「あ……ああ、つまり、そういうわけで、スパルタは、アテナイが今以上に大きくなると、自分の存在意義を見失ってしまいかねない。アテナイにその気がなくても、アテナイに存在を否定されていると感じ、アテナイに恐れと劣等感を抱いているんだ。軍と兵の強さを 殊更に誇るのは、その反動と言っていい。そして、スパルタの女たちも、アテナイ同様、強さを第一義とするスパルタの男たちの間違った自尊心の側杖を食っている。スパルタは、アテナイを女しかいない国と呼んで蔑んでいるが、俺に言わせれば、スパルタは、女に振られて逆恨みをしている男の集団だ」

「ヒョウガは女性に振られたことがないから、女性にもアテナイにも好意的なの?」
「俺は女に好意的というより、母親崇拝者なんだ。昔、イタケの海賊がスパルタの都に上陸して暴れまわったことがあって――その時、俺は7歳になり、母から引き離されて、幼年の子供たちの訓練所に入れられたばかりだった。イタケの海賊が俺たちのいるところに向かっていると知った母は、訓練所に駆けつけて、俺を守ろうとして海賊に切り殺された。成人するまでは二度と会えないと諦めて、それでも会いたいと願っていた母との再会が叶った時、彼女は俺の目の前で死んでいた」
「あ……」

「俺は、母親ほど強く愛情深い者はないと信じている。真の強さとはそういうものだと。女を軽んじる男は ただの馬鹿だとさえ思うな」
「わかります。僕の母もそうでした。僕の母も、僕を救おうとして、命を落とした。あの……僕、本当はスパルタ人なんです。生まれた時、未熟児だったので海に流されて――母は赤ん坊の僕を救おうとして波に呑まれて亡くなったのだそうです。僕は幸いアテナに拾われて 命を永らえることができたけど、僕をアテナのところに運んでくれたのは、僕の母の魂だったのだと思っています」

母親が生きていても、このスパルタでは 母と子は引き離される。
母の愛情――というより、愛情全般が――強さほどには価値がないという教育を受けるスパルタの子等の大半は、教えられた価値観を自分のものとする。
引き離された母を忘れられない子供もいるにはいるのだろうが、そういう子供は、母の温もりを忘れられずにいる自分を(スパルタの男として)恥じることになるに違いなかった。
彼等は、そういう教育を受けるのだから。
だが、母を失った子供は――しかも、その母は我が子のために死んだとなれば――母を慕う自分を恥じることもなければ、母への思いとスパルタの価値観の間で迷うこともないだろう。
母は、実際に我が子を愛し、その愛を行動で示したのだから。

自分と同じように 子のために死んだ母を持つシュン、自分と違って母との思い出を持たないシュン、それでも――だからこそ――母を求め愛しているシュンを、ヒョウガは シュンの母の代わりに抱きしめてやりたいと思ったのである。
母に抱かれた温もりの記憶さえ持っていないシュンが母を求める心が、ヒョウガには哀れで健気に思えたから。
実際、ヒョウガは、シュンを抱きしめかけた。

ヒョウガのその衝動を押しとどめてくれたものは、自分がスパルタの子であるというシュンの告白だった。
そして、シュンの年の頃と、ヒョウガの記憶に残る母の姿と争うほどに美しいシュンの容貌――だった。
それらのものが、ある一つの仮説の形をとって、ヒョウガの心に引っかかってきたのである。

「おまえ、今 幾つだ」
「16ですけど」
「16年前に海で死んだ母親――」
様々な符号が合致しすぎていて、かえって出来すぎているような気がする――。
「それがどうか……?」
難しい顔をして黙り込むことになったヒョウガを、シュンは怪訝そうに見詰めてきた。
「あ、いや……」
シュンの瞳が不安の色を帯び始めているのに気付き、ヒョウガはすぐに その考えを(今は)振り払った。

「この国には――スパルタには、俺の他に もう一人の五百人隊長がいて、その男がアテナイとの戦いを強硬に主張しているんだ。奴は国益を考えて主戦論を唱えているというより、アテナイを憎んでいて、だからアテナイの滅亡を望んでいる。というのも、アテナイの者に家族を殺されたから――らしいんだが……」
ヒョウガが何を考えて、突然 そんな話を始めたのかが、シュンにはわからなかったようだった。
だが、それがアテナイとスパルタの間にある障壁の一つであることは理解したらしく、シュンはアテナイに救われたスパルタ人としての意見をヒョウガに語ってきた。

「アテナイにも色々な人がいますから、アテナイの者は絶対にそんなことはしないと断言することは、僕にもできません。ですが、理由もなくそんなことをすることは野蛮と思うのがアテナイの市民です。僕を助けてくれたのはアテナイの国です」
二つの故国に争い合ってほしくない――切ない祈りのこもったシュンの訴えに、ヒョウガはゆっくり頷いた。

「俺も、おまえを育ててくれた国と戦はしたくない。明日、長老会の者たちとスパルタの主だった有力者が集まって民会が開催される。そこで説得してみるが――。アテナイの件が議題の時はいつも、俺と、その もう一人の五百人隊長の意見が対立して、そこにシリュウが調停に入って物別れ――というのが、スパルタの民会の お約束の展開なんだ。まあ、開戦決定の引き延ばしの役に立っているという点で有意義な話し合いではあるんだが」

二つの国の平和を願うシュンに、最悪の知らせだけを伝えることはせずに済むだろう。
精一杯 前向きに考えても、今のヒョウガがシュンに与えてやれる希望は、その程度のものだった。






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