「……そんなはずないのに」
唐突な氷河は、今日のところは 恋の告白を実行したことで気が済んだらしく、本当に瞬の答えを受け取らぬまま、やはり唐突に瞬の前から姿を消してしまった。
色々なことが迅速に過ぎる氷河の振舞いに呆けていた瞬は、立ち去った彼を慌てて追いかけて 答えを押しつけるのもきまりが悪く、その作業は明日にまわすことにして、金色の“何か”の正体を探るべく、庭におりていったのである。

「このあたりだったと思うんだけど……」
白い薔薇の潅木の周辺に、だが、人がいた痕跡はない。
瞬は、気のせいだったのかと思い、気のせいだったのだと自身に言いきかせた。
氷河に好きだと言ってもらえたことが嬉しくて、嬉しさのあまり動転し、自分は ありもしないものを見たような錯覚に囚われただけだったのだと。
氷河の唐突な告白が為された時、太陽は西の山際に隠れ始めていた。
空には、まだ月も星も出ていなかった。
あの時、誰かが二人を見ていたとしたら、それは神様くらいのもののはずなのだ。
――そう考えて、瞬が踵を返そうとした時だった。
氷河の告白よりも更に唐突に、一人の少女が瞬の前に姿を現わしたのは。

その日 最後の残光の中に立つ その少女を見て、瞬は、あの時 自分の視界に映った金色のものが何であったのかを知ることができた。
緩やかな光の波を描いて流れる長い髪。
アールヌーヴォー期のマイセン人形のように美しい、その少女の髪が金色だったのだ。
薄緑色のワンピースが庭の植物の緑に重なるせいで、その金色の髪が特に目立つ。
体格から察せられる年齢は10歳前後なのだが、美しすぎる造作というものは 人間を実際の年齢より大人に見せるものなのか、少女はもっと歳がいっているようにも見えた。

「君は……どこからこの庭に入ったの」
瞬には初めて見る少女である。
今日 この家に訪問者がある話も、瞬は聞いていなかった。
そして、この家は、招かれていない客が勝手に入り込めるような家ではない。
グラード財団総帥にして、聖域を統べる女神アテナの住まう邸宅は、そんな生ぬるいセキュリティシステムを施されてはいないのだ。
だが、彼女はそこにいる。

少女は、瞬の問いかけに答えを返してこなかった。
無言のまま 瞬にくるりと背を向けて、庭の更に奥に向かって駆け出す。
彼女が、自分が何者なのを堂々と答えられない人物であることは確からしい。
「待って……!」
瞬は、すぐに彼女のあとを追ったのである。
不思議なウサギを追いかける少女の話なら知っているけど――と、そんなことを考えながら、瞬は、不思議な少女のあとを追いかけたのだった。

城戸邸の庭にこんなアーチがあったろうかと訝った時には、瞬は既にその蔓薔薇のアーチをくぐり抜けたあとだった。
途端に、瞬の周囲が明るい光で包まれる。
これまで夕暮れの中に――光とも闇とも言い難い曖昧さの中にいた瞬は、そのはっきりした明るさに 軽い目眩いを覚えたのである。

変わったのは光の有無や明暗だけではなかった。
城戸邸の庭は夏の薔薇でいっぱいだったのに、そこは春だった。
春の野。
そこは庭ですらなく――シロツメクサの花と葉でできた 緑と白の絨毯が広がっている広い野原だったのだ。
振り返ると、たった今 瞬がくぐったはずの蔓薔薇のアーチがない。
瞬の周囲のどこにも 人の手で育てられた薔薇の花はなく、城戸邸の敷地を取り囲んでいた塀の影もなかった。
真夏の夜の空気も消え、周囲には春の昼下がりの暖かくやわらかい陽射しが充満している。
ここはいったいどこなのだとキツネにつままれたような気分で見上げた空も、夏の宵の空ではなく、淡い白を帯びた春の水色の空だった。

全く見覚えのない場所。
記憶の中から、しいて似ている場所を挙げるとするなら、それは冥界のエリシオンの苑に似ていた。
いずれにしても、この風景の変化は尋常ではありえないことである。
何か不思議なことが起きている――と瞬が感じたのも、そこがエリシオンに似ているからだったろう。
瞬は、これはハーデスの仕業なのではないかということを、まずいちばんに疑った。
あの冥府の王が実は滅んでいなくて、彼の野望を挫いた者を罠にかけようとしているのではないかと、瞬は思ったのである。
だが、すぐに、あの冥府の王が、たとえ“敵”を罠にかけるためでも これほど光に満ちた 暖かさでいっぱいの場面を作ったりはしないだろうという考えが生まれてくる。
永遠至福の楽園である(らしい)エリシオンの苑でさえ、明るさはあっても陽光はなかった。
しかし、この春の野には陽光が満ちあふれているのだ。

そのあふれるような光の間を縫うようにして、どこからか水音が聞こえてくる。
瞬は、その水音に引かれるように、春の野の中を歩き始めた。
おそらくは瞬の世界と この春の野の境界なのだろう あのアーチをどこにも見い出せない今、瞬は、他に自分が向かうべき場所がわからなかったから。

ささやかな小さな丘を一つ越えたところに、幅が2メートルもないような小川があった。
小川には、緩やかに山なりになった小さな橋が架かっている。
小川が作る水音に混じって、誰かの歌声――瞬の知らない歌を歌う声――が聞こえてきた。

  「この橋の上で あの子と見たのは
   澄んだ水にいつも映る笑顔ふたつ
   澄んだ水にいつも映る笑顔ふたつ」

歌っていたのは、あの金髪の少女だった。
明るい歌詞――決して暗く悲しい歌詞ではない――が、どこかもの悲しげに聞こえるのは、少女の歌声がガラスでできた楽器のような響きを有していたからだったかもしれない。

小川に架かる橋は、幅が1メートル弱ほどしかない可愛らしい橋で、土台は木のようだった。
その上に粘土質の土が盛られており、その上に更に、風が運んだのか 人が運んだのか、植物が根を張ることのできる土が重なっている。
橋の左右の脇は、シロツメクサの花と葉の白と緑で縁取られていた。
その橋の向こうの野原にも、緑と白のシロツメクサの絨毯が敷かれている。
橋の向こう、小川の岸の緑の絨毯の中に座り込んで、彼女はシロツメクサの花と葉で何かを編んでいた。

「君は誰。ここは……」
瞬は、彼女に尋ねたのである。
急に近付くと 彼女が恐がって逃げてしまいそうだったので、橋を渡ることなく、小川の岸のこちら側から、あまり大きくない声で。

「ナターシャよ」
氷河の母と同じ名前を、少女が口にする。
それで、瞬は気付いたのである。
彼女の髪の金色が、氷河のそれと同じ金色だということに。
「ママに教えてもらった歌なの」
「え? ああ、今の歌?」
「うん。パパは歌は知らないの。でも、シロツメクサの花冠や首飾りの作り方はパパに教えてもらったのよ。これが作れると、好きな子に喜んでもらえるから、パパは子供の頃に一生懸命 編み方を覚えたんだって」
「へえ」

瞬が我知らず微笑んでしまったのは、少女の言葉が、瞬に幼い頃の出来事を思い起こさせたからだった。
瞬も、子供の頃に、氷河にシロツメクサの首飾りを作ってもらったことがあったのだ。
氷河も 好きな子を喜ばせるために一生懸命 シロツメクサの編み方を覚えたのだろうかと思うと、瞬の口許が自然にほころぶ。
少女の作っているシロツメクサの花輪を近くで見たくなって、瞬はその橋を渡ろうとした。
途端に、少女の鋭い声が瞬の足を止める。
「あなたは、こっちに来ちゃだめ! 来ないで」
「あ……」
彼女を怯えさせないようにしなければならないという用心を思い出して、瞬は小川のこちら側の岸に留まった。
そして、彼女が何者なのかを知るための質問を重ねる。

「君のパパとママはどこ」
「あなたはだあれ? 知らない人に教えていいのは名前と歳だけよって、ママが言ってたわ」
魔法によって作られた野原の住人にしては、妙に現実的な言葉。
瞬は、一瞬 声を詰まらせることになった。
「知っているんじゃないの? 僕を見ていたでしょう。城戸邸の庭で」
「キドテイって何?」
そう問い返してくる少女の口調に 全く淀みがなかったので、この少女と城戸邸の庭にいた少女は別の少女なのかと、瞬は本気でその可能性を考えたのである。
髪の色も背格好も、身に着けている薄緑色のワンピースも、二人の少女は全く同じだったというのに。

「城戸邸っていうのは、僕のおうちだよ。僕はパパもママもいないから、そこで暮らしてるんだ。君のおうちはどこ。君のパパとママは――」
知らない人でなくなれば、彼女は その警戒心を解き、彼女が何者なのかを教えてくれるだろうか――。
そうなることを期待して、瞬は、まず自分自身の情報を彼女に提示したのである。
彼女の警戒心が解けたのかどうかは 瞬には わからなかったのだが、彼女は、瞬が提供した情報と同じレベルのことだけは教えてくれた。

「私のママはおうちにいるの。でも、パパはいない。パパは、別の人のところにいるの。でも、いつか私とママのところに帰ってくるのよ。いつかまた、三人一緒に暮らせるようになるって、ママが言ってたもの」
「……」
少女は、母親と二人暮らし。
父親は、母子とは違う家で暮らしているらしい。
何か――親を持たない自分とは違う意味で、この少女は普通の家庭の子供ではないのかと思った瞬は、自分のそんな考えをすぐに――慌てて――打ち消した。

“普通”とは――“普通でない”とは、どういうことなのか。
“普通”という言葉ほど、差別や偏見を生む言葉もない。
その言葉に幾度となく傷付けられていた幼い頃の自分を思い出し、当たりまえのように『普通の家庭の子供ではない』などという言葉で思考を形作っていた自分自身を、瞬は後悔し反省した。
そんな瞬の苦い悔いを、少女の弾んだ声が中断させる。

「できた!」
瞬の後悔になど気付いてもいないらしい少女は、明るい瞳を瞬に向け、彼女が編みあげたシロツメクサの花冠を瞬に指し示してきた。
氷河と同じ金色の髪を持つ少女は、その瞳の色も氷河のそれと同じだった。
「綺麗にできたでしょう。ママは喜んでくれると思う?」
「うん、きっと」
彼女は、彼女の父親が母子と一緒に暮らしていないと言っていた。
とすれば、このシロツメクサの花冠は、彼女が、寂しい思いをしているかもしれない母親を慰めようと 子供心に考えて編んだ花冠なのかもしれない。
瞬が少女に頷くと、彼女は、氷河と同じ色の瞳を嬉しそうに輝かせた。
「ありがとう。じゃあね。さよなら」
「えっ」
瞬が短い声をあげることになったのは、あまりに唐突に少女の口から出てきた『さよなら』のせいだったのか、あるいは、彼女の『さよなら』に続いて起きた世界の変容のせいだったのか。

じゃあね。さよなら――彼女が別れの言葉を口にした途端、それが何かの合図だったように、春の野に あれほどあふれていた光は、むせかえるようにあふれていた光は、瞬時にすべて消え失せてしまったのである。
まるで舞台の照明が一斉に落とされでもしたかのように 世界は暗転し、光だけでなく、少女の姿もまた春の野から かき消えた。
それどころか、光や少女を抱いていた春の野自体が、瞬の周囲に存在しなくなっていたのである。

――瞬は城戸邸の庭にいた。
たった今まで、確かに うららかな春の日の午後の中にいたのに――いたはずだったのに。
瞬が 不思議な春の野で過ごしたのと同じだけの時間が、この城戸邸の庭でも過ぎ流れていたらしい。
瞬があの野原に迷い込んだ時 薄いすみれ色だった空は、今は紺色に近い色になり、空には幾つかの星が瞬いていた。

自分は夢を見ていたのだと、もちろん 瞬は思った。
それが、最も容易に、最も無理なく、この不思議を説明づけられる考え方だったから。
だが、瞬の記憶に残っているもの共は、夢にしては あまりにも――何もかもが鮮明すぎた。
少女の金色の髪、青い瞳、シロツメクサを編んでいた少女の指、一度聞いただけの歌の歌詞すら、瞬は憶えていた。

だが、これは ありえない事象である。
夏の庭が一瞬にして春の野原に変わってしまうなどということは。
そもそも、あの少女は何者なのか。
どこから現われ、どこに消えたのか。
彼女が現実世界の住人でないのなら、なぜ、何のために、彼女は今自分の前に現われたのか。
この不思議な出来事が起きた原因と意味が、何ひとつ わからないことが、瞬の感覚を怪しく揺らし、瞬の心を乱し戸惑わせた。






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