あらゆる罪を遠ざけ、清貧と忍耐の40日間を過ごす。
それは一般人には困難な作業なのだろうか。
実は、氷河には、そこのところが よくわかっていなかったのである。

美食の趣味のない氷河には、食べることは 喜びというよりは 肉体維持のための義務に近い行為で、ゆえに、暴食の罪は氷河には縁のないものだった。
強欲も、それが色欲から切り離された欲に限るなら、物欲、権力欲、名誉欲皆無の氷河には無縁の罪。
恋をしている人間は――それも片思いをしているとなれば――恋の相手こそが絶対的上位者で、傲慢の罪を犯すこともない。
たとえば、星矢が瞬と無邪気にじゃれ合っている様を見ることは、氷河に嫉妬と憤怒の感情を運んでくるものだったが、それとても、星矢は色恋に関しては瞬よりも清らかなくらいのオトコだと思えば、その程度の嫉妬と憤怒を理性で抑えることは容易な作業だった。

色欲が氷河の罪の主要因なので、それは別格として扱うことにして、問題は怠惰の罪だった。
怠惰の罪を犯さないためには、人は勤勉に何か“仕事”をしなくてはならない。
しかし、聖闘士という生き物は、敵が来ないと労働の機会が与えられない生き物なのだ。
何らかの策を講じなないと、迷える子羊は怠惰の罪を犯し続けることになってしまう。
どうしたものかと考えあぐね、最終的に氷河は、仲間たちに仕事を提供してくれるよう頼んでみることにしたのだった。

「おい、何か仕事はないか」
「仕事〜 !? 」
昨日もおかしかったが、氷河は今日もおかしい。
昨日に引き続いて またしても 突然訳のわからないことを言い出した白鳥座の聖闘士に、星矢は素頓狂な声をあげることになった。
「おまえ、なんか悪いものでも食ったのかよ。昨日から変だぞ。いつも変だけど、昨日今日は加速度的に変だ」
「突然、仕事と言われてもな……。俺たちの仕事は、敵の来襲に備えて 頑健な身体を維持することなのではないか? 適切適量の栄養を摂取し、十分な睡眠をとり、適度なトレーニングを欠かさない。俺たちは 本業が命がけなんだ。それ以上のことはアテナも求めていないと思うが」

紫龍の言うことは至極尤も。
なにしろ、昨日の朝までは、氷河自身がそう考えていたのだ。
だが、今、氷河は、とにかく“労働”を欲していたのである。
怠惰の罪を犯さないために、仕事が必要なのだった。
「いや、もっと、いかにも労働労働したのがいいんだ。自分のためじゃなく、世のため人のためになるような仕事が」
「そうは言っても、城戸邸での仕事は、そのために雇われた使用人がいるから、へたに手を出すと その人の仕事を奪うことになりかねないし……」
語尾から力が抜けることになった紫龍のあとを引き受けてくれたのは、幸か不幸か、今 氷河が最も接触を避けなければならないアンドロメダ座の聖闘士だった。

「あ、じゃあ、お屋敷の西の庭のタイルの掃除を手伝ってくれないかな? 雨が降るたび、土が流れてきて、タイルの目地に詰まっちゃってるの。庭を歩くたびに、ずっと気になってたんだよね。そういうのは庭師さんの仕事でもないだろうし……。もう梅雨の季節も終わったから、綺麗にしても無駄にはならないと思うんだけど」
「む……」
氷河は、一応、悩みはしたのである。
ここで瞬の求めに応じても、自分は奉仕と清貧の日々を過ごしていると言うことができるのだろうか――と。
しかし、星矢と紫龍は、迷える子羊に労働労働した作業を与えてはくれそうにない。
そして、迷える子羊は、今は怠惰の罪を犯すわけにはいかなかった。

背に腹はかえられない。
結局 氷河は そう考え、腹をくくって、瞬が与えてくれる労働によって怠惰の罪を免れることにしたのだった。
「わかった。庭のタイルを綺麗にすればいいんだな」
「手伝ってくれるの !? わあ、氷河、ありがとう!」
氷河が瞬の要請を承諾すると、瞬は ぱっと明るく瞳を輝かせ、嬉しそうに氷河に礼を言ってきた。
瞬の喜ぶ様子が、氷河の罪深い心臓をときめかせる。
自分の正直な心臓に、氷河は思い切り慌てることになった。
つい笑い返してしまいそうになる口許を意識して きつく引き結び、氷河は瞬と共に城戸邸の西の庭に向かったのである。

これは勤勉の務めを果たすための つらい試練(のはず)と、懸命に自分に言いきかせながら、氷河は作業現場に着くと早速 瞬に求められた仕事に取り掛かった。
それは、ブラシでタイルの目地に詰まった土を取り除き、水を撒くだけの単純作業だった。
単純作業というものは 手足を動かしていれば つつがなく遂行でき、あまり脳みそを使わなくてもできてしまうのが難点。
つまり、意識や感情や五感が、共に作業をしている瞬に向いていても、その仕事は容易に遂行できてしまうのだ。
氷河にとっては困ったことに。

瞬は、思いがけない仲間の助力が よほど嬉しかったらしく、始終にこにこと嬉しそうに氷河と同じ作業にいそしんでいる。
氷河にできることは、そんな瞬の笑顔を見ないように気をつけながら、更に もくもくと労働に励むことのみ。
そのひたむきさが瞬の心を打ったのか、予定の作業がすべて終わった時、瞬は、氷河が『頼むから勘弁してくれーっ!』と叫びたくなるほど眩しい笑顔を 氷河のために作ってくれたのだった。

おかげで、氷河は、その夜一夜を、瞬の笑顔の幻影に苦しめられ続けて過ごすことになったのである。
このレベルの試練に40日間も耐えたというのなら、もしかしたらイエスという男は実に偉大な人物だったのかもしれない。
クリスチャンであるにもかかわらず、その夜、氷河は生まれて初めて イエスという男を心から尊敬することになったのだった。

とはいえ、それでも とにかく、氷河の試練の日々はまだ始まったばかり。
地獄の苦しみを耐え抜いた氷河は、翌日再び、彼の仲間たちに仕事を求めなければならなかったのである。
「何か仕事はないか」
「ないない」
仲間の苦渋も苦衷も知らず、星矢の答えは投げやりそのもの。
氷河の求めに応じてくれたのは、今日も、氷河の胸中に罪な恋を生じせしめている、瞬その人だった。

「あ、じゃあ、僕の買い物に付き合ってくれる?」
まるで氷河を堕落させるために悪魔によって遣わされた天使のように 可愛らしさを全開にした瞬が、小首をかしげて氷河に お伺いを立ててくる。
「買い物?」
迷える子羊に 今度はどんな試練を課すつもりなのかと戦々恐々しながら問い返した氷河を、瞬が 瞳に優しい光をたたえて見詰め返してくる。
「うん。今夜、星の子学園で花火大会をすることになってるの。子供たちがね、花火大会してくれたら、夏休みに毎日 絵日記をつけて宿題するって約束したとかで。運動場で、小さなキャンプファイヤーして、カレーを作って、花火をあげるんだって。美穂ちゃんたちは学園でその準備をしなきゃならないから、子供たちの花火の買い出しの引率をしてほしいって頼まれたんだ。でも、20人以上いる子供たちを僕一人で見ているのは不安だから……」 

『あのガキ共が、そんなことくらいで真面目に宿題をするはずがない。花火大会などやるだけ無駄だ!』
と怒鳴りつけたい気持ちを、氷河は理性で抑えつけたのである。
そんな怒声を響かせ、瞬が提供してくれる仕事を退けてしまったら、迷える子羊は、憤怒と傲慢と怠惰の罪を同時に犯すことになってしまう。
結局、その日 氷河は、怒声をあげる代わりに、星の子学園の腕白小僧たちを引率して 近所のホームセンターに赴くことになったのだった。
瞬と一緒に。

瞬と二人きりでない分、今日の試練は 昨日のそれより楽なはずだと たかをくくっていた氷河の考えは、全く正しいものではなかった。
瞬と二人きりでないために危ない気持ちが(あまり)生まれてこないのは幸いなことだったのだが、氷河が引率していった子供たちは、彼等自身が大いなる災厄にして試練だったのだ。

彼等はまず、静かに花火選びに興じるということができなかった。
花火を一つ手に取るたびに 無意味な喚声をあげ、ホームセンターの広いフロアに木霊させる。
その上、フロアを走り回る者、花火には全く関係ない商品に興味を示して触りまくる者、喧嘩をして泣き出す者、玩具コーナーから離れない者、アイスクリームが食べたいと駄々をこね始める者、アイスクリームより バナナチョコカスタードプリンクレープの方がいいと主張する者、迷子放送の世話になる者、ETC.ETC.
殺意はあるが分別もある敵と闘っている方がどれほどましかと、20数人の子供たちが作り出す阿鼻叫喚の中で、氷河は思ったのである。

だが、もちろん、氷河はそこで怒りに任せて怒声や恫喝で子供たちを大人しくさせるわけにはいかなかった。
そんなことをしたら、氷河は、神の与えた試練に耐え切れず、憤怒の罪と労働の放棄による怠惰の罪を犯すことになるのだから。
氷河にできることは、ひたすら無言で、群から離れて集団行動を乱す子供たちを捕まえ、つまみあげ、元の群の中に引き戻すことだけだった。

それは、まさに羊飼いの仕事。神の御心に添う仕事だったのだろう。
まさか神が氷河の忍耐に感じ入り、悪魔を通じて羊飼いに褒美を与えようとしたのではないだろうが、一連の労働を終えた後に 氷河が得ることができたのは、
「氷河、ありがとう。僕ひとりだったら、とてもあの子たちを静かにしておくなんて無理なことだったよ」
と告げる瞬の感謝の眼差しだった。
氷河の罪深い心臓は、昨日にも増して強く大きく高鳴ることになったのである。

それだけならまだしも、その日の夕食後、氷河は、瞬が星矢や紫龍たちに、
「氷河って、本当に親切で優しいね」
などと語っているのを漏れ聞くことになってしまった。
氷河の心臓が腸捻転を起こしそうなほど大騒ぎをすることになったのは 言うまでもない。
氷河は、瞬の好意的な評価に胸をときめかせながら、神の試練の強烈さに 苦悶することになってしまったのである。






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