「瞬」 叫んだ瞬に答えを返してくれたのはアテナだった。 懐かしく温かい、神でありながら人間よりも人間らしい、だが、確かに神の力を持つ者の声――が、どこからか響いてくる。 否、それは声ではなく、瞬の心に直接響いてくるアテナの想念だったのかもしれない。 「人生を二度生きるなんて、してはいけないことよ。人生をやり直しても、何も解決しない。あなたが今 考えるべきことは、あなたが過去をどう生きればよかったのかということではなく、これからのあなたが どう生きていくべきなのかということ。そして、その答えは神にも与えられない。だから、自分で考えなさい。今、あなた自身が強くなりなさい。二度目のあなたではなく」 アテナは知っていたようだった。 瞬が二度目の生を生きていたことを。 いったい神にとって、時間とは、人間の命とは、どういうものなのか。 一瞬、そんな疑念が 瞬の胸中に生まれたのだが、瞬は すぐにその疑念を振り払った。 人間である自分が そんなことを知ってもどうにもならないことは、神ならぬ身の瞬にも――神ではないからこそ、瞬にも――わかった。 『今、僕が?』 「今、あなたが」 『でも、今っていつなの……!』 「あなたが、あなたのただ一度だけの人生を生きていた時よ。瞬、ハーデスに弄ばれてはなりません。あなたが、あなたの意思で、すべてを元に戻すのです」 『でも、そんなことをしたら、兄さんが死んでしまう……!』 「いいえ。一輝は死にません。これほど自分を犠牲にして、これほど自分の人生のすべてをかけて戦ってきた私の聖闘士たちを、私がむざむざ死なせると思うの。あなたたちが生きていたいと願う限り、私はあなたたちを守ります。瞬、私を信じて」 『アテナ……』 アテナが信じろというのだから、もちろん瞬はアテナを信じた――信じることができた。 アテナとアテナの聖闘士たちの間にあるものは、長い時をかけ 多くの戦いを経て培ってきた信頼で、それは裏切られても信じ続けられるほどの強い絆だった。 そのアテナが、『すべてを元に戻せ』と言っているのだ。 それは可能なことであるに違いなかった。 違いないと信じて、瞬は、祈り、願い、命じた。 自分の時間に。 「戻って……戻れ……!」 ――と。 そして、もちろん瞬の時は戻ったのである。 ジュデッカから黄金聖闘士たちの姿が消え、代わりに、そこには沙織とシャカの姿があった。 シャカは その目を閉じていたが、今の彼が、瞬の二度目の人生の中で この薄闇に覆われた場所に立った時より はるかに冷静な目をしていることが、瞬にはわかった。 薄闇の宮の中に、瞬の姿をしたハーデスに倒された兄の姿は既になかった。 どこかに運ばれてしまったのだろう。 だが、兄は生きていると、瞬は信じた――感じた。 兄は、兄の信じるアテナによって守られている。 なにより、瞬の兄は“最も神に近い男”と戦って生き延びた聖闘士、そう簡単に死んでしまうはずがないのだ。 時間がすべて元に戻っていた。 ハーデスの中にいるせいか、瞬は二つの人生の記憶を持っていたが、今の自分は一度目の――ただ一度だけの人生を生きている自分だと感じる。 アテナがハーデスに向かって――ハーデスの中にいる瞬に向かって――にこりと微笑む。 未だハーデスに支配されたままの“瞬”の身体。 だが、瞬は、ハーデスの中で、アテナの心が自分の側にあることを感じていた。 これまで、いつの時もそうだったように。 「やっと迷宮から出てきてくれたわね」 「アテナ……」 ハーデスに支配されている瞬の身体を壊そうとするシャカを制して、アテナがハーデスに――瞬に――歩み寄ってくる。 「あなたは、ただ一度の人生を生きている者だから強いのよ。人は、やり直しのできない人生を生きているから、強くなれるのよ」 微笑んで そう言い、アテナはあろうことか、自分の歯で自分の指を噛み切って、その血を瞬の額に押しつけた。 途端に、瞬の中にいたハーデスがもがき苦しみ出す。 ハーデスを苦しめているものは、神の血ではなく、神であるアテナと 人間である彼女の聖闘士との間に培われた絆であることが、瞬にはわかった。 ハーデスは苦しんでいるのに、瞬は少しも苦しくなかったから。 むしろ瞬は、自分が今ほどアテナに守られている時はないと感じていた。 その神と人間の絆の強さに耐え切れず、ハーデスが瞬という人間の身体から逃げていく。 突然 世界が重く自分の上にのしかかってきたような感覚に襲われ、瞬は、その場に崩れ落ちた。 |