眠らなくても平気だが眠ることもできる瞬が、それから朝までの時間に、一瞬でも眠りに落ちたのかどうかを、氷河は知らなかった。
おそらく瞬は眠らなかったのだろうと 氷河が思ったのは、氷河自身が、昨夜、瞬の涙に出合ってから一睡もしていなかったからだった。
二人は目覚めていたのに、一言も言葉を交わさなかった。

ずっと目覚めていたのに、いつから瞬の頬が氷河の胸に預けられ、氷河の手が瞬の肩を抱きしめていたのかも、氷河は憶えていなかった。
おそらく、瞬もそうだろう。
二人が沈黙を守っていたのは、そんなふうに二人が寄り添い合っているため。
寄り添う必要はないのに 寄り添い合っていることを意識しないため、だったのかもしれない。
そして、朝の光が室内に射し込み始めたのを認めるや、氷河が、
「俺はおまえが好きになったようだ」
と 瞬に告げたのは、二人には あまり時間がないことを、彼が知っていたからだった。
朝までの数時間、無言で寄り添い合っている間に、瞬に向かう自分の心が もはや動かし難く 変え難いものであることを、氷河が確信するに至っていたからでもあった。

「俺は、おまえに触れたい。おまえを俺のものにしたい」
言葉とは逆に、瞬の肩にまわしていた腕を外し、二人の間に距離を置く。
次にこの距離が消えることがあるとしたら、それは瞬の意思によって消えるものでなければならないと、氷河は思っていた。
身体の向きを変えて、瞬が、氷河の顔を正面から覗き込んでくる。
その瞳は、氷河の告白を喜んでいる者のそれではなく、むしろ迷いだけが揺れている瞳だった。

「そ……それが氷河の望み?」
「その通りだが……俺は、俺の望みをハーデスに叶えてもらおうとは思わない。これは、おまえが決めることだ。それとも、おまえは、ハーデスに禁じられているのか。恋をしてはならないと」
「い……いいえ」
「では、ハーデス抜きで、おまえの答えを」

昨夜の涙のあとが完全に消えきっていない瞬に答えを求める自分を、氷河は特に性急だとは思わなかった。
瞬の心は決まっているはずだった。
そのために――自らの心を確かめるために、二人は今朝まで無言で寄り添い合っていたのだから。

自分も瞬も――己れの心を見詰めるための時間が足りなかったと、氷河は思っていなかったのだが――瞬は泣きそうな目で氷河を見詰め、更に しばらくの沈黙を氷河に強いた。
そうしてから、小さな声でゆっくりと話し始める。
「僕は――僕は、氷河が好きなんだと思うの。僕は、氷河のお母さんがどんなに氷河のことを愛してるか知ってる。ごく普通の一人の女性を ハーデスが目に留めるくらい美しくするほど深い愛を、僕はこの目で見てきた。この人にこんなに愛されている氷河って、どんな人なんだろうって、ずっと思ってた。僕は、氷河にずっと憧れてた――」

「会ってがっかりしたか」
母親にそれほど愛されている息子は、誰よりも幸福で、誰よりも希望に輝いているのだろう――。
瞬は、おそらく そう思って――そう信じていたに違いない。
ところが、実際に瞬が出会った男は、全く幸福ではなく、希望のかけらさえ持っていない男だった。
自分は瞬を深く失望させたのだろうと、氷河は、今になって、そんな自分を悔やんだ。
それは、今更 悔やんでもどうにもならないことだということは、わかっていたのだが。
瞬が、そんな氷河に首を横に振ってみせる。

「がっかりしたりはしなかった。氷河に会って、僕は自分の考え違いに気付いたんだ。氷河のお母さんの希望が氷河だったように、氷河の希望も氷河のお母さんだったんでしょう? その希望を失ってしまった氷河が幸福に輝いていたら、それはおかしなことで……氷河が満ち足りていないのは、それくらい深く氷河が氷河のお母さんを愛していたからで――僕はとても悲しい気持ちになった」
「そうか」

「僕は、氷河を好きなんだと思う。氷河が幸福でも幸福でなくても、この気持ちは変わらない。氷河が僕のことを嫌っていたり無関心だったりしたら、僕は堂々とここで氷河を好きだって言うことができるの。でも、氷河も僕のことを好きでいてくれるのだとしたら、僕は氷河を好きだって言えない――言っちゃいけないと思う。僕は、きっと、氷河を好きだって言うだけでは終わらせられない。僕はきっと氷河に甘えてしまう。僕は、望んじゃいけないことを、氷河に望んでしまう。自分の望みを叶えるために、氷河の心を利用してしまう。だから、僕は氷河にそんなこと言えな――」
「瞬」

その言葉を言えないという瞬の理屈は、氷河にもわからないではなかった。
ハーデスに望みを叶えさせる権利を持った男に『好きだ』と告げた唇で、『ハーデスに人類の粛清をやめてほしいと願ってくれ』と ねだってしまいそうな自分を、瞬は恐れているのだろう。
人の好意を利用するような狡猾はしたくないし、すべきではないと、瞬は思っているのだ。
他の人間なら ともかく、氷河にだけはどうあっても 好きだと言うことはできないと。

だが、氷河には、そんなことは、正しく“どうでもいいこと”だった。
だから、氷河は、瞬の言い訳を遮ったのである。
今 氷河が知りたいことは、瞬が狡猾な恋人になれるかどうかということではなかった。
というより、そんな言い訳を始める時点で、瞬は狡猾な恋人になることはできないという事実が、氷河にはわかっていたのだ。

「瞬。俺たちには時間がない。余計なことを考えず、俺を好きか嫌いかだけを答えろ」
「ぼ……僕が氷河を嫌いだなんて、そんなことがあるはずないでしょう……」
「それは答えになっていない。焦らすな。俺は せっかちなんだ。あまり焦らされると、俺は おまえの答えを手に入れる前に、おまえに何かしてしまいかねない。俺は、そんな、物事の順序を乱すようなことはしたくないんだ」
とんでもない言葉で 氷河に答えを急かされた瞬は、氷河に求められたものを、慌てて彼に与えることになった。
「そ……それは……もちろん、僕は氷河が好きだよ! で……でも、あの……」
好きだと告げてしまってから、瞬が、こんな せわしない恋の告白があっていいものかと言いたげに、再び唇を開きかける。
だが、氷河は、瞬のクレームを受け付ける気はなかった。

「それはよかった」
氷河が欲しかったのは、その答えだけだったのだ。
瞬が自分を好きでいるという事実と、その証左となる言葉だけ。
欲しかったものを無事に手に入れると、安堵して、氷河は瞬を抱きしめた。
否、氷河は、瞬を抱きしめてから安堵した。
瞬の髪をかすめる位置で 少し長めの安堵の息を洩らしてから、氷河は、
「あまり焦らすな。心臓に悪い」
と、恨み言めいた囁きを囁いたのである。

「あの……でも、氷河……あの、僕は――」
瞬は まだ何か物言いたげだったが、どれほど自分に都合よく考えても、それが艶めいて楽しいことでないことは容易に察せられたので、氷河は瞬に 瞬の言いたいことを言わせなかった。
代わりに、もっと重要なことを、瞬に尋ねる。
「おまえ、キスの先もできるのか」
「えっ」

氷河の好意に甘えて卑怯なことはしたくないと、瞬はそればかりを深刻に思い詰めていたのだろう。
不意打ちのように そんなことを訊かれて、瞬は一瞬 虚を衝かれたような顔になった。
1、2度 瞬きをしてから、自分が何を訊かれたのかを なんとか理解し、その頬を真っ赤に染める。
「キ……キスなんてしたことがないので、キスができるかどうかもわかりません……!」
こんな時に、人類の滅亡も存続も どこ吹く風と言わんばかりのことを訊いてくる氷河に 憤ればいいのか、笑えばいいのか、あるいは嘆くべきなのかの判断ができなかったらしく、問われたことへの答えだけを返し、瞬が ふいと横を向く。

瞬が 少しずつ腹を立て始めていることは、氷河にも見てとれていたのだが、瞬が提供してくれた情報が非常に嬉しいものだったので、氷河の唇には我知らず笑みが浮かんできてしまっていた。
「じゃあ、試してみよう」
一応 断りを入れ、だが、瞬の返事を待たずに、氷河が瞬の身体をベッドの上に押し倒す。
性急と言うより迅速、迅速と言うより神速。
あまりに速すぎる展開に、瞬の意識と感情はついていくことができなかったらしい。
それでも氷河が何をしようとしているのかを察することだけは、瞬にも かろうじてできたようだった。

「さ……最初はキスだけ……!」
両肩をベッドに押しつけられた状態で、瞬は悲鳴のように小さく叫んだ。
叫んでしまってから、自分が何を言ったのかを理解したらしく――自分が、“最初”の“次”があることを認め許してしまったことに気付いたらしく――瞬は、自らの失言に泣きそうな顔になった。
氷河の目的は、瞬に羞恥で身の置きどころをなくさせることでもなければ、瞬を泣かせることでもなかったので、彼は、瞬にとっては失言だったらしい言葉を失言と気付いた素振りを見せず、素知らぬ顔で瞬に頷いてやったのである。
「了解。最初はキスだけ。俺は、そんなに せっかちな男ではないぞ。焦らず、急がず、その先は――そうだな、2分経ってからにしよう」
「ええっ !? 」

大きな声をあげて驚く瞬の様子がおかしくて、氷河は、瞬を離せなくなってしまったのである。
これほど可愛らしいものは 一刻も早く自分のものにしてしまった方が、何かと安心かつ安全だと、氷河は思った。
他人の抜け駆けを警戒して 気の休まらない状態でいる時間は、できるだけ短い方がいいに決まっている。
だから、氷河は、どれほど激しい抵抗に合っても、瞬に泣きつき、拝み倒してでも、今日のうちに瞬を自分のものにすることを決意したのだった。
幸い瞬は、“好きな相手”を頑なに拒み通すことは許されないこととでも思っているのか、断固とした抵抗を示すことはなかった。

約束通り、2分の時間をかけて、緊張し 僅かに強張っている瞬の唇を解きほぐし、和らがせてから、その唇を瞬の胸元に移動させる。
瞬は、それだけで、息を詰めるようにして 軽く身体をのけぞらせた。
冥界では、生きている人間の身体に触れることも触れられることもなかったのだろう。
瞬の過敏は 氷河には好都合だったが、それは おそらく瞬自身のためにも都合のいいことだった。
瞬の身体の外と内側で、羞恥より官能の力の方が立ち勝るようになるのに、さほどの時間はかからなかった。
氷河は必要以上の時間をかけて愛撫し、交接の際には、なるべく瞬の身体を傷付けないように気を配った。
瞬の身体は快感にのみ敏感にできているらしく――あるいは瞬は、“好きな人”に与えられるものは 苦痛も快楽と信じきっていたのかもしれない。
その瞬間にも、瞬の上気した頬が青ざめたり、切なげな喘ぎが苦悶を訴える悲鳴に変わったりすることはなかった。

瞬に与えられる快楽の優しさ激しさは、氷河の身体をも ためらいなく酔わせてくれた。
瞬の中に己れを解き放った瞬間には、氷河は、瞬によって、なるほど生きていることは素晴らしいことだと信じさせられてしまっていた。






【next】