「瞬ーっ!」 どこかで聞いたことのある声が瞬を呼んでいた。 確かに聞き覚えがあるのに、それが誰の声なのかを、瞬はどうしても思い出せなかった。 そして、自分がどこにいるのかも。 その声のいる方に視線を巡らすため、顔を上げる。 途端に、瞬の視界は、眩しい光でいっぱいになった。 「ああ、いたいた。おまえ、また、こんなところに隠れて泣いてるのかよ」 「星矢……」 そう言って、雪柳の茂みを掻き分けて 瞬の前にやってきたのは、瞬がよく知っている人物だった。 元気な小犬のような目と、屈託のない笑顔の持ち主。 敵と戦い勝利するたびに沈んだ気持ちになるアンドロメダ座の聖闘士は、この笑顔に いつも 幾度も励まされ、そして そのたびに新たな希望を分けてもらっていたものだった。 それは、天馬座の聖闘士だった。 ただし、聖闘士になる前の。 6、7歳――8歳にはなっているのだろうか。 聖闘士の彼が持っていた それと全く変わっていない、明るい希望に輝く瞳。 小さな星矢が、瞬の目の前に立っていた。 「まあ、人前で涙を見せまいとする心掛けは立派だが」 その後ろから紫龍が――小さな紫龍が、姿を現わす。 髪はまだ肩の上までしかない。 穏やかさと激しさが入り混じって漆黒になったような紫龍の瞳は、瞬が見慣れていた大人の彼のそれより幼く――まだ感情を隠しきる術を知らない子供のそれだった。 「隠れて泣かれる方が、一輝にはつらいことだと思うぞ」 そして、氷河――小さな氷河。 陽光を受けて輝く金髪は、手入れらしい手入れもしていないように無造作な様子をしていたが、手入れをしてもしなくても変わらない彼の青い瞳は、成長した彼のものと同じ――この瞳と同じ色の宝石は他にないと確信できる眩しい美しさをたたえている。 彼は、今日も少々不機嫌そうだった。 だが、彼の声音と言葉は、 それもそのはず、この氷河は、一輝の弟を自分の恋人にするために鳳凰座の聖闘士と反目し合うという経験をまだ知らない氷河なのだ。 そう考えて、瞬ははっと我にかえった。 『今』とはいつだ? そして、今はいったい いつなのか――。 そこは城戸邸の庭だった。 瞬には見慣れた庭の一画。 咲いている花は、まだ浅い春のそれ。 僕が行く手にハーデスという悪魔がいることを知らずに冥界に赴いた時、春はもう終わっていたのに――と思いながら 白い花に手をのばしかけた瞬は、その手が不思議なほど小さいことに気付いた。 視線の高さも低い。 子供の姿をしているのは、星矢たちばかりではなかった。 瞬自身も子供になっていた――子供に戻っていたのだ。 その事実を自覚した途端、全身の血が逆巻き始めたような、そんな感覚に瞬は襲われたのである。 この大きな驚き、我が身の変化に、この小さな身体は耐えられるのかと思うほどの混乱。 緊張と驚愕のために、唇が震える。 緑の下草の上に座り込んでいた瞬の身体――瞬の小さな身体――は、もう二度と立ち上がることは不可能なのではないかと思われるほど、重く固く強張った。 記憶はある。 この春が過ぎた頃、自分たちが それぞれの修行地に送り出され、聖闘士になって帰国し、戦いの日々が始まることを、その戦いの日々の一日一日を、小さな瞬は明瞭に憶えていた。 そして、非力な人間をからかい嘲笑うようにハーデスが告げた、『試してみよう。生き直す機会が与えられたなら、そなたは そなたの二度目の人生をどのようなものにするのか』という言葉も、小さな瞬は はっきりと憶えていたのである。 では、ハーデスが世界の時間を過去に戻したのだろうか。 しかし、それなら、彼の依り代にされた人間に過去の(未来の)記憶が残っているのはおかしな話である。 世界の時間が過去に戻ったのなら、逆行した分の時間はまだ流れていないことになり、その間の記憶も消えるはずなのではないか。 それとも、そういうものではないのだろうか。 瞬にわかるのは、ただ、自分がこれから未来に向かう7、8年分の記憶を持って、幼い頃の自分の世界と時間の中に存在している――ということだけだった。 「どうしたんだよ、瞬、ぼーっとして。蛮に投げ飛ばされた時、アタマでも打ったのか? ぱーになるのは、今日のおやつ食ってからにしろよ、おやつ」 「おやつはさておき……瞬。おまえ、本当に耐えられないほど つらいなら、城戸翁に言って、聖闘士候補から外してもらったらどうだ? おまえには ここでのトレーニングはきつすぎるんじゃないのか?」 瞬の自失を消沈と誤解したのか、星矢が 紫龍が こんなに幼い頃から自分には厳しいくせに他人には優しい――というより、甘い――少年だったことを初めて知り、瞬はつい こっそりと苦笑してしまったのである。 紫龍は、柔弱な仲間がこれから飛躍的に強くなることは望めないだろうと感じ、その身を 心から気遣っているのだろう。 仲間の可能性ではなく現実を見て、仲間に同情し、彼は 瞬にリタイアを勧めている。 だが、瞬は、そんなことは絶対にできなかった。 そんなことをしたら、兄と同じ道を歩いていくことができなくなるではないか。 それは、瞬には あり得ない選択だった。 二度目の人生でも。 「瞬?」 トレーニングに戻ることを嫌がっているというより、心ここにあらずといった 星矢に名を呼ばれて、瞬は、自分が今どう振舞うべきなのかを迷うことになったのである。 今は彼等に奇異の念を抱かせないために、泣き虫の瞬らしく振舞うべきなのだろうか――と。 だが、それでは、何のための“二度目”なのか わからない。 今 二度目の生を生き始めた瞬の肩には、兄の命と世界の命運がかかっているのだ。 瞬は、強くならなければならなかった。 そして、兄にあまり愛されないようにしなければならなかった 「トレーニング、続けられるか?」 星矢は、そうすべきだと考えているらしい。 そして、氷河の考えは そうではないらしかった。 「馬鹿。今日はもう 瞬にはトレーニングは無理だ。瞬が泣いたら、その日の瞬のトレーニングは そこで終わり。瞬、おまえは部屋に帰ってろ。辰巳の馬鹿には俺から言っておいてやる」 “瞬”に恋する前の氷河は、“瞬”に対しても口が悪い。 だが、それが氷河なりの優しさなのだということを、今の瞬は理解することができた。 そんなことをしたら、“泣き虫の瞬”の代わりに辰巳に罰を与えられるのは氷河自身なのだから。 こんなにも幼い頃から、自分は仲間たちに庇われ 守られていたのだ――。 そう思うと、瞬の瞳には、涙が盛り上がってきてしまったのである。 仲間たちの優しさが胸に迫り、自らの弱さが情けなくて。 「ほら、今日は瞬はもう無理だ」 「大丈夫だよ」 涙を拭うと、瞬は、仲間たちを安心させるための笑顔を作り、そして、その場に立ち上がった。 今から数年後、ハーデスは この世界を死の国にするための計画を実行に移し始める。 その計画を打ち砕くまで、彼等の優しさに甘えることは 自分には許されないのだと、自戒に似た決意を その胸に刻んで。 瞬が仲間たちと共にトレーニングルームに戻っていくと、兄がそこで弟を待っていた。 余計なことは言わず、短く、 「瞬。大丈夫だな?」 とだけ尋ねてくる。 「はい」 瞬も、問われたことへの答えだけを、兄に返した。 厳しく強く優しい兄。 紫龍や氷河のように甘くはない兄。 それもこれも ひ弱な弟の現在と将来を案じればこそ。 弟に強くなってほしいと願えばこそ。 この人の命を守らなければならないと、幼い兄の瞳に出会った瞬は、その決意を新たにしたのである。 一度目の人生では失敗した。 だが、同じ過ちや弱さを繰り返すつもりはない。 自分の弱さがどんな事態を招くのかを知っている今の自分なら、“一度目”の時よりも はるかに強い自分になれるはずだと、瞬は思った。 |