ああ、そう。瞬は、キスが好きだった。 日本ではそれは特別なことなんだと、いつも向きになって言い募っていた。 嫌いな人には絶対に許さない。どうでもいい人と気軽に交わすものじゃないと、何度も。 真剣な目で そう言ってから、瞬は俺に『キスして』とねだってくる。 早く瞬にキスしてしまいたかった俺には、瞬が毎回繰り返す その前置きの時間は、邪魔で余計な時間でしかなかった。 焦らされているようで、苛立った。 瞬が同じことを何度も繰り返す その訳に、青くさいガキだった俺は思い至ってやれなかった。 今 俺の目の前にいる瞬が、あの頃と同じように真剣な目をして、『日本人のキスの重大な意味』を語り出したら、俺は微笑んで――苛立ったりせず微笑んで――瞬を心から可愛いと思いながら、瞬の意見を神妙に拝聴する。 なのに、あの頃の俺は、瞬の必死の訴えを健気と感じる分別すら持ち合わせていなかった。 瞬の必死の訴えは、俺にとっては 無駄な繰り言でしかなかった。 だが、その繰り言のおかげで、俺の中でも、キスの持つ意味が変わっていったのは事実だな。 瞬が俺にキスを許してくれるということは、瞬が俺のものだということ。 キスは、瞬が俺のものだという証。 瞬にキスをすることは、俺にとって、『これは俺のものだ』という、言葉を用いずに行なう所有権の主張のようなものだった。 そんなキスとキスの合間。 「戦いはいやだ」と、瞬が言ってきたことがあった。 俺は、俺たちが戦いから逃れることはできないのだと、瞬を諭した。 あの時、俺は本当は、瞬と共に戦いから逃げることができたなら どんなにいいだろうと思っていた。 戦いなんて詰まらないものを放棄して、瞬と二人で、瞬と俺しかいない場所に行く。 それこそは、俺の理想の世界だった。 瞬が俺しか見なくなる。 瞬が俺のことしか考えなくなる。 瞬が永遠に俺ひとりだけのものになる。 そこが水のない砂漠の真ん中でも、そこが花も咲けない南極大陸の真ん中でも、瞬が俺以外の人間と関わることのない場所こそが二人の至上の楽園だと俺は思い、夢想した。 だが、そんなにも瞬を独占することを望んでいた俺は、実のところは怯懦な臆病者にすぎなかった。 俺と瞬の二人きりしかいない場所でも、瞬がいつも俺だけを見ていてくれるわけがないと、俺は思った。 そんな自信は持てなかった。 いや、俺は、自信を持てなかったのではなく――知っていたんだ。 そんな場所ででも、瞬が俺だけを見ていてくれることはないと、最初から知っていた。 俺が瞬を独占するなんてことは土台無理な話だと、俺は知っていた。 俺が、戦いから逃げることの不可能と卑劣を瞬に語ったのは、俺だけを見てくれない瞬を責め皮肉るためだった。 どうせそんなことはできないくせに、そんなことを俺に求めてみせる瞬を、俺は まるで見当違いな大人の分別で、冷たく諭してみせた。 『なぜ二人で逃げようと言ってくれないのか』と、瞬は俺の前で泣いて――俺の冷たさに瞬は泣いて――。 俺は、あんなふうに瞬に泣かれるまで、瞬がそんなにも俺の冷たさに傷付いていたことに気付いてさえいなかった。 俺は本当に、瞬を泣かせることしかできない男だった。 おそらく、俺は若すぎたんだ。 恋をするには若すぎ、未熟すぎた。 若すぎたのに、俺は瞬に出会ってしまった。 早過ぎる時期に、愛さずにいられない人に出会ってしまった。 恋した相手を思い遣る術を知らず、自分の心を瞬にぶつけることしか知らない俺は、瞬を傷付けるだけ傷付け、泣かせるだけ泣かせ、そうして、別れを余儀なくされた。 二人が初めて出会ったのが今だったら、俺はもう絶対に あんな過ちは犯さない。 今なら――今なら、俺は、あの頃よりずっと上手に瞬を愛して、涙ではなく笑顔こそが瞬のものであるようにすることを、自然にやり遂げてみせる。 だが、今では すべてが遅すぎるんだ。 遅すぎるのに――俺は瞬を抱きしめたい。 不思議に綺麗で、掴みどころがなく可愛い瞬。 この瞬が、俺以外の誰かのものでいるなんて、そんなことがあっていいんだろうか。 今の俺なら、瞬の心を誰よりも大切にしてやれる。 俺のせいで傷だらけになった瞬の心を癒すために、どんなことでもする。 今なら、そうすることができるのに。 そうする機会がいくらでもあった あの頃。 俺が、そんなことを考えもしなかった あの頃。 幸せになるチャンスも、やり直す時間も ありあまるほどあった あの頃――。 あの頃、俺たちは、確かに幸福な光の中にいたのに、なぜ俺はそのことに気付かなかったんだろう。 どうして今になって あの輝きに気付き、こんなふうに切ない胸の痛みに耐えることになってしまったんだろう。 それとも、幸せだった あの時間は、もう取り戻すことのできない時間だからこそ、今 こんなにも眩しく輝きながら俺の胸に蘇り、俺を苦しめるのか。 瞬。 おまえになら、その理由がわかるんだろうか――? |