迷える子羊が過酷な試練に打ち克つことができるかどうかは、ひとえに、自分が瞬の魅力に抗し続けることができるかどうかにかかっている。
その厳しい事実を苦く つらく思いながら、耐え続けた試練の日々。
氷河に罪を犯させる真の悪魔は、だが、思いがけないところからやってきた。
しかも、この日を耐え抜けば40日間の忍耐の日々は ついに終わりを告げるという、まさに最終日の朝に。

例によって例のごとく 夢の中の瞬の甘美かつ強力な誘惑と戦っていた氷河は、妙に攻撃的で害意に満ちた その空気を、最初は、ひどく不粋で邪魔なものと認識した。
瞬の誘惑に比べると 全く美しくなく、快くなく、雑多な印象の強い不純物。
氷河は、そう感じたのである。
それが現実の世界に存在する不純物で、しかも、敵意殺意を含んでいると気付いた瞬間、氷河は ぱっと覚醒した。
『敵襲』という言葉を氷河の許に運んできたのは、氷河の意識だったのか、既に戦いの中に身を置いているらしい彼の仲間たちの現実の声だったのか――。
早朝の城戸邸は、アテナを害しようとする数十人規模の邪悪の徒に囲まれていた。

ベッドの上に跳ね起きた氷河は、もちろん すぐに仲間たちの許に向かおうとしたのである。
だが。
敵の数は多いが、彼等の個々の力は さほどのものではない――という事実を感じ取った時、氷河の胸中には逡巡が生まれた。

神ならぬ身の人間が暴力腕力で他者を傷付け、場合によっては命さえ奪う行為は、キリスト教においては――キリスト教に限ったことでもないだろうが――最も忌むべき大罪である。
今ここで 彼が仲間たちに合流し敵を傷付け倒すことは、これまでの忍耐の日々をすべて水泡に帰すことだった。
可憐な悪魔の誘惑に苦しめられ、呻き、身悶えながら苦難に耐えた日々を無にすること。
血を吐く思いで耐えてきた これまでの長い時間が 何の意味も持たない ただの“過ぎた時間”になってしまうことだったのだ。

そんなことができるだろうか――。
アテナの聖闘士にあるまじきことを氷河が考えたのは、ある視点から見れば致し方のないことだったかもしれない。
敵の数は多いが、彼等は星矢たちが倒せないほどの数も力も有していない。
白鳥座の聖闘士が寝た振りを装って戦いに参加しなくても、大局に決定的な影響を及ぼすことはない。
そんなことが 現実の戦いの様子を見ていない氷河にも 容易に感じ取れるレベルの敵だったのだ、彼の試練の40日目に出現した敵たちは。

それが合理的な対処方法。
今は狸寝入りを決め込むことこそが、キリスト教の神のお気に召すことで、女神アテナが傷を負うこともなく、迷える子羊も罪を犯さずに済む、最も合理的で効率的な対処方法であることが、氷河にはわかっていた。
わかってはいたのだが。

「わあっ!」
氷河の部屋の窓の下から聞こえてきた瞬の声が、氷河の合理性や理性を吹き飛ばしてしまったのである。
「瞬! ばか、なにやってんだよ!」
「大丈夫か、瞬!」
星矢と紫龍が、戦闘中に不覚をとったらしい瞬を叱咤し、その身を案じている。
いったい、瞬の身に何が起きたのか――。
瞬の安否を自身の目で確かめられないことが、氷河の心を乱し狂わせた。
氷河は、それ以上 神の従順なしもべでい続けることはできなかった。

「くそうっ!」
真に愛すべき人との巡り会いが何だというのか。
神の禁じた愛がどうだというのか。
それが不道徳な愛でも、人倫に もとる恋でも、そんなことはどうでもいいことで、何でもないことである。
瞬が死んでしまうことに比べたら。
瞬が死んでしまったら、それは、不道徳な恋に迷っている男の世界の終わりを意味する。
瞬のいない世界で 神の求める清貧やら道徳やらを実行しても、それは無意味で無益で空虚な善行でしかない。
氷河が この恋を恐れたのは、ただただ自分の邪まな罪に瞬を巻き込みたくないからだったのだ。

聖衣を身につける時間も惜しいとばかりに、氷河は、昨夜就寝した時の格好のまま、自室の窓から敵と仲間たちのいる庭に飛びおりたのである。
裸足で庭におり立った氷河が、その瞬間に思ったことは、『若い肉体の朝の反応に対処するため、下着を穿いていてよかった』ということだった。

「瞬、大丈夫かっ。すまん、寝過ごした。許してくれっ。おまえを傷付けた不届き者はどいつだ!」
庭にいた4、50人の敵を、氷河が(ぱんついっちょの姿で)ひと渡り睨みつける。
「氷河……」
実は 自分で勝手に転んで尻餅をついただけだった瞬が、怒り心頭に発しているらしい氷河に答えを返せずにいる間に、氷河は 勝手に瞬を傷付けた不届き者を特定し、その男――ただの か弱い雑兵である――に、キグナス氷河 渾身の凍気をお見舞いしてしまっていた。
「貴様、よくも俺の瞬を!」
「俺は何もしていないーっ !! 」

チャンスがあったら何かするつもりではいたのであろうから、か弱い雑兵が『何もしていない』と言い切るのは卑怯な行為ではあったろうが、その点を酌量しても、それは明らかに冤罪だった。
だが、そんな些細な(?)ミスが何だというのだろう。
氷河のこれまでの忍耐の日々が無になることは、もはや決定したことなのだ。
よりにもよって試練の日々の最後の40日目に この事態。
『せめて20日前にこの襲撃があったなら、キグナス氷河の憤怒も これほど激しいものにはならなかったのだ!』と、胸中で声なき声を張り上げながら、氷河は、これまでの忍耐の日々の鬱憤晴らしを兼ねた大暴走を開始したのだった(ぱんついっちょで)。


「……俺、これから寝起きの氷河にだけは近付かないようにするぜ」
戦うべき相手をすべて(ぱんついっちょの)氷河に奪われてしまった星矢が、極寒地獄の様相を呈している城戸邸の庭を呆れ顔で眺めながら、ぽつりと呟く。
氷河が死者累々(死んでいなかったが)の庭のありさまを認め、自らの犯した罪の大きさに(ぱんついっちょで)呆然自失することになったのは、それから更に10分ほどの時間が経ってからのことだった。






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