“二度目の自分”は“一度目の自分”より強い人間になれるはず――否、そうなるものと瞬は決めつけていたのだが、事は そう容易には運ばなかった。 “一度目の自分”より強くなるための努力を、今日たった今から開始しようと決意した瞬の身体は、だが、あまりに幼く、しかも ほとんど鍛えられていない者のそれだったのだ。 トレーニングを忌避していたせいもあったろうが、それは むしろ瞬の年齢――若年のせいだった。 成熟していない身体を鍛えるには限界がある。 無謀な鍛錬は、幼く未熟な身体に障害を残すことにもなりかねないのだ。 それくらい、 強くなるという決意を即座に実行に移せないことに焦れる自らの心を、瞬は懸命になだめたのである。 焦ることはない。 時間はまだたっぷりある。 ハーデスが彼の野望を実行に移す時まで、まだ7、8年の猶予があるのだから、自分は その時に照準を合わせて、注意深く心身を鍛えていけばいい。 今はまだ雌伏の時なのだ――と。 「おまえ、最近、泣かなくなったか?」 「前と同じくらい泣いては いるだろう。ただ、泣くタイミングが、これまでと ずれているんだ。前は、痛い思いをしたら すぐに泣いていたのに、今は、俺たちに『大丈夫か』と訊かれてから泣くようになった……ような」 「あー、そうかもしれない。タイミングが ずれてるだけかも。昨日なんか、俺が『馬鹿力の檄に投げ飛ばされても泣かないなんて偉いぞ』って褒めてやった途端に泣き出したんだよな、おまえ」 二度目の生を生き始めて しばらく経った頃。 ふいに星矢たちにそんなことを言われた瞬は、仲間たちに どう応じたものかと答えに窮することになったのである。 二度目の生を生き直し始めた時、瞬は二度と泣かないという決意をし、実際、トレーニングのつらさに泣くことはなくなっていた。 だが、大人の思慮を有した瞬の目は、“一度目”の時には気付かずにいた多くの事実を認めることになり、それらの事実が しばしば瞬の心と涙腺を刺激してきたのだ。 自分のことで精一杯の子供のはずの仲間たちが、ひ弱な仲間に示す 優しさや思い遣り。 それらのものに出会うたび、瞬は どうしても泣かずにいられなかったのである。 人に『優しい』と言われるのは、仲間内では いつも瞬の役目だった。 自分でも そうなのだろうと、瞬は思い込んでいた。 だが、事実はそうではなかったことに、瞬は、二度目の生を生き始めてから知ったのである。 幼いうちから、瞬の仲間たちは、非力な仲間に 大人顔負けの優しさを示してくれていた。 時には不器用に。 時には乱暴に。 瞬は、そのことに気付かずにいた“一度目の自分”が恥ずかしく思えるほどだったのだ。 二度目の生を生き始めてから、瞬は、優しさというものは、やはり強さがあってこそ生まれるものなのだという認識を より強くすることになった。 瞬の瞳が涙を生むのは、仲間たちに『ありがとう』と言う時だけで、瞬は 身体に受ける苦痛のために 手がつけられないほど大泣きすることはなくなっていた。 泣く回数はともかく、涙の量は格段に少なくなっていたかもしれない。 そんな瞬の変化は、星矢たちには歓迎すべきものだったらしいが、氷河にはそうではなかったらしい。 仲間たちの明るいやりとりの横で、彼は不機嫌そうに顔を歪めていた。 そして、氷河は、その不機嫌を抑え隠していることができなかったらしく――彼は 苛立たしげな声と目で、瞬につっかかってきた。 「おまえ、この頃 変だぞ。瞬」 「変?」 「俺が知ってるおまえは――」 「氷河が知ってる僕は? 氷河が知ってる僕は、どんなだったの?」 幼い頃の氷河が自分のことをどういう子供だと思っていたのかを知りたくて、瞬は彼の顔を覗き込んだ。 氷河が、至近距離にある瞬の瞳を見て、ますます むっとした顔になる。 氷河は、そんな瞬の所作や反応を“変”だと――これまでとは違うと――感じ、気に入らないでいるらしい。 彼は、まるで その変化を責めるような口調で、瞬を怒鳴りつけてきた。 「俺の知ってる瞬は、俺に そんなふうに聞き返したりしない奴だった……!」 「あ……」 それはそうだろう――と、瞬は思ったのである。 “一度目の瞬”は、そんな命知らずではなかった。 弱く幼かった“一度目の瞬”は、氷河を、“不機嫌でいることの多い、ちょっと恐い仲間”として畏怖していたのだ。 「ご……ごめんなさい。ごめんね。怒らないで」 まだ10歳にもなっていない氷河を、今は恐いとは思わないが、自分のせいで不機嫌になっている氷河を見ているのは つらい。 瞬は“大人”の余裕を本気で忘れて、おろおろしながら氷河に謝罪することになった。 それが“氷河の知っている瞬”らしいことだったからなのか、瞬を睨んでいた氷河の目は 徐々に気遣わしげなものに変わっていった。 「おまえ、無理してるんじゃないのか……?」 「え?」 「おまえは、もう少し楽に――自然にしてていいんだぞ。急に強くなろうなんて思う必要はないんだ。無理して気を張って頑張りすぎるとさ、人間の気持ちってのは、ある日突然 ぽきっと折れてしまうんだ。そんなことになったら まずいだろ。おまえには、おまえが壊れずにいられるペースってのがあるんだからさ」 「氷河……」 “瞬”の幼い仲間たちは、この思い遣りと優しい心を、いったい いつ、どうやって培ったのだろう――? 瞬は、それが本当に不思議だったのである。 その手本を示してくれるような大人は、ここには一人もいないというのに。 『二度と泣かない』という決意はどこへやら、瞬の瞳に涙が盛り上がってくる。 瞬は、そして、こんなにも優しい仲間たちが生きる世界を守るためになら、自分はどんなことでもするだろうと、心の底から思った。 自分が非力な仲間を泣かせるようなことをしてしまった自覚がないらしい氷河が、潤み始めた瞬の瞳に ぎょっとした顔になる。 氷河を戸惑わせないために、瞬は慌てて涙を拭った。 「うん。でも、頑張りたいの。無理をするんじゃなく、これまでよりちょっとだけ頑張りたい」 「毎日泣いてるだけよりは、ずっといいんだけどさ……」 「うん」 「でも、俺より強くなったら駄目だぞ」 「うん……え?」 拭い損ねた涙の残っていた瞳を見開いて、瞬が氷河の顔を見上げると、氷河は その視線の先で つんと唇をとがらせて横を向いてしまった。 優しく思い遣りに満ちた氷河は、実はそれが嫌だったらしい。 ぷっと噴き出しそうになるのを必死にこらえて、瞬は氷河に幾度も頷いた。 「うん。うん。氷河はいつだって僕より強いよ」 「当たりまえだ」 僅かに怒りを含んだような声でそう断じる氷河を『可愛い』と感じる余裕は、一度目の生ではなかったこと。 新しい発見に出会うたび、仲間を思う瞬の心は強く深くなっていった。 時間はまだある。 ハーデスに会うのは、まだずっと先。 二度目の人生で経験する城戸邸での幼い日々は、瞬にとっては一度目のそれより はるかに楽しく幸福なものになった。 それは思いがけない――嬉しい誤算の連続だった。 同時に、瞬は、一度目の自分が 仲間たちの優しさに気付けない鈍感な人間だったという事実を思い知ることにもなったが。 瞬の二度目の人生での誤算は もう一つあった。 瞬は、当初は、二度目の生では、自分は兄に嫌われる弟にならなければならないと思っていたのである。 だが、それは してはいけないことだと、瞬は、二度目の人生を生き始めてまもなく悟ることになった。 一度目の人生を生きていた時、瞬は、自分はいつも兄の足枷であり重荷でしかないと思っていた――信じていた。 だが、大人の目を持って生き始めた二度目の人生の中で、瞬は、決してそうではなかったことに気付いたのである。 もちろん、ひ弱で泣き虫の弟が兄の荷物であったことは紛う方なき事実だったろう。 しかし、その 不甲斐ない弟が、実は 強い兄の支えであったことに、瞬は二度目の人生で気付くことになった。 泣き虫の弟が、突然 自立心に目覚め 兄に頼ることをやめてしまったら、その時 ひとりで立っていることができず崩れてしまうのは、泣き虫の弟ではなく、強い兄の方だということに、瞬は気付いてしまったのである。 とはいえ、一度目の生と同じように、自分が兄にすがり頼るだけの弟であり続けたら、“瞬”が二度目の人生を生きる意味がない。 ほどよく 兄に頼り、少しずつ兄のおかげで強くなっていることを示しながら自立を図る。 そうすることが最善の策だろうと、瞬は当初の計画の変更を余儀なくされた。 いずれにしても、兄と弟に別れの時が近付いていた。 |