夢にしては鮮明すぎる記憶のせいで ぼんやりしながら、瞬は邸内に戻ったのである。
ラウンジの方から、これ以上ないほど“現実”を感じさせる星矢の声が聞こえてこなかったら、瞬の混乱は そのまま翌日まで持ち越されてしまっていたかもしれない。

「ミッチーはありえねーって! 沙織さん、なに考えてんだよ、ほんとに!」
世界には夜のとばりが下りかけているというのに、目が覚めるような星矢の大声。
「俺としては むしろ、沙織さんは何も考えていないのだと思いたいんだが」
星矢の声に比べれば はるかに落ち着いた調子の紫龍の声でさえ、あの春の野の幻想(?)よりは はるかに現実的な存在感がある。
瞬がラウンジのドアを開けたのは、自分が今いる世界が確かに存在する世界であることを確信できる仲間たちの声に引きつけられたからだったかもしれない。

「どうしたの、星矢、紫龍」
瞬が尋ねると、星矢が、不思議や幻想といった要素からは完全に隔絶された、これこそ現実と言わんばかりの声を瞬に向かって張り上げてきた。
「あ、瞬。聞いてくれよ! 沙織さんがさ、アフリカの何とかって国の駐日大使から九官鳥をもらったそうなんだけどさ、その九官鳥にミッチーって名前をつけるつもりだって言うんだよ!」
「九官鳥じゃない。オオイロコクチョウだ。ワシントン条約のリストに載っていてもおかしくないほどの珍鳥だぞ」
「黒くて でかい鳥なんだろ。九官鳥と大して変わんねーよ。九官鳥みたいに喋れない鳥だってんなら、九官鳥以下だ」

紫龍の律儀な訂正を、星矢が彼独特の理屈で全く無意味なものにする。
沙織の命名のどこに問題があって星矢が興奮しているのかがわからなかった瞬は、星矢の訴えの前で 首をかしげることになったのである。
星矢独自の論理展開はともかく、沙織が黒く珍しい鳥に『ミッチー』という名をつけることは、オオイロコクチョウなる鳥を九官鳥にしてしまうことより大きな問題を抱えたことであるとは、瞬には思えなかった。

「ミッチーじゃだめなの? 可愛い名前じゃない」
「可愛いかどうかはさておくとしてさ。そのミッチーって、どっから出てきた名前だと思う? 城戸光政から持ってきた名前なんだと。『みつまさ』だからミッチー。九官鳥にだぜ。俺は城戸の爺さんなんてどうでもいいけど、それって不敬って言わねーか」
「……」
オオイロコクチョウなる鳥が沙織にとってどういう意味を持つ動物であるのかを知らぬ身の瞬としては、ここで安易に『それは不敬だ』と言って、星矢に賛同することはできなかった。
しかし、沙織の命名行為が 一般的に『不敬』ととられても仕方のない行為だという星矢の主張までを否定することは、瞬にはできなかったのである。
一般的には、それは やはり『不敬』と呼ばれる行為だろう――と、瞬は思った。

「命名の際に、父祖の名をもらうというのはよくあることだが、それは人間同士の場合に、元の名を持つ人物の志を受け継ぐような人物になってほしいという願いを込めて行なうことだろう。ペットに父祖の名をつけるなど言語道断。亡き人に失礼だ」
紫龍の賛同を得た星矢は 彼の賛同者に元気に大きく頷いて、再び瞬に向き直った。
「言ってみりゃあさ。それって、おまえが 縁日で買ってきたヒヨコにイッキって名をつけて、氷河がオカメインコにナターシャって名前をつけるようなもんだぜ。オカメインコに最愛のマーマの名前をつけるか? 氷河だって そんなことはしねーぞ。小さくて可愛いヒヨコにイッキなんて論外だ!」
「小さくて可愛いヒヨコは、凶暴なニワトリになることもあるかもしれないぞ」
「そんなら、凶暴なニワトリになってから、イッキって名前にすりゃいいんだよ。ヒヨコのうちは、ポチとかタマとかにしといてさ!」

星矢のネーミングに関するセンスも、あまり一般的とは言い難い。
ヒヨコのポチやタマに苦笑することを余儀なくされてしまった紫龍は、その苦笑が収まると、一度軽く咳払いをした。
「たとえば、この先 氷河が結婚して娘ができて、その娘に母の名をつけるとでもいうのなら、それは母と娘への愛情の発露だと思うこともできるだろうが、オカメインコにナターシャはないな」
「氷河の娘?」
それは突拍子のない――それこそ 現実感のない仮定文だっただろう。
少なくとも、その たとえ話を口にした紫龍当人は、遠い未来にでも それが現実のものになるとは毫も考えていなかっただろう。
しかし、その仮定文は瞬の頬を青ざめさせた。

「あ、紫龍が言ったのは たとえだぞ、たとえ。それでいったら、氷河も沙織さんも 普通に結婚して子孫繁栄を図るなんてイメージ、全然ないもんな」
「氷河はどこかの誰かに夢中だし」
仲間の恋を知っている星矢と紫龍が慌ててフォローを入れてくる。
だが、瞬の頬の蒼白は元に戻らなかった。

氷河と同じ金髪の少女。
氷河と同じ色の瞳を持つ少女。
氷河が、子供だった瞬に作ってくれたシロツメクサの首飾り。
あの少女は、それと同じものを作ることができる。
“パパ”に作り方を教えてもらったから――。
この符合は何だろうと、瞬は思ったのである。

氷河に娘ができて、その子にナターシャという名をつける。
城戸邸の庭は夏の夕暮れ。
あの不思議な野原は春の午後。
時空がよじれて 城戸邸に繋がっているような あの春の野が、瞬が生きている世界とは異なる時間の流れの中に存在することは明白。
あの少女が、瞬にとって見知らぬ少女なのは、彼女がまだ瞬の世界の時間の内に存在していない人間だからなのではないだろうか――。

そんなSFのようなことがあり得るわけがないと思いはするのだが、城戸邸と見知らぬ春の野がつながっている現象は、SFでも持ち出さないことには説明がつかない。
『夢を見た』『幻影を見た』で片付けるには、あの春の野と そこに佇む少女の姿は あまりにも鮮明に瞬の目に焼きついていた。

いったい あの少女は何者で、何のために今 自分の前に姿を現わしたのか。
考えても、答えが得られないことは、瞬にはわかっていた。
だが、答えには辿り着かなければならない。
そう思ったから、瞬は 翌日、あの少女と出会った場所に再び足を向けたのである。
昨日、あの少女と出会った時刻に。






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