 夢を見ることが可能なのかどうかを、氷河は知らなかった。
が、リビングルームに入ってきた氷河の声と姿に気付くと、瞬は、まるで悲しい夢から醒めたばかりの人間のそれのような目で、氷河の顔を見上げ、見詰めてきた。
眉根を切なげに寄せた瞬の瞳から、また新しい涙の粒があふれ落ちてくる。

「氷河が……何もない、誰もいない世界に一人ぽっちで立ってるの。なのに、僕は側にいけないの。僕は氷河に死んでほしくない。でも、たった一人では氷河は生きていても幸せになれないと思う。僕、どうしたらいいのか わからない……僕は、氷河のために何もできない……!」
瞬が語るそれは、瞬の見た悪夢なのか、それとも瞬の想像力が作った状況なのか――。
いずれにしても、毎日“お散歩”に出て パフェを食べて笑っていた瞬は、決して 自分の務めを忘れてはいなかったらしい。
氷河は毎日が楽しくて、瞬がこの家に転がり込んできた事情さえ、すっかり忘れ果てていたというのに。

「おまえに何もできないなんてことはないだろう。その涙は俺のためのものなんだろうし、俺は――俺のために泣いてくれる人間など、この世にはいないのだと思っていた」
「そんなの、氷河のために何かしたことにはならない」
「それが俺のためになっているか、そうでないのかを判断するのは、おまえではなく、この俺だ。勝手に決めるな」
言葉も声の調子も、到底 優しいものではなかったのだが、それが瞬の無力を否定し、瞬の思いを受け入れているものであることは、その意味は、瞬もわかってくれたようだった。
氷河は、瞬の頬と瞼に残っている雫を指で取り除き、彼のささやかな望みを瞬に告げた。

「本当は――俺のためなら、泣いたりせずに笑っていてほしいが」
そう言われた瞬が、氷河のために、懸命に笑おうとする。
自分が、そんな瞬を好きになってしまっていることを、氷河は既に自覚していた。






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