総勢50人強の敵の8割までを たった一人で撃退してのけたというのに、氷河はすっかり落ち込んでいた。 朝食もとらずに(服は着て)肩を落とし項垂れてラウンジのソファに掛けている氷河の姿を認めた星矢たちは、塩をかけられた青菜もかくやと言わんばかりの氷河の様子に首をかしげることになったのである。 「どうしたんだよ。そんなに 星矢の賞讃(?)を受けても、氷河は浮上する様子を見せない。 浮上するどころか、彼は 更に深いところに沈下していくような声で、 「俺はもう……。俺の人生はもう一生 闇の中だ」 と、仲間たちの前で呻いてみせた。 「どうして、そんなことを言うの」 「……」 光も射さない深海の生物になろうとしている男に、悪魔が優しく、気遣わしげな目をして尋ねてくる。 氷河は、瞬の澄んだ瞳の中に地獄を見た――ような気がしたのである。 その地獄は 明るい光で満ちあふれ、その光の中では色とりどりの花が我が身の美しさを誇るように咲き乱れていた。 美しい地獄から目を逸らし、氷河は、地獄の百分の一も明るくなく、悪魔の百分の一の優しさも有していない神と聖職者の話を、仲間たちに打ち明けることになったのだった。 「先日、思うところがあって教会に出掛けていったんだが……。そこの神父が俺に言ったんだ。いかなる罪も犯さずに40日間を耐えたら、41日目の朝、俺は、俺が真に愛すべき相手に出会えるだろう――と。俺はその言葉に従って、清貧と勤労の日々を守ってきた。今日がその40日目だったんだ。俺はよりにもよって、今日を耐え抜けば苦労が報われるっていう最後の日に、敵とはいえ人を傷付け倒すという大罪を犯してしまった……」 「は……?」 「へ……?」 「え……?」 氷河の告白を聞いた彼の仲間たちが、互いに顔を見合わせる。 アテナ以外に神を持たない彼等には、宗教的にダブルスタンダードを抱えた氷河の苦悩を、今ひとつ切実なものとして感じることができなかった――のかもしれない。 見知らぬ神への義理より、仲間の傷心を癒すことの方が はるかに重要で優先させるべきことだというような口調で、瞬が氷河を励ましにかかる。 「そんな……そんな神様の言うこと 信じちゃ駄目だよ。氷河がどんなに優しくて親切なのかってことは、僕がいちばんよく知ってる。神様が何て言ったって、それで氷河の誠意が報われないなんてことがあるはずないよ。それで氷河の恋が叶わないなんてこともあるはずないよ。ねっ」 「瞬……」 神は残酷なまでに冷徹で厳しいのに、悪魔は なぜこんなにも優しいのか。 思わず悪魔の誘惑に負けてしまいたくなって 俯かせていた顔をあげた氷河は、そこで思いがけないものを見ることになったのである。 すなわち、罪深い悪魔が零している綺麗な涙の雫を。 「おまえはなぜ泣いているんだ……」 「え?」 瞬は、自分が泣いていることに気付いていなかったらしい。 「泣いてる? 僕が?」 氷河に言われて、その頬に指で触れ、指先に触れたものに驚いたように、瞬が二度瞬きをする。 「あれ……変だな。僕は、氷河が神様を怒らせるような罪を犯したとか、氷河の恋が実らないかもしれないなんてこと、思ってないよ。だって、氷河は優しいし、綺麗だし、氷河を嫌う人なんかいるはずないんだもの。だから、僕が泣いたりする必要なんてないんだよ」 言う側から、ぽろぽろぽろと、瞬の瞳は涙を生み続ける。 「瞬……」 「ご……ごめんなさいっ!」 氷河は、瞬の瞳からあふれるものの方に 我知らず手をのばしかけた。 その手が瞬に触れる前に――触れられることを恐れるように――瞬が素早く その身を引く。 そして、瞬は、身を翻すようにして、氷河の前から――彼の仲間たちの前から――逃げていってしまったのだった。 「しゅ……瞬…… !? 」 開け放たれたままのラウンジのドア。 訳のわからない瞬の振舞い。 氷河は、ぽかんとして、既に瞬の影すらも残していない廊下の壁を見詰めることになったのである。 見詰めたまま、星矢たちに、 「俺は何か、瞬を泣かせるようなことをしたか」 と尋ねる。 「したした」 星矢の答えは、ほぼ即答と言えるものだった。 ということは、氷河には全く訳のわからない瞬の振舞いが、どういう事情によって為されたものなのかを、星矢は理解しているということである。 「な……何を」 氷河は、当然、重ねて星矢に尋ねた。 尋ねられた星矢が、彼の二度目の質問に呆れたように、両の肩をすくめる。 「何をって、そりゃあ……。あんなにさあ、 「それは……まるで、瞬が俺を好きでいるようじゃないか」 「そうだろ。おまえ、瞬にだけやたらと優しくしてたのは、瞬狙いじゃなかったのかよ? 俺たちは、てっきりそうなんだと思ってたぞ」 朝から ろくでもないもの(ぱんついっちょの男の裸)を見せられたせいで ずっと渋面でいた紫龍までが、氷河の鈍感に毒気を抜かれでもしたのか、気を取り直したような顔で星矢の意見に同意を示してくる。 「星矢の言う通りだ。だから、俺たちは、おまえの労働を手伝わずにいてやったんだ。おまえにしては、至極 正攻法なやり方を採用したものだと感心しながら」 別に氷河は、瞬の篭絡を図って、瞬のために“労働”にいそしんでいたわけではなかった。 単に、彼に仕事を与えてくれるのが瞬だけだったから、結果として、そういうことになっていただけで。 だが、今 問題なのは そういうことではなく――。 白鳥座の聖闘士が 瞬狙いで瞬にだけ優しくしていたという考えを、星矢や紫龍が全くおかしな考えだと思っていないらしいことこそが、今の氷河には大問題だったのである。 「し……しかし、俺は男で、瞬も男だ」 どもりながら氷河が口にした厳然たる事実を、紫龍は至って軽い様子で一笑に付してくれた。 そうしてから、彼は、まるで稀代の大馬鹿者を見るような目を、白鳥座の聖闘士に向けてきた。 「おまえは、何を言っているんだ。今は21世紀だぞ。19世紀のイギリスやドイツじゃあるまいし、今時、男が男に惚れるなんて、流行遅れと言っていいくらい ありふれたことだ。国連総会は、2008年の、よりにもよってクリスマスに、『性的指向と性自認に基づく差別の撤廃と人権保護の促進を求める』旨の声明を出している」 「いや、だが、倫理道徳上――」 「現代の倫理道徳は、同性愛忌避よりも、同性愛者を差別してはならないという方向に傾いているんだ。だいいち、倫理道徳というものは、時代や場所によって変わる、実にあやふやなものだ。今は、そういった性的指向で人を差別することの方が、非道徳的と非難される時代なんだ」 「……」 アテナの聖闘士の中でも特に儒教精神を尊重する保守派と思われていた男の、思いがけない自由主義的進歩的人道的(?)な発言に、氷河はあっけにとられることになったのである。 彼は単なる現実主義者にすぎないのかもしれなかったが、ともかく 紫龍の考え方は、氷河の意識の100年ほど先を行っていた。 そして、100年昔の世界に生きていたのは、この場では氷河だけだったらしい。 紫龍の発言を受けた星矢が 首を横に振ったのも、決して彼が紫龍の意見に反する考えを抱いていたからではなかったようだった。 「ま、おまえが瞬に惚れるならともかく、瞬がおまえを好きになるなんて、俺たちにだって、想定外のことだったけどな。事実はやおい小説より奇なり。瞬も悪趣味だよなー。瞬くらい素直で可愛い子なら、他にいくらでも恋人のなり手はいるだろうに、よりにもよって おまえなんかを」 「うむ。俺も、この手のことが起こるなら、逆だと思っていたな。まさか、瞬の方がおまえに片思いをすることになるとは。世の中には不思議なことが起こるものだ」 「片思いなんかじゃ――」 瞬は片思いなどしてはいない。 むしろ、瞬が白鳥座の聖闘士に好意を抱くようになる ずっと前から、氷河こそが瞬への片恋に苦しんでいたのだ。 その瞬が白鳥座の聖闘士に好意を抱いてくれているというのなら、片思いをしている人間など、ここには ただの一人もいないのである。 だが、だとしたら。 もし そうであったのだとしたら。 |