瞬が、ずっと、不安げな目で恋人を見詰め、確かめなければならないことを確認することを ためらっていることには、氷河も気付いていた。 抱き合っている時には 自分の務めも、なぜ自分が他人の家にいるようになったのかも忘れきっているように、すべてを快楽の中に沈みこませてみせる。 そんな瞬に出会い驚くたびに、氷河は、その話を持ち出して“気持ちいい”ことをしてもらえなくなる事態を瞬は恐れているのだろうと考え、うぬぼれてもいた。 それも瞬のためらいの一因ではあったのだろうが、しかし、瞬に任務の遂行をためらわせていた最も大きな原因は、『氷河の出した答えを聞くのが恐い』という思いだったらしい。 二人に残された時間が2日を切ると、瞬も、さすがに これ以上の先延ばしはできないと覚悟を決めたようだった。 「氷河。ハーデスへの望みは決めたんですか。それとも、氷河は一人きりで生き続けるつもり?」 今では すっかり二人の寝室になってしまった氷河の寝室にやってきた瞬の頬は、その夜、昨夜までのそれとは違って、月の光を吸い取ったように白く強張っていた。 ハーデスが、人類最後の日の午前零時に彼の仕事を始めるとしたら、残された時間は24時間と少し。 正午に仕事を開始するとしたら、残された時間は1日と半分。 もしかしたら、その夜は、二人が二人で過ごすことのできる最後の夜だった。 人類の中で ただひとり 命を永らえることのできる男が、ひとりきりで生き延びることを望む可能性はない――と 瞬は考えているようだった。 すべてが消え失せるか、すべてが生き延びるか。 選択肢はその二つしかないと思い込んでいるらしい瞬に、氷河は、少しく からかいの響きが混じった口調で尋ねてみたのである。 「生きていれば、人には幸福になれる可能性があるんだろう? それがおまえの持論だったはずだ」 そう信じればこそ、瞬は我が身を冥府の王に捧げて 兄の生を求めたはずである。 だが、瞬は、氷河のからかいに 力なく首を横に振った。 「一人では駄目です。一人では、人は幸福になれない。多分……」 「なら、二人で幸せになろう」 笑いながら そう言って、氷河は、深刻な顔をして 二人のベッドの脇に立っている瞬の腕を引き、その身体を抱きしめようとした。 昨日までは氷河に触れられる前に自分から氷河の胸に崩れ落ちてきていた瞬の身体と瞬は、だが 今夜は頑なで、氷河が軽く腕を引いたくらいでは ベッドの中の住人になってくれなかったのである。 今すぐに答えを出さなければ、瞬は あの奇跡のような快楽を氷河に許すつもりはないらしい。 瞬のその様子を見て、氷河は腹をくくった。 「ハーデスは――おまえの命も他の人間共と一緒に消し去るつもりなのか」 「わかりません」 「ハーデスは、おまえは生かしておくだろう。俺なら、そうする。人類が滅びれば、生きている人間は俺たちだけになる。二人だけの世界を望むのが恋人同士というものではないか?」 氷河の言葉を聞いた瞬の瞳が、絶望の色をした靄に覆われる。 氷河は、残酷なほど落ち着いた気持ちで、瞬の瞳の変化を見詰めていた。 「だ……だから 他の人は滅んでも構わないと、氷河は言うの !? 」 「他人など、いなくても困らん。実際、このひと月の間、俺たちは俺たちのことだけを見ていた。俺だけでなく、おまえも――他の人間のことを気にかけているようには見えなかったぞ。俺たちは俺たちだけで十分――」 「それは……それはそうだったかもしれないけど、でも、それは ほんの ひと月だけのことだからだし、そのひと月の間だって、本当は――」 人の世の存続と消滅――俺がそのどちらを望むと瞬は考えていたのだろうと、切なく身悶えるような瞬の所作と声に触れ、氷河は思ったのである。 二人でいることの充足を ここまで思い知らされた男が、余人の存在を望むことがあると、瞬は本気で考えていたのだろうか――と。 「二人だけでは駄目。二人だけで生きていくのは無理です。そんなことはできない。僕は、掃除はできるけど、氷河の食事は まだうまく作れない。電力が供給されなくなるんだから、パソコンだって使えなくなる。い……いちごのパフェも食べられなくなっちゃう……!」 「おまえはパフェより俺の方が好物のように見えていたが……。なるほど、いちごのパフェが食べられなくなくなるのは確かに大きな問題だな」 瞬が言わんとしているのは そういうことではない。 それはわかっていたのだが、瞬の持ち出してきた例えが あまりに可愛らしいものだったので、氷河はつい苦笑してしまった。 瞬が声に詰まったように真っ赤になって、僅かに顔を伏せる。 氷河は苦笑を重ねた。 人は確かに、一人では生きていけない――完全に満ち足りて生きることはできないだろう。 好物は1つよりは2つあった方がいいだろう。 瞬が いつか見た夢のように、たった一人で誰もいない荒野に放り出されたら、いくら厭世家を気取り孤独を気取っている自分でも、己れの生に意味があると信じることはできないだろうと、氷河とて思っていた。 しかし、二人となったら、話は別である。 「一人では無理かもしれないが――おまえと二人なら、初めて この地上に生まれた原始の人間のように生きていくことはできるだろう。醜悪な人間共が滅んだら、地上は美しい自然が支配することになる。いちごのパフェは食えなくなるだろうが、自然は俺たち二人の命を養うくらいの実りは、俺たちに与えてくれると思うぞ」 「氷河……」 絶望の色をしていた瞬の瞳が、悲しげに氷河を見詰めてくる。 人類を救うことのできる ただ一人の男に、瞬は、人類の存続を望んでほしかったのだろう。 幸福な人間ならば、幸福な現状の存続を望むはずだと考え、瞬は 氷河が幸福になることを願い、そのために努めようとしていたところもあったのかもしれない。 そんな自分が、まさか氷河に『二人だけでいい』と思わせる事態を招くことになるなどとは、瞬にはそれこそ思いもよらないことだったに違いなかった。 人類を滅亡に導くのは、氷河その人ではなく、その恋人。 今にも その場に崩れ落ちてしまいそうな瞬を、氷河はしばらく憐れむように見詰めていた。 「俺の望みは、俺の幸福だけだ。当然だろう。俺は、俺以外の人間にはなれないんだから」 「氷河、そんなこと言わないで。それは、とても悲しい……不幸なことです」 「俺の幸福に不可欠なものは、おまえの笑顔だけだ」 「氷河……」 命があふれている世界でなら、甘いだけの恋の囁き。 それが、二つの命しかない世界では、冷たく不幸な睦言になる。 瞬は、“普通の”恋人なら頬を上気させて喜ぶだろう氷河の断言を、泣きそうな目をして拒んだ。 「僕は、すべての人の命が消えた地上で 笑顔でいることなんてできません」 「だから、俺は人類の存続を望む」 「氷河、お願い。考えなお……え?」 氷河が、瞬の望みを叶えてやらない恋人でいるのをやめたのは、“普通の”甘い言葉では 瞬が全く喜んでくれないことを知ったから。 つまり、普通の甘い言葉で瞬を喜ばせることを断念したからだった。 あまり意地の悪い恋人でいると、瞬は本当に 笑顔を浮かべる術を忘れてしまいかねないと、それを危惧したからでもあった。 氷河は、言葉の上だけではなく、やはり実際に瞬には笑顔でいてほしかったのだ。 そのために自分がどうすればいいのかということは、瞬に出会った その日のうちに、氷河は気付いていた。 自分は結局は瞬の望みを叶えてやらなければならないのだろうということも、瞬への恋を自覚した時点で氷河には わかっていたのだ。 「他人のためには願わない。人類の存続など。俺は、俺が幸福であるために、おまえが希望を持つことのできる世界の存続を望む。ハーデスに、俺の望みは俺が幸福になることだと伝えろ」 「あ……あ……!」 半ば以上 諦めてしまっていたらしい瞬は、氷河の答えが 言葉の代わりに、暗く沈んでいた瞬の瞳に光が射してくる。 いちごのパフェの最初の一口を食べた時よりも、恋人に『もう一度おまえが欲しい』と言われた時よりも、瞬の瞳が明るく輝くのは癪だったが、それこそは 氷河が人類の存続よりも手に入れたかったもの。 氷河は、基本的には、この展開に満足していた。 「はい……はい、氷河。ありがとう……!」 なんとか言葉と声を取り戻した瞬の瞳には、明るく綺麗な涙が盛り上がってきていた。 瞬以外の他人はどうなってもいいという考えは、今も氷河の胸中に確として存在していた。 他人というのは面倒で邪魔で 必ずしも必要なものではないという考えがなくなったわけでもない。 だが、瞬がそれをほしいというのなら仕方がないではないか。 氷河が幸せな男でいるためには、どうしても瞬の笑顔が必要なのだから。 「僕の幸福に、氷河は不可欠な存在です!」 氷河の幸福に不可欠なもの――氷河を幸福にしてくれる笑顔を浮かべた瞬が、氷河に手を差しのべられるのを待たずに、氷河の胸に飛び込んでくる。 「僕は、いちごのパフェより、氷河の方がずっと好きだよ!」 弾んだ声で そう言うと、瞬は、自分の体重を使って、ベッドを椅子代わりにしていた氷河をシーツの上に押し倒した。 これまではいつも受動的だった瞬が、初めてといっていい積極さで自分の脚を恋人の脚に絡めてくるのに、氷河は面食らってしまったのである。 もちろん 氷河は迅速に瞬の求めに応じ、その手の平で瞬の肌を舐め始めた。 瞬の可愛らしい喘ぎが、氷河の身体に火をつける。 氷河は、氷河の好物であるところの瞬の笑顔――明るく、何の翳りもない笑顔と瞬のすべてを味わい尽くす作業に取りかかり、実際に氷河はそれを味わい尽くしたのである。 翌朝、氷河が光の中で目覚めた時、瞬の姿は二人のベッドから消えてしまっていた。 |