ドアの向こうは、なんてことない普通の部屋だった。
普通っていっても、庶民には到底 住めないような部屋だったけど、少なくとも花園や地獄じゃなかった。

時刻はもう1時をまわっていたけど、氷河はまだ起きてたみたい。
シャワーを使おうとしていたところだったのか、それとも私へのサービスなのか(まさか)、彼は上半身裸でそこにいた。
ええ、そりゃもう見事な身体をしてたわ。

嫌味にならないほどに鍛えられた筋肉と、なめし皮みたいな肌。
もちろん、おなかに贅肉なんて1ミリもついてない。
私がこれまで付き合ったことのある男たちは、貧相だったり、だぶついてたり、決して極端じゃなかったけど、必ず そのどちらかだったのに。

あ、ちなみに『嫌味にならないほどに鍛えられた筋肉』っていうのは、いい加減についてる筋肉っていう意味じゃないわよ。
氷河のプロポーションは完璧だった。
私が言う『嫌味な筋肉』っていうのは、ボディビルダーの筋肉みたいなののこと。
あれは何ていうか、筋肉でできた雪だるまみたいで、私、ちょっと苦手なのよね。
身体のための筋肉っていうんじゃなくて、筋肉のための筋肉って感じが。
氷河のはそういうんじゃなく、なんて言ったらいいか――本人にその気はないんでしょうけど、女に鑑賞されるためにある身体だった。
私、『すごい』って心の中で感嘆して、そして、はしたなくも ごくりと息を呑んじゃったわ。

「瞬? どうかしたのか? おまえがこんな時刻に起きてるなんて」
瞬チャンはどうやら、いつもは早寝早起きの いい子ちゃんらしい。
やっぱ、私の肌の衰えは睡眠不足のせいもあるのかもね。
今度から気をつけなくちゃ。
――と、それはともかく。

私は、私が喉から手が出るほど欲しかったものを、瞬の身体の持ち主になった途端、手に入れることができた。
あまりにあっさり、あっけないほど簡単に。
あのガラス球みたいに冷たかった氷河の目が優しく輝いて、私を見詰めてくる。
を見る時には、邪魔な障害物を眺めているようだったあの目。
無機質と言っていいくらい冷ややかで、硬質ガラスみたいだった あの瞳が、突然 命を吹き込まれでもしたみたいに、温かく優しい目になる。
私の姿が、瞬のそれになっただけで。
男の子でも何でも、氷河は本当に瞬が好きなんだ――って、私はなんだか切ない気分になった。

それは最初からわかりきっていたことで、今更私ががっかりするようなことじゃなかったんだけど、私はなぜだか ものすごく気落ちしてしまったの。
でも、それは、これから私がしようとしていることがきっとうまくいくだろうっていう確信を与えてくれる事実でもあったから、私はすぐに気を取り直した。
私がこの子の姿をしている限り、すべてはうまくいく。
今更 しおれて瞬の部屋に戻るなんてことができるわけないじゃない。

「どうかしたわけじゃないけど」
早寝早起きのいい子が夜更かしをする理由を咄嗟に思いつけなくて、私は適当にごまかした。
で、声を出して、私は、自分の声にびっくりすることになった。
この子、男の子よね。
女の子だと思ってた時には全然気にならなかったんだけど、男の子とわかって聞くと、声があんまり女の子みたいで面食らう。
でもまあ、それも、この場合は悪いことじゃない。

「眠れなくて」
その女の子みたいな声で、私は甘えるような声で囁いた。
チャンスは多分一回きり。
こんなたくましい身体の持ち主に、こんな細い身体の子が何かされら、どんなことになっちゃうのか、私にはわからない。
しかも、どんなに綺麗でも瞬チャンは男の子。
氷河が この子で、どんなふうに自分の性欲を満たすのか、それも私にはわからない。
でも、どんなことになったって傷付くのは私の身体じゃないんだから、瞬チャンには悪いけど、その件に関して、私は至って無責任だった。
そして、興味津々だった。
この綺麗な顔をした男が、いったいどんな顔してイクのか、女に興味を持つなっていう方が無理な話よ。

「また、悪い夢でも見たのか」
氷河は、それが自分への誘惑行為だっていうことに気付いていないみたいだった。
清らかな瞬チャンが男を誘惑するために深夜の部屋に乗り込んでくるなんて、氷河には考えられないことだったのかもしれないわね。
でも、『また』?
清らかな瞬チャンは、男を誘惑したりはしないけど、恐い夢を見るたび、氷河の部屋に逃げ込むことはしてたってわけ?
それって、男には地獄なんじゃないの?

ま、ここはそういうことにしておくけど。
「ちょっと恐い夢を」
私が小さく頷くと、氷河はどこか苦しげな顔になって、それから気遣わしげな目で私を見詰めてきた。
「おまえが人を傷付けるのが嫌いなことは知っている。だが……いや、だからなおさら、自分まで傷付けることはない。それは、おまえが信じているものを疑うことにもなる」

「……?」
氷河の言っていることの意味が、私には全くわからなかった。
いったい氷河は何を言っているの?
人を傷付けるのが嫌いも何も、この子にそんなことができるわけがないでしょう。
この子が誰かを傷付けることがあったとしたら、それは、この子が幸せでいることに 不幸な人間が勝手に傷付くだけのことよ――私みたいに。
でも、それはこの子のせいじゃないし、そもそも この子は 自分が人を傷付けていることに気付きもしないでしょう。
ほんとに氷河は何を言ってるの。

――私がそう訝った時。
氷河の手が私の頬に触れてきた。
私の頬――瞬の頬に。
女の私でさえ驚いた この肌。
男の、しかも瞬チャン大好きな氷河なら、触れるだけで変な気持ちになるんじゃないの?
うん。絶対なってる。
この肌に冷静でいられたら、それは余程の鈍感男か、さもなきゃ不能。
大丈夫。
いける。
私は成功を確信して、氷河に言った。
「一緒に寝ない?」
って。

途端に、氷河が面食らったような顔になる。
さすがに瞬チャンが言うには単刀直入すぎたかと、私は軽く舌を噛むことになったんだけど、彼は、私が瞬じゃないことに気付いた様子は見せなかった。
そりゃそうよね。
今の私は瞬なんだから。
偽物じゃない、本物の瞬なんだから。
「……おまえは、俺の気持ちを知った上で、そんなことを言うのか。それがどういうことなのか わかっているのか」
氷河が、抑揚のない低い声で瞬に尋ねてくる。
その声には、さっきとは違う苦しさがにじんでいた。

なるほど。
氷河は瞬チャンに自分の気持ちを告白済みなんだ。
でも、瞬チャンは、色よい答えを返さず、氷河を焦らしてたってわけ。
ああ、この手の いい子ちゃんタイプにはありがちな話よね。
まだ早いとか、考えさせてくれとか言って、もったいぶって、自分を追いかけさせて、悦に入ってるのよ。
おそらく、無意識のうちに。
そして、無意識だからこそ、その無邪気はたちが悪い。
でも、安心して、氷河。
私は、そんな姑息で残酷なことはしないわよ。

「わかってるつもり」
いよいよ私の誘惑は佳境に入ってきた。
と言っても、私は言葉で彼を誘惑することはできなかったんだけど。
私、あの子の口調をよく思い出せなかったのよね。
へたなことを言って私の正体がばれたりしたら元も子もないから、私は短いセンテンスで会話を成り立たせなきゃならなかった。
でも、よく思い出せないのは思い出せないんだけど、昼間 彼等と一緒にいた間、私は何の疑いもなく瞬を女の子だと思い込んでいたんだから、多分瞬は乱暴な言葉使いはしない子なのよね。

ともかく、そういう事情があって、私は氷河に短い答えをしか返せなかった。
でも、私の意図は十分に氷河に通じているようだった。
私の短い返事を聞いた氷河が、僅かに眉を歪める。
そして、彼は少し身体を緊張させた。
裸だと、そこいらへんがよくわかるわね。
胸の上下が大きくなって、彼が拳を握りしめたことを二の腕の筋肉の緊張で見てとれる。
これは、あっちの方も硬くなってるわよ。
あと一押しだわ。

「でも、わた……僕が欲しいんでしょ」
こういうこと、瞬チャンはきっと罪のない顔であどけなく言ってのけるのよね。
いかにも誘惑してますみたいな、意味ありげな目はしないで。
私、うまくできたのかな。
まあ、あっちの方が反応し始めてる男の判断能力はかなり落ちてるだろうとは思ったけど、ちょっと心配になった私は、氷河の様子を探るように上目使いに彼の顔を覗き込んだ。
そしたら。

なんだか、氷河の目が冷たくなった――ような気がした。
氷河が何か考え込む素振りを見せる。
どうして?
私、何か変なこと言った?
この期に及んで、何を考える必要があるの?
これは、いわゆる据え膳ってやつよ。
瞬チャンは、『どうぞ僕を食べてください』って、あなたの前に立ってるの。
瞬チャンに恥をかかせないためにも、早く来なさいよ。
私だって、そのすごい身体に早く触ってみたいわ。

もしかしたら、その時 焦っていたのは、氷河じゃなく私の方だったかもしれない。
私を見おろす氷河の目は、むしろ落ち着いていて――冷たく落ち着いていて、やがて その唇が発した声も ひどく冷ややかだった。
「おまえは俺が好きなのか」
氷河が今更なことを訊いてくる。冷淡な声で。
ほんと、今更だわ。
そんなこと、どうでもいいじゃない。
あなたが瞬を好きで、瞬を欲しいのなら。

「も……もちろん」
「どこが。俺には、おまえに好いてもらえるような美点などないぞ」
美点?
それがどうしたっていうの。
瞬が誰の何を好きでも、あなたに美点があろうがなかろうが、そんなこと どうだっていいでしょ。
四の五の言わず、自分の欲望に忠実になりなさいよ!
あなたの大好きな瞬チャンが、あなたに抱かれてもいいって言ってあげてるのよ。
美点が何だっていうのよ!

「あなたは綺麗だし」
私が苦し紛れに吐き出した言葉に、彼は沈黙を返してきた。
自分に美点はないって言ったのは、そっちの方でしょ。
なのに、ないものを探して答えろっていうの !?
「綺麗だし――」
私は それ以外にどんな答えも思いつかなかった。
仕方ないでしょ。私は彼のこと、何も知らないんだから。
私が知っているのは――私にわかっているのは、彼がものすごく綺麗な男だっていうことだけ。
綺麗で――彼と一緒にいたら、私はそれで得意がれるってことだけ。
私を振った男を見返すことができて、いい気分になれるってことだけだったんだもの。

「そんなこと、どうだっていいじゃない! あなたは瞬が好きなんでしょ!」
「そうだ。俺が好きなのは瞬だ。おまえは誰だ」
冷たい目――ああ、もう完全にばれてる。
でも、どうしてなの?
ここにあるのは紛れもない瞬の身体よ。
たとえば私が瞬でなくなって、氷河が瞬の身体を抱いて、何の問題があるっていうの。
私が瞬でないことに、どんな支障があるっていうの。
中身も瞬でなければならないの。
私は、氷河に訊きたかった――どうしても訊きたかった。
その答えを手に入れる前に、私の目の前は真っ暗になってしまっていたけど。






【next】