それは みじめな経験だったと思う。 でも、だからこそ私は、家に帰ってからも、金髪氷河に抱かれ、シミュレーション美少女を侍女のように従えていた、僅か5分間の お姫様気分が忘れられなかった。 彼氏に振られたことや、高い服が破けたことなんかは もうどうでもよくなってて、なんであんなに恵まれた二人がこの世にいるんだろうって、そればっかり。 あんな綺麗な男と一緒だったら、私、ディナーがフランス料理でなくても構わない。 私が食事代を払うことになってもいい。 100円の素うどんを食べてたって、隣りにいるのが あの金髪美形なら、みんなが私に一目置くに決まってるもの。 でも、私は彼には つり合わない。 私は、容姿は10人並で性格は極悪。 両親に見捨てられ、お給料は洋服代につぎ込んできたから貯金もなくて、彼等から見れば本当に詰まらない女。 何の取りえも力もない、その他大勢の中の一人だから。 私、あの子になりたい。 あの冷たい青い目が、シミュレーション美少女に向けられる時みたいに優しくなるのを見たい。 そんな目で、氷河に見詰められたい――。 明日は仕事があるっていうのに――ううん、今日も仕事があるっていうのに、私は その夜 なかなか眠れなかった。 で、ベッドの中にいると眠れないことに焦りを感じるから、私は冷蔵庫から缶ビールを取り出して、ベランダに出たのよね。 ベランダから見上げた空には、ぽつぽつと何個かの星が散らばっていた。 都会の空って、夜も明るいから、特に明るくて光の強い星じゃないと肉眼では見えないのよね。 星と星の間には何にもない空間が横たわっていて、星はみんな それぞれ孤立しているように見える。 一人ぽっちの星が 空に何個があるだけに見えるの。 なんだか、今の私みたい。 互いに遠く離れてはいるけど、確かにそこに星はあって、星はひとりきりじゃない。 近付いていきたいけど、星は星に近付いていくことはできないの。 「私があの子みたいに綺麗だったら――」 私があのシミュレーション美少女くらい綺麗だったら、氷河も私を見詰めてくれるんだろうか――。 私がそう考えた時だった。 突然、どこからか、 「その願い、余が叶えてやろう」 っていう声が聞こえてきたのは。 その声は、星と星が近付き合うことを妨げている闇の中から聞こえてきたような気がしたけど、そんなことがあるはずない。 当然 私は、泥棒とか痴漢とか、そういう手合いが近くにいる可能性を考えた。 でも、ここは5階にある部屋。 泥棒や痴漢の類が 外壁側から侵入するのはまず無理。 じゃあ この声の主はいったい誰? ってことになるんだけど、彼(男性の声だった)は自己紹介もせずに、私には訳のわからないことを ベらベらとまくしたて始めた。 「余は、あのキグナスが邪魔なのだ。あれがいるせいで、瞬の心が一向に余に向かぬ。キグナスがいるから、瞬は人間に未練と期待と信頼を抱く。余は、あの二人の間に距離を作りたい。キグナスに瞬を裏切らせて、瞬があの男を疎んじるようにしたいのだ。そうして、瞬の心に人間不信を植えつける。よい考えであろう?」 よい考えなのか悪い考えなのかは わからないけど、こいつ誰? ていうか、何? 瞬って、あのシミュレーション美少女のことよね。キグナスっていうのは、じゃあ金髪氷河のこと? 自慢にもならないけど、私は、ビールごときで幻聴が聞こえるくらい酔ったりするほどアルコールには弱くない。 ていうか、それ以前に、私はまだビールに口をつけていなかった。 もちろん、この世にはシラフで幻聴を聞く人間もいるでしょうけど、その声は幻聴にしては妙に明瞭で鮮明で、しかも、その内容が、私の想像力で作りだせるようなものじゃなかった。 キグナスなんて名前、私には思いつけないもの。 私が金髪氷河に源氏名をつけるなら、シャルルとかフランソワとかにするわよ。 キグナスなんて、気苦労の多いナスビみたいじゃないの。 ほんとに、この声は何。 宇宙人? 天使か悪魔? それとも、異世界から来た魔物や妖精の類? まさか、神様ってことはないわよね? 私は、訳がわからずに混乱して――混乱していたのかな? 実際は、あんまり混乱してもいなかったような気がする。 今日一日で――正確には、もう昨日だけど――いろんなことがありすぎて、私は、ちょっとヤケになってたし、ふてくされていたし、腹が立ってたし、落ち込んでたし――自分の感情だけでも持て余し気味なのに、自分の心の外のことにまで気にしてられないっていうか――。 それに、私は、昼間、あの二人に会ったばかりだった。 あんな綺麗な二人が存在する世界なら、何が起こったって不思議じゃないような気がしてた。 だから、私は、その得体の知れない男の声を、存外落ち着いて聞くことができていたんだと思う。 「私の願いを叶えるって、どうやって?」 得体の知れない声の主は、多分、神様や天使じゃなかった。 少なくとも、いい神様や天使じゃない。 “いい人”なら言いそうにないことを、彼は私に言った。 「余は、瞬が眠っている間なら、その意識を抑えつけておける。瞬になりたいのだろう? そなたの意識を瞬の中に送り込んでやろう。そなたは瞬になって、瞬の身体を使って、キグナスを誘惑してやれ。あれは、毎日 瞬に我慢を強いられているから、容易に そなたの手に落ちるだろう」 こんな下世話なことを言う神様や天使がいたら、世も末ってもの。 となると、これは悪魔の声なのかしら。 だとしたら、これが悪魔の声なのだとしたら、耳を傾ける価値があるかもしれない――って、私は思った。 それが聖書や道徳の教本やシミュレーション美少女の思考回路みたいに正当で正道で清浄で潔白な話なら、私は聞こうとも思わなかった。 ああ、でも、これが悪魔の声なら、眉に唾をつけて聞かなきゃね。 悪魔と取り引きをして、最後には自分が地獄を見ることになるっていうのが、悪魔の誘惑に耳を傾けた人間の お約束の末路だもの。 「私があの子になって、氷河を誘惑して、それでどうなるの」 それで、あの綺麗な金髪が誘惑されても、彼が私のものになるわけじゃない。 私が一生 あの子のままでいられるっていうなら話は別だけど、そういうのは私が困る。 そんなことになったら、私、お祖父ちゃんお祖母ちゃんに会いに行けなくなっちゃうもの。 それは困るわ。絶対。 「そなたがキグナスをうまく誘惑できて、そなたたちが わりない仲になれば、キグナスは瞬ではない者と身体を交えたことになる。それは瞬への裏切り行為だ。その上、瞬は、意識を奪われている間にキグナスに乱暴されたことになる。それは潔癖な瞬には耐えられない事態だろう」 それで、あの二人が気まずくなって別れるっていうわけ? そんなことくらいでまさか――って、最初、私は思った。 でも、あの綺麗な二人になら、そんな些細な過ちも耐え難いほど醜い汚点ってことになるのかもしれない。 その可能性は皆無じゃないような気がする。 「余は、あの二人が親密でなくなればいいのだ。あの二人の間の信頼関係をなくしたい」 「あなたはそれでいいでしょうけど、私はどうなるのよ。私が得るものは、束の間の夢だけってこと?」 「あの二人が疎遠になれば、そなた自身がキグナスにつけいる隙が生まれることになるだろう。余は、それはあまり勧めないがな。だが、たとえキグナスを手に入れることができなくても、あの二人が別れるだけで、そなたは溜飲を下げることになるのではないか?」 さすがは悪魔。 うまいところを突いてくるわね。 そうよ。 私は瞬になりたいわけじゃない。 少なくとも、一生 瞬のままにしておいてやるって言われたら、それは丁重に お断りするわ。 私は、どうこう言ったって、凡百の私自身がいちばん可愛いもの。 私はただ、妬ましいだけなの。 恵まれすぎた二人。 誰からも羨まれる綺麗なカップル。 人に好かれるための苦労も知らず、互いを信じ合い、愛し合っていられる幸せな人間が許せなくて、妬ましいだけ。 あの二人がどんなに綺麗でも、腹が立つほど綺麗でも、不幸でいてくれさえしたら、私は彼等に好意を持つことだってできると思う。 綺麗なら幸せでいられるってわけでもないんだって、自分の心を慰めることができるから。 要するに、私は、彼等の美貌が羨ましいんじゃなく、彼等の幸福が妬ましいだけなのよ。 「この計画がうまくいってもいかなくても、それが そなたのしたこととは誰も思うまい」 っていう悪魔の言葉が、私の胸を揺さぶってくる。 「ほんとにそんなことができるの?」 悪魔にそう問い質した時にはもう、私は決意していたんだと思う。 悪魔の声は、契約の成立を宣言するようなことはせず、 「論より証拠という。キグナスの部屋は、瞬の部屋の右隣りだ」 とだけ言った。 |